不文律の意味を、何方かご存じですか
「初雪嬢」
控えめにかけられた声ではっと目を開けると、雷無がどことなく心配そうな目を向けているのに気づく。自分が思うよりは感慨に耽っていたらしいと苦笑し、改めて二人に向き直る。
「これを放置していたは如月が罪、謝して済む話ではありませんが心からお詫び申し上げます」
望まずとも血縁である以上、本人がしないだろう詫びを口にして深々と頭を下げる。晴らしたいのは二人の気よりも自分のそれだと自覚はありながらも、あまりの無礼を詫びずにはいられない。
波達羅盈はちらりと雷無と視線を交わし、ふんと鼻を鳴らした。
「まったくだ。と言いたいところだが、主とて過つことはあった」
「我が殿も、あなたを浚うが愚かを働かれた。それを水に流してくださったあなたを、私が責めるわけには参りません」
自身で罪を購わせればいいと口を揃えた二人は、それにしてもと転がる曇天を一瞥して目を眇めた。
「責めるわけではないのですが、今までこれを始末できなかった理由はお伺いしても?」
「それでも一応、如月の二であるからです」
曇天への嫌悪を隠そうともしない不快げな雷無の問いかけに苦笑がちに答えるが、二人ともにあまり理解の色が広がらないのも仕方のない話だろう。
忍衆は基本的に、神を絶対とする信心を持ち合わせない。彼らにとって絶対なのは主だけであり、その命がどれだけ理不尽であろうと逆らわないのが常だ。相手が神職だから切れないなど、普通の忍にとっては考えにも及ばない。
ただ二を擁する如月の忍衆、萌揺に関してだけはその限りではない。何しろ仕えるべき相手が、その神職なのだから。
「先ほど話題にも上っていましたが、萌揺は例えどんな場合でも二を害してはならない、とされているのです」
今では如月の忍衆という認識をされているが、正確なところ萌揺は二のために組織され、二のために存在している。如月に属すると見えるのは二を守護するために協力するところが多いからで、仮に当主と二が反目することになれば萌揺は躊躇なく如月を潰すだろう。
その萌揺にとって、当代ならずとも如月の二であれば決して害してはならない主に等しい。例えば初雪に対して血の契約を結んだ薄氷でさえ、初雪が敵と目した曇天でも直接主を害さない限りは手出しできない。それほど萌揺にとって“二”は絶対だ。
「しかし主の身を守るは忍の本懐だろう」
明らかに殺意を持って対峙する曇天は排除すべきだったと眉を顰める波達羅盈に、初雪はゆっくりと頭を振った。
「今この場にいれば勿論、薄氷もそうしたでしょう。けれどこの神社は神職以外の立ち入りを禁じられているせいで、萌揺は入れません」
「自分の主が確実に危険な目に遭う、と分かっていてもですか」
「勿論、ここに来ると告げた時は止められました。あまりに私が聞かないものだから最後には襟を掴んで持ち上げられ、蔵に閉じ込められるところでした」
「……それもまた、極端だな」
主に対してと軽く引き気味に波達羅盈が呟くが、そうまでして守りたがった忍が入ることさえ許されないと言われた神社をぐるりと見回している。信仰心に薄い龍征と同じく、ただの不文律を遵守する気持ちが解し難いのだろう。何かしらの罠でもあるのではと疑る姿が龍征に重なって見え、初雪は苦労して笑いを堪える。
「ご心配なく、お二方から一度だけとお許しを得た“助力”を危険には晒しません」
どうしても笑って揺れた声を誤魔化すように一つ咳払いをした初雪は、話を戻す。
「ともあれ二を守る措置として長く続いたあり方を、今になって覆す真似もできません。ただそのせいで今回のように外部の手をお借りできないと、二が増長するまま放置するしかないのです」
よほど目に余れば帝が排除にも動いただろうが、その点、曇天は表面上だけでも上手く取り繕っていた。神を笠に着て驕っていようとも神職としての務めは果たしていたし、自分に逆らわない者には慈悲も施していた。帝さえ下に見ていたのは問題だが直接目通りを許されない立場だからこそ発覚することもなく、遠巻きに見る分には二として仰ぐに不足はなかったはずだ。
