世の中には知らずともいことは存在するのです
引き上げていく神職を見送る初雪を眺めながら、龍征は相変わらず食えない女だと心中に呟く。
暦家の当主は多かれ少なかれ、誰しも残酷に冷徹になれる。領地を治めるに必要な判断を下せなければ領主である意味がない、為政者として当然あるべき資質だ。如月の二は領地を持たないとはいえ神職の頂点であり、いくら血で選ばれるとはいえそれができないようでは今頃この国の宗教は破綻している。普段はふわふわして気安いだけの女と思われているが、さすが姉弟で揃って怖いと評する昊と同じ血が流れていると言うべきか、必要ならば冷酷な指示も出せる。
(まあ、冷酷ではあっても残酷とは言えんし、命令よりは指示が精々だがな)
それでもやるべきを知って行動に移せる、それも龍征が気に入った点の一つだ。
この後の行動に察しをつけた龍征が初雪の背中を眺めている間に神職たちの姿が社に消え、見届けた初雪は境界の注連縄の上の空間に指で神印を描き始めた。
「不浄を帯びたる社なれば神の御許に一度神聖をお返しし、再びの清めを賜らんことを」
小さく唱えた初雪は空間の一点を指すように指を出したまま、龍征に振り返ってくる。やり方こそ知らなかったが、概ねやろうとしていることは予想通りのようだ。
「壊すのか」
「神聖を一時断つだけ」
わざとの聞き返しに声を尖らせられ、軽く肩を竦める。分かっているだろうにと言いたげに目を細められ、先ほど初雪の血を僅かながら吸った剣を抜くと目許が和らぐ。同時にと短い初雪の言葉でも諒解し、縦線を引くように指を動かすのに合わせて注連縄を断った。
あー、と複雑そうな声を出したのは雷鳴だけで、初雪の後ろには薄氷が影の名に相応しく音もなく出現している。驚いた様子もない初雪は、振り向きもせず己の影に声をかける。
「一旦ながら神に神聖をお返しした以上、ここはしばらく神社に非ず。──もう入れるよね?」
短い確認に薄氷は小さく、けれど力強く頷き、いつの間にか増えている萌揺を引き連れてまたそこから消えた。これで曇天に従っていた誰かが庇うべく動くのを妨害できれば、新たな証拠としての確保もできるだろう。関わりのなかった者は別の社に移ればいい、この機に一掃できるならいいことだ。
しかし元より暦家を継ぐべく教育を受けていないらしい雷鳴は、龍征ほど割り切って受け入れられないらしい。如月の二ではなく姉の背を僅かに眉を顰めて見据え、独語するように言う。
「……俺は時々お前が怖い」
「あらあら。暦家の次期当主が生温い」
昊なら私が動く前に動いているはずと振り返りながら初雪が肩を竦めると、雷鳴は額を押さえて蹲っている。
「俺は絶対、昊にも初雪にもなれない」
「──子供時分ならともかく、まだそんなことを言っているなんて愚かだね」
「お前……」
俺は真面目に反省しつつ落ち込んでるのにと目を据わらせる雷鳴に、初雪は嘆くように頭を振っている。
「人それぞれに生き方も性格も違うから、やり方も違うんでしょうに。三から一になった雷鳴には、雷鳴なりのやり方があるでしょう。憧れや目標を掲げるのは止めないけど、思い込みが過ぎた成れの果てがあの人だから。そこは忘れないようにね」
叔父はともかく弟の始末は御免ですと複雑な顔をする初雪に、雷鳴は反応しかねたように顔を顰めている。
「初雪は大丈夫なのか」
「大丈夫って、何が?」
「っ、だから。二の廃止がどうのって、」
帝に嫌われているのではないか、とさすがに直接は尋ねられなかったのだろう雷鳴の回りくどい問いかけに、初雪は大丈夫なのではないですかと他人事のように答える。
「二が廃止されて恐慌するのは父様くらいでしょう。仮に神職まで剥奪されても、私が宥めて回れば皆はそう恐慌せずにすむと、」
「待て。お前は二を剥奪されても無事でいる気か」
思わず口を挟んでしまった龍征に、初雪が恨めしげな目を向けてくる。
「龍征君の言い分だと、まるで死んでほしいように聞こえるけど」
「そんなわけがあるか。ただ相手の出方を知ると知らないでは、対処が変わってくるだろう」
「因みに私が殺される予定だと、」
「明日の御前会議はいい機会だな」
「笑顔で謀反の計画を立てないでっ!」
清々しい笑顔でさらりと答える龍征が、どこまで本気なのかと初雪が悲鳴を上げる。失礼な話だ、彼はいつだって本気だ。
