これも友情の形の一つですか
「龍征」
ようやく師走の並べるお題目から解放されて用意された客室へと向かっている途中、かけられた声に振り返ると通り過ぎた部屋の障子が僅かだけ開き、そこからそっと出された手が緩く手招いている。どんな怪談だと皮肉に呟くが、その声と女みたいに細く白い手の主には心当たりがある。何がやりたいのかと頭を掻きながら引き返し、手が引っ込んだ隙間から障子を開けて中に踏み入る。
十畳もない部屋の中央にちょこんと正座して待ちかねているのは、想像した通りの人物。
「東北風」
「久しいな。確かこうして会うのは、お前の祝言以来かな」
「そう考えると六年振りか」
同じ暦家の当主として、年に数回は顔を合わせる機会がある。しかし二人だけで話をするような時間を持つのは久し振りで、それをどこか懐かしく思うのはこの弥生東北風を相手にした時だけだろう。
暦家の当主は帝に拝謁を賜る機会が多いため、後継となるには帝に纏わる神事と礼儀作法その他をみっちりと叩き込まれることになる。何しろ筆頭宮家の豊原謡による承認を得られなければ、どれだけ血筋がよくとも当主となるのを許されないからだ。後継が幼く承認前に当主が死亡した場合も例外なく、後継候補が豊原の承認を得るまで当主不在になることも珍しくなかった。
それを避けるため後継候補はできるだけ早い内に内環に送り込まれて学ぶことになるのだが、東北風は元服してからのんびりと教育を受けに赴いた。そのせいで十一の龍征と十六の東北風は同時期に豊原で教えを乞うことになり、実に二年もの間、ほとんど毎日顔を突き合わせていた。
当時からやけにおっとりとした男だったが、何故か龍征は東北風を嫌いではなかった。自分でも短気なほうだと思うがすぐにかっとする龍征をのんびりと諌め、上手く付き合ってくれた。あの二年が面白かったと言えるのは、確実に東北風のおかげだと思う。
ただ友人としては面白い人物だが、暦家の当主として相対するには少々厄介な相手でもある。自分も弱みを掴んでいるが、それは東北風も同じ。味方にすれば心強いのは知っているが、一度敵となれば東北風はきっと龍征より容赦なく急所を抉ってくるだろう。
「そう構えないでくれ。懐かしい思い出話をするために呼んだわけではないが、まぁ、今回はお前と敵対する気はないよ」
「今回は、な」
正直なことでと語尾を上げつつ向かいに座ると、東北風は楽しそうに笑う。
「お前を相手に、腹芸をしたところでしょうがないだろう。時に、奥方はお元気かい」
「お陰様で、俺と敵対できる程度にはな」
自嘲気味に答えると、東北風はそのようだねと頷く。分かっているなら聞くなと睨むと、ふふ、と少し声にして笑われた。
「しかしお前と祝言を挙げると聞いた時も思ったものだが、奥方は面白いお方だね」
「まあ、そこが気に入って奥に迎えたからな」
「お前も大概だねえ。わざわざ敵を増やすように行動している」
「好きで増やしてるんじゃない、俺が俺のまま行動したら何故か敵視されるだけだ」
「お前も変わっているからね。前例を覆す者は、えてして排除されるものだよ」
分かっていて貫くのだから敵の数は仕方ないと肩を竦める東北風に、ふんと鼻を鳴らす。
「つまらん与太話はいいから、本題に入れ」
「師走の言動をどう受け止める?」
促した途端に直球で訪ねてくる東北風に、龍征は思わず片眉を上げた。適当に誤魔化そうかと思ったが、どうせ東北風には筒抜けだと諦めて息を吐く。
「信用する気にならない。が、如月の二に対する民の信仰くらいは承知してるだろう。会うなり斬って捨てることはない……と思いたいが」
「そうだね。如月の二には、きっとそうしないだろう」
意味ありげに同意した東北風に不審を向けると、東北風はそっと自分の顎に手を当てて気づいたかいと首を傾げた。
「師走は一度も、お前の奥方を如月の二とは呼んでない。霜月の奥、としか言ってないんだよ」
「だが如月の二は尊重すると、」
「そう。如月の二は尊重する、だ」
お前の奥方とは言ってないねと指摘され、龍征はこれ以上ないほど顔を顰めた。
確かに師走の口から、ほとんど如月の二という表現を聞かなかった。それは未だに根強い信仰を刺激しないようにの配慮、若しくは龍征に対する気遣いだとお人好しに受け止めていた自分に舌打ちする。言われてみればあれは、初雪が如月の二であるという事実をまるでないことのように扱っているとも取れる。心配しすぎだと笑う気になれないのは、師走の性質を知っているからよりも東北風という人物をよく知っているから。
弥生東北風が元服を過ぎてからようやく豊原に派遣されたのは、それまで後継候補に挙がっていなかったためだ。理由は一つ、生まれた時から目が見えないとされていたから。本当ははっきりとした輪郭を捉えられないだけでぼんやりした動きや色は分かるそうだが、それも随分と親しくなってからようやく明かされた。普段はまったく何も見えませんといった顔で接するため、よく人に侮られていた。どうしてやり込めないのかと他人事ながら腹立たしく尋ねたこともあったが、東北風はきょとんとした顔で、だってそのほうが身のためだと答えた。
曰く、人は自分より弱い者の前では取り繕わない。空気か何かのように扱われるのは人の本音を知りやすくて便利だと笑って答えた東北風に、それも戦略の内かと感心したのを覚えている。それに実際人より目が悪いのは事実で、それを補うため聴覚にも優れている。よく会う相手ならば声の抑揚だけで大体の感情の見当がつくといった、その東北風がわざわざこうして教えてくれるならば疑う余地はない。
「あの野郎……っ」
これが終わったら生きていようと死んでいようと必ず殴りつけると誓っていると、東北風がじっと見据えてくるのに気づいて目を向けた。
「何だ、不思議そうな顔だな」
「いや、お前は私の言葉を疑わないね。師走と仲違いさせるために言葉を弄しているのかもしれない、とは思わないのか」
「違えるほどの仲か。──何だ、疑われたいのか」
おかしな奴だなと眉を顰めると、東北風は困ったように笑ってふらりと視線を外した。
「お前は変わっているよ」
「もう聞いた。それよりお前は、如月の二をどうする気だ」
「さて。如月の二ならば民は剣を向けられないだろうし、お前の奥方なら私は敵対はしないよ」
お前の愚痴を言い合う相手を亡くすのは惜しいと真顔で答えられたそれにとりあえず伸ばした足で蹴りつけたが、緩いそれに押されて体勢を崩しながらひどいなと笑う東北風はまるで友人みたいな顔をしている。それなら自分が東北風を友人みたいに思っても仕方がないと心中に言い訳し、言ってろと吐き捨てる口許が笑っているのは見えずとも伝わっているのだろうと思った。