如月の二は、善たるや悪たるや
「終ーわったー……!」
後はもう何もしたくないとぐたりと伸びて嘆く初雪を眺め、龍征はちらりと苦笑する。妻のこんな姿を知っているのはきっと自分だけだが、こんなになるまで疲れ果てた姿も初めてだ。
如月の二として務めた後も、大変だ面倒だったと大仰に嘆きはするが、実際のところ神の教えを説くのは嫌いではないと知っている。たまに馬鹿みたいな舌戦になることもあるらしいがそれすら楽しんでいる、疲れて帰ってきても口許が柔らかく綻んでいるのがいい証拠だ。
それが、今日はない。眉根を寄せ、口許は引き結ばれ、解放されたというよりは何か重い物を呑み込んだかのようだ。
「そんなに重いなら、俺が片を付けてやってもよかったんだが」
「やめて。龍征君を恨みたくない」
淡々とした声で諫められ、龍征は僅かに眉を上げた。復讐の機会を奪うことを恨まれるのか、他の要因があるのかを判じかねて。
初雪は龍征の疑問を浮かべた視線に気づいたように目を伏せたまま苦く笑い、人の感情は複雑なんですよと遠くに向けてぽつりと呟く。
「死なせるのが忍びないのか、人死にを見たくないのか自分でも判然としないけど、あの人が死んだ後で自分が何を思うのかは自信がないの。あれでも親族だから……、殺した相手が憎くなるかもしれない」
だからやめてと何気ない様子の懇願に、そうかと頷いて傍らにどかりと座った。見向きもしない初雪を呼ぶと僅かに視線だけが向けられるので、自分の膝を何度か叩いた。何を意図しているのか察したようだが、何とも言えない様子で眉を寄せられる。
「……野郎の膝枕には何の魅力も感じないんですが」
「初雪」
激しく同意したい感想にもめげずに名前を呼ぶと、まだしばらく考えた後にもぞもぞと動いた初雪が近寄ってくる。そのまま仕方なさそうな様子で膝に頭を乗せてくるので、そっと髪を撫でる。どこか泣き出しそうに細く微笑い、子供になった気分と溢した初雪に龍征は僅かに目を瞬かせた。
「子供時分に、親にされた記憶があるのか」
自分にそんな経験がないのも然ることながら、如月常夜にできたのかという多大な疑問が口を突く。或いは母親にされたのかとも考えるが、初雪の口から兄弟以上に慕わしく親の話を聞いた覚えがないため可能性は低いだろう。
初雪は失礼なそのくらいと反論しかけたようだが、記憶を辿ってふらりと視線を彷徨わせた。
「ないけど、そんな気分なの」
「ああ、それなら分かる」
龍征も他人にした記憶もされた記憶もないが、今正に甘やかしている実感ならあると笑いながら答えると拗ねた顔をされる。余計に子供を宥めているようだと思うが言葉にはせず、気の向くまま頭を撫でる。いつになく何だか眠そうに目を伏せた初雪は、そうと小さく息を吐いた。
「疲れたか」
「まあ、ね」
歯切れ悪く答えた初雪は、ふと思い出したように目を開けて見上げてきた。
「龍征君も、お疲れ様」
交替すべきですかねと悪戯っぽく枕にしている彼の膝を叩いてくるので、また今度でいいと苦笑して返す。今度はないなあと笑った初雪は小さく身動ぎして頭の位置を調整し、寝やすい場所を探しているらしい。
「ごつごつしていて、枕には不向きかと存じます」
「慣れたらどこでも寝られるもんだ」
「家にいるのに、そんな悪環境で寝たくないけど」
「悪環境……、人の膝を何だと思ってやがる」
「寝難い枕」
反論の余地のない断言に龍征が目を据わらせると、楽しそうにくすくすと笑われる膝がくすぐったい。こちらも軽く身動ぎすると、枕は動かないのと諫められる。
「慣れないことはするもんじゃないな」
「自分が言い出したんだから、諦めて」
ようやく収まりのいい位置を見つけたのか大人しくなったのはいいが、笑み消すと影を帯びたような横差しが気にかかる。
命は奪えずとも、二は剥奪した。曇天にとっては何よりの復讐だと自分でも言っていたのに気が晴れた様子はなく、寧ろ師走と敵対すると決めた時のほうがよほど晴れやかな顔をしていた。今や親族といえば将弘くらいしか付き合いのない龍征からすれば到底解し難いが、兄の敵とはいえ血が繋がっていれば愛憎入り混じる複雑なものなのだろうか。
何にせよ慰めの言葉も思いつかない身としては、愁いた空気を受け入れるくらいしか術はない。
「……聞きたいなら聞いていいよ」
「あ?」
「さっきから空気がそわそわして、そのほうが落ち着かないし。巻き込んだのは私だから、龍征君が遠慮する必要なんてないよ」
第一らしくないと笑う初雪に、気遣いの意味を問いたくなる。それでも許されるなら少しでも愁眉の理由を知りたくて、僅かに躊躇って口にする。
「奴を追放するのが、そんなに苦痛か?」
顔も見たくないという発想はないのだろうかと純然とした好奇心で尋ねると、初雪はあの人に対しては特にどうとも思わないんだけどと言葉を探しながら答える。
「父様が今どんな心境なんだろうと思うと……、まあ、ある種の申し訳なさはなくもない、かな」
「どうしてお前が申し訳なく思う必要性がある」
「だって、如月では雷鳴以外を信用しないで誰にも話してなかったから。相談されていたら先に打てる手があったとか、説得できたとか、若しくは自分で敵を討ちたかったとか。思うところは沢山あっただろうに、その権利を私が奪ったなと」
「ああ……、弟が息子を殺したんじゃ、義父殿も複雑だな」
状況は把握していたのにいまいち理解に及ばなかったと軽く反省すると、初雪は複雑だよねと独り言めいて呟く。
「置き換えるなら、私が昊を裏切ったようなものでしょう。昊の心境を慮ると胸が痛い」
「──待て。義父殿の話じゃなくて、昊の話か」
大分おかしいと突っ込む龍征に初雪は、あ、と口許に手を当てている。
「私にとって父様は当主で、如月の一と言えば昊だから。一と二で考えると、つい昊が出てくる」
「まあ、それで言えばお前は昊を裏切らないだろう」
「父様にとっては、その裏切らないはずの二があの人だったんだよね」
「……そんなに多く面識があったわけじゃないが、義父殿とあの男が、お前と雷鳴のような関係性にあったとは思えないが」
「そう、かな。兄弟には他人の知らない時間があるじゃない」
色々とあったかもと息を吐くような呟きに、龍征はそういうものかと肩を竦める。
龍征にも兄弟はいた、弟が一人。過去形でしか語れないのは、六年前に彼が自分の手で殺して今はもうないからだ。当時当主であった父を殺して成り代わろうとした弟を阻止するにはそれしかなかった、愚かな真似をした弟に眉を顰めはしたが自ら殺めたことに対する後悔はない。後継争いは多かれ少なかれ暦家にはつきものだ、後悔に足を取られて動けないようでは当主は務まらない。
「如月は後継争いがないから特殊なんだろう」
「昔はあったらしいけどね。特に二を偽ると確実に血筋が絶えたらしいから、如月そのものがなくなるという恐怖には勝てなかったのだと思われます」
「? 血筋が絶えたなら、今の如月はどこの血だ」
「まだ直系が絶えたことはないから、宮家から薄らいで続くままだけど。偽った本人とその妻子、両親、妻の生家に続いては母方からじわじわと絶えていくみたい」
兄弟が尽きる前に誰かが反省して止まったらしいよと他人事のように語る初雪に、龍征は知らず頬を引き攣らせた。
「それはどこまで実話だ」
「どこまでもすべて。いくら普段は余所見が多い神様でも、数少ないこれと定めたことが破られるとお怒りは心頭に発するようです」
なので帝と如月の二には触らぬが吉と重々しく頷く初雪に、どこまで信じたものかと疑う気持ちが半分。ただ今まで一度も如月の二が途切れたことのない理由の一端に触れた気がして、気づかなかったことにしようと決める。
つまりはどれだけ迷信であれ偶然であれ、はたまた事実であれ無闇に初雪が害される可能性が低いならそれでいい。次の二が誕生するまでまだ年月を要する、その間は初雪がたった一人の二だ。自分に加護を与える二の存在なくして当代に歯向かう者もないだろう、今回のことは妻の身の安全を確保するためには必要なことだったと思えば安いものだ。
「お前はよくやった」
頭を撫でながら独り言のように褒めると、初雪の肩がびくりと揺れる。居た堪れないようにぎゅっと身を縮こめ、隠れたげに顔を伏せる。龍征の言葉を拒絶するような仕種をする理由なら見当がついて、苦く笑う。
「色んな人を巻き込んで……、挙句生温い処置しか下せていない。蛍ちゃんや槙ちゃんの仇討ちだって半端に終わらせて、私がやったのは手を貸してくれた全員に迷惑をかけただけなのに……っ」
何をやったと言うのかと自嘲するように嘆く初雪の声は、俯いていて聞き取り難い。褒められたくはないと逸らした顔だけで強く主張されるが、龍征は阿呆かと軽く吐き捨てる。
「じゃ何だ、お前はあの成り損ないの思惑通りに死んでやりたかったのか? 昊の敵も討てず、ただの二の舞を演じるのが望みか」
「っ、それは、」
できないから八年も尻尾を出すのを待って決行したんだろうと肩を竦めると、初雪はぐっと言葉に詰まって拳を作る。まるで責められた子供みたいな様子に、そうしなかったのを褒めてるんだぞと撫でていた手で軽く頭を叩く。
「金谷も狭霧も、止めを刺さなかったのは自分たちの意思だ。お前に感謝しこそすれ恨んでないから、まだ護衛を続けるんだろうが」
最後の命令は果たされたのだから解放されればいいと御前会議の後で初雪が二人に告げたが、どちらもまだ果たされていないと頑として譲らなかった。亡くした主人に代わるとまではいかずとも守るには値すると判じられたのは、ここに至るまでずっと初雪を側で見続けたが故だろう。