出番? とばかりに目を輝かせて身を乗り出させた蛍に、絶対にしませんと釘を刺した初雪は複雑な顔をしている雷鳴を見つけて首を傾げている。どうしてそんな顔をしているか本気で分かっていなさそうな姉に、雷鳴は思わず遠い目をする。
「尚侍の態度を見てれば、帝が初雪を殺すって言っても止めてもらえそうではあるけど。二の剥奪がどうのって言い出されるくらいなんだから少しは危機感を、」
「二の廃止を唱えているのはゆかちゃんだし、縁様は私を便利な停止装置と思っておられるから意地でも二を存続させたいと思っておられるよ?」
殺される可能性も低いと思うと不可思議そうな顔をする初雪に、今までは黙ってはらはらと胃を痛めていたらしい信康までが雷鳴と一緒に顔を上げて、は!? と聞き返している。声こそ出さなかったが槙也も似たような顔で、龍征もさすがに予測していなかった真相に眉根を寄せた。
どうでもよさそうな蛍は話を理解する気もないのだろう、後は一人戸惑った顔の将弘が何故か初雪ではなく龍征たちの顔を窺ってそろりと尋ねてくる。
「えーと、俺、さっきから全然話についていけてないんだけど。いっそ龍より神様より帝大事発言の多いしろちゃんが、帝と不仲だって話をして、る……?」
まさかねと恐る恐る確認する将弘に、そう言われるとと全員がはっとする。
巷では如月の二は慈悲深いと評判だが、初雪をよく知る面々は無条件に誰にでも発動する親切ではないと知っている。好意には好意を、敵意には敵意を返す鏡みたいな性格で、僅かでも敵意を向けてくる相手に心からの敬意や好意を持ち得ない。多分に相手が帝であろうと変わらない根幹の性質を知っているなら、そもそも帝に嫌われているの言葉からして疑うべきだったのか。
「でもお前、帝に嫌われてるって!」
うっかり他人の目を忘れて口走った雷鳴に、初雪はあっさりと頷く。
「帝は如月の二がお嫌いだ、とは言ったね」
「「っ、はあ!?」」
理解できないとばかりに聞いていた周りの声が揃い、初雪は何が分からないのか分からない、といった様子で首を傾げる。
「私が皇居に赴くのは二としてだし、役目を果たせば帰るのが当たり前なんだけど。ゆかちゃんは基本的に暇を持て余しているからよく引き留められて、その度に二としての務めがあるからって言うと『二など嫌いじゃ、やめてしまえ!!』と激昂されるのです。生まれついての役職なので無理ですって返したら『二の制度など廃止してしまえー!』と」
「それはつまり、初雪のことが気に入っているからこそ縛る役職が嫌いで廃止してしまえ、と……?」
「だろうね。二を廃止すると私が皇居に行けなくなる、という発想はまだ持っておられないらしいから」
何れ縁様が切り札として使われるだろうから黙っていますとさらりと答えられ、雷鳴が膝から崩れて地面に両手を突いた。
「昊と寝ないで対策を練って本気で恐ろしい事態に備えてた、あの時間と恐怖を返せー!!」
「よかったね、今取り返せたよ」
「遅い!! ていうか昊の馬鹿野郎、こんな時にいないなんて、この屈辱を噛み締めるのが一人なんてー!!」
そっちに行って知ったなら夢枕にでも立って教えてくれよと空に向かって叫ぶ雷鳴は、現実逃避の見本みたいなものだろう。とりあえず謀反を企てる必要がなくなった龍征は、けろりとそこに立つ初雪に目を向けた。
「お前の言う帝は、尚侍を含むのか」
「縁様とゆかちゃんは別人だけど、帝の務めはお二人で果たされているから。私が指す帝は、常にお二人です」
どこか自慢げに胸を張る初雪の言は、まるで家族を誇るかのようだ。成る程、縁が何をどうしようとも見捨てないわけだと納得して苦笑する。当代の如月の二は神職らしからずとも、誰より家族を大事にするには違いないのだから。昊に手を出すことがなければ、きっとあの男さえ家族の内として扱っただろう。
(そう思えば、昊は身体を張って初雪の目を覚まさせたのか)
何気なく考えたそれに、龍征は突然冷水でも浴びせられたような気分になる。
会ったことこそないが、話を聞く限りは優秀な後継だった昊であれぱ曇天の思惑に早くから気づいていたのではなかろうか。口でどう諭したところで家族の括りを解かない初雪に現実を見せるため、一として為すべきを自覚していたら?