「成る程。当代ではないからこそ驕り高ぶり、見過ごされたわけですか」
「これを機に、萌揺も教育を変えてはどうなんだ」
迷惑だがと言下の苦情に、身に染みておりますと苦笑するしかないが、
「お二方の主殿を諌められる者も、なかったわけでしょう」
こちらも迷惑でしたよと軽く突き返せば、ふらりと視線を外される。誰もに触れてはならない場所があると知るのは、いいことだ。
「とりあえず今回は神社に金気を持ち込んだのですから、重罪に問えます。ここから出してしまえば、薄氷が取り押さえることも可能ですので」
「お待ちください。金気も何も、当代を害しようとした時点で極刑は免れないのでは?」
「確かにその通りですが、生憎とここは神職以外が立ち入れぬ場所。お二人に証言を求めるわけにもいきませんので、これから人を呼んで抑えられる現場は金気の持ち込みが精々かと」
「七面倒臭い……」
手っ取り早く蹴りをつければどうなんだと波達羅盈が顔を顰めるが、できるならお互いにもっと早く実行している。
曇天にしても初雪にしても、互いを排除するにはただ殺し合うだけですまない。関与を窺わせないほどの入念で回りくどい準備をして蹴落とすか、二として不適合という確実な証拠を押さえて帝に訴え出る以外に術がない。帝に対する完璧な申し開きができなければ、互いはおろか如月の家ごと潰れるしかないからだ。
つくづく面倒だと言わんばかりの目で見られるが、そもそも如月の二という存在自体が面倒で厄介なのだから仕方ない。
「ただそろそろ私の無事は知らせないと面倒なことが、」
起きそうな気がすると口にするより早く、初雪!! と悲鳴みたいな声が遠く聞こえる。一瞬そちらに視線をやった忍の二人が確認するような目を向けてくるので小さく頷くと、一礼だけして姿がふっと消える。羨ましく眺めた初雪はゆるりと頭を振って気を取り直すと、制止に努めている神職たちを助けるべく襖を開けて廊下に出た。
「どうかそれ以上は、こちらは神域にございますっ」
「いくら尚侍であられようと、お控えください……っ」
何卒と懇願しつつも身体に触れることなどできようはずもない神職を振り切って、ずんずんと遠慮なく突き進んでいるのは声から想像したままの姿。しかしどうしてその後ろに、あまりに見知った顔が並んでいるのだろう。
「あ、姫様」
「初雪!!」
蛍の暢気な発見の声にはっとした尚侍は、初雪を見つけると泣き出しそうに顔を歪めて礼儀も行儀もかなぐり捨てて駆け寄り、痛いほど抱き締めてくる。
「無事か、怪我はないか!? 痛いところはないか、血など出ておらんじゃろうな、ひどい目には遭うておらんか!?」
「あれ、全部同じこと聞いてるよな」
「それだけ恐慌しているんだろう、そっとしておけ」
確認するようにぺたぺたと体中を触りながら尋ねる尚侍を他所に、蛍と槙也が心なしほっとした様子で受け流している。その後ろには禁足地なのにーっ! と頭を抱えている雷鳴と、あまり意味が分かっていない顔の龍征、隣に心なし顔色の悪い弥生と揃っている。
不文律もへったくれもないなと軽く遠い目をした初雪は、処罰を覚悟した顔をしている神職たちに下がってていいよと促す。しかしそれではと一度は食い下がったが、任されるからと頷くと即座に踵を返して離れて行く。
逃げられるものなら、初雪も逃げたい。ただそうすると誰も纏める者がいなくなるので、仕方なく今出てきたばかりの部屋を示して促す。
「既にここまで来られた以上、追い返すわけにも参りません。よろしければ、こちらの部屋にどうぞ。ああ、中に倒れてる人は起きると暴れかねないのでご留意ください」
「初雪、できたら俺は遠慮したいっ」
「あらあら、雷鳴は強制参加です。神社に足を踏み入れた時点で一緒だって、今更」
神様には後で言い訳しなさいとひらひらと手を揺らし、未だに無事を確認するのに必死な尚侍の肩を宥めるように撫でた。
「ゆかちゃんも、ほら