正直に言えば、自分の家臣にもならない男が二人も初雪の側にいるのは龍征としては甚だ面白くない。けれど彼には霜月の当主として行動せねばならないことが多く、その時に家の思惑とは別に初雪のためだけに動く護衛がいる意味は大きい。仇討ちが果たされた後は信用ならないと追い出す気でいた龍征も自分たちから続けると言い出した二人を今更疑う気にもならず、最初に受け入れたのと同じ理由で許可を出した。
しかし初雪からすれば二人の人生を捻じ曲げたと負担に思っているのは、固く結んだ口許からも窺い知れる。これが他人ならあまりの頑なな様子に辟易し、手に負えにないと信康あたりに放り出すところだが。この素直ではない頑固な女は紛れもなく龍征の奥であり、何より大事な存在になってしまった。されたことはないが幼い頃には確かに望んだまま、優しく愛情を込めて撫でながら続ける。
「御前会議で帝は、十二家すべての首を挿げ替えよと吐き捨てて退座された。あれは演技じゃなく、どこまでも本気だったろう? 戻っていきなり処分が軽くなったのは、お前が取り成したからじゃないのか」
「、縁様だって本気であれを実行される気は、」
庇うように反射的に反論したものの、ないと断言はできずに初雪は言葉を濁した。けれどそれがなくともあの場にいたすべての当主は、帝の本気を感じ取っていた。お飾りの国主と侮っていた全員が一瞬で考えを改めるほど、逆らってはならない“帝”だと肝に銘じた。暦家の生殺与奪さえ握る、絶対的存在なのだと。
帝にとっても、今回のことは暦家を篩にかけるいい機会だったのだろう。今までも自ら暦家の処断に動くことは容易かったはずだが、それをしないでいたのは直接動けば民の動揺を招いたから。あくまでも国のために黙って侮られていた帝も、けれど生涯に渡って臆病な腰抜けを演じる気はなかったと思い知らされた。外環を盛大に掻き乱した二の思惑に乗る形で十二家の首を押さえつけ、無言のまま力関係を明示した帝に国を背負うのは誰かと痛感させられた暦家当主は、しばらく謀反も企てられない。
「帝にも思惑があったからこその黙認だった。お前が事を起こしたおかげで帝の権威が戻ったんだ、何より二の役目と誇れ」
「そもそも帝を蔑ろにしている暦家に問題があったんだし、それを正されたのも縁様じゃない」
「めげずに後ろ向きな女だな。いい加減、すべて自分のおかげかと調子にくらい乗れ」
俺の努力を無駄にする気かと語尾を上げると、まだ文句を言いそうに見上げてくる初雪を見据えて仕方なく笑った。
「他の誰が──例えばお前が自分を許せなかったとしても、俺はお前を肯定してやる。俺にとっては、お前が死なずに済んだ今が何より上出来だ。如月の二や、如月初雪としてどれだけ責められようと、間違うな、お前は霜月初雪だろう。俺がいいと言えばそれでいい、それ以上のことは俺に押しつけろ。それで潰れてやるほど柔くはない」
如月の二であると知った上で、それでも初雪がよかった。現実が見えていないと散々と家臣に、何より初雪本人に指を突きつけられたがそんなことはどうでもよかった。初めて自分から手を伸ばしたい相手が初雪しかなかったのだから、仕方ない。
「っ、君はちょっと私を甘やかしすぎ!」
「自分の妻を甘やかして、何の罪に問われる」
「女で身を滅ぼす馬鹿な当主の逸話を知らないの!?」
「そこまで馬鹿と思われるのも心外だが、お前に国を滅ぼす気があるなら助けるくらいはしてやるぞ」
「~~っ、今でも十分馬鹿でしたね、知ってたっ」
駄目だ悪魔がいるよ間違った道を示す烏がいるよーと真っ赤な顔を隠したげに頭を抱えて嘆く初雪に、龍征は堪え切れずに吹き出した。からかったのと恨めしく睨んでくる初雪に、違うと笑いながら否定して額を撫でる。
「お前が善たろうと悪たろうと、愛した以上は受け入れる」
どうあっても受け入れてやるから好きに振る舞えと請け負うと、赤い顔のまま拳を震わせて言葉を探したらしい初雪はやがて手を開いて顔を覆うとぐすぐずと龍征の膝で融けた。
「如月の二に振り回された男として、後世に名を残しても知らないからね」
「は。お前と共に残す名なら悪くない」
「ちょっとは嫌がるべきだと思う!」
もう知らない寝ると背を向ける初雪は、それでも龍征の膝を枕にしたまま。労うように頭を撫でて、ゆっくり休めと囁けばどこかほっとしたように肩から力が抜けたのが分かる。
外環を分断しかねなかった今回の騒動において、如月の二は戦の火種を撒いたとされるのか、帝の怒りを解いて暦家を救ったとされるのか。後世にどんな風に伝わるのかは知らないが、龍征からすれば怖い女で可愛い奥、それだけでいい。