敵をそうと知れば、初雪は自分と弟の身を守るくらいはできるだろう。易々と死ぬ気はなかったとしても、家族のためになら命を賭す覚悟があったとすれば。もし昊が手助けできなくても二が二として立ち、如月も繋がっていくと知っていたなら万が一に命を落としても構わないと──、
「龍征君?」
いきなり黙ってどうかしたと顔を覗き込んできた初雪の声で我に返った龍征は、何にも気づかなかったような顔で笑うと手の甲で初雪の額を撫でる。何事かと目を瞬かせて龍征が触れた額に手を当てた初雪は、言葉を呑んで苦く笑う。
野暮はするまい。
例えば今の予想が当たっていて、初雪も同じ結論に達していたとしても。知らない顔でただ兄を悼むなら、そうさせてやればいい。どう足掻いても真相の分からない事態に仮説を立てて鬼の首を取ったが如く披露したところで、何の益があるのか。長く如月に巣食っていた病巣を取り除けたなら、それだけが揺るぎない事実であり喜ぶべき事態だ。
等々、龍征が達観している側では雷鳴が低く笑って頭を掻き毟り、身体を起こした。
「もういい、もう知らん。御前会議が終わって当主たちが戻ってきたらひどい騒ぎになるのは目に見えてるんだから、今の内に俺は仮初の平和を満喫する……っ」
「あ、もう現実逃避は終了?」
「ある意味で続行中だ、話しかけてくるな、すべての元凶!!」
如月が安泰ならいいことなんだと自棄気味に吐き捨てた雷鳴は疲れた様子でふらふらと歩き出し、槙也と蛍を促した後で信康や将弘に義務的に目を向けた。
「大雪の方々もどうぞ、屋敷にご案内します。お疲れでしょうから、ゆっくりしてください。ええ、心行くまでゆっくり……」
「素直に礼を言うのは憚られるけど、ありがとう……?」
「後継に申し上げることではないだろうが、心中お察しする」
引き攣った顔で礼を言う将弘と、心から同情している信康に雷鳴はふっと遠い目をして複雑な様子で笑い、無言で先に立って歩き出す。背中が何やら物悲しい。
大丈夫なのかとさすがの龍征でも心配する様相を呈しているが、ちらりと視線をやった先の初雪は目が合うとにこりと笑う。
「大丈夫、大丈夫。きっと今日にも夢枕に立つ昊に愚痴り倒して、明日には復活するから」
「それはどこまで本気だ?」
「あらあら。神職は近い未来なら見通せるものと相場が決まっております」
胡散臭い笑顔で答える初雪が嘘を言っているようには見えない、きっと何かしらの根拠があるのだろう。それが神職の性なのか、姉弟の経験かまでは知らないが。
「お前と家族になるのは一苦労だな」
「それは遠回しな離縁の申し出ですか」
「は。言っただろう、知ると知らないでは対処が変わってくるだけだ」
どこか拗ねたような言葉に軽く笑い、手の甲で額を軽く叩くと初雪は恨めし気な目を向けてきたが僅かに口元が緩んでいる。離縁しないのが分かって嬉しいのか、謀反を起こしてもいい程度には大事に思っていることを痛感したのかは知らないが。すべての真相に然り、気づいても知らなくてもいいことはあるものだ。
 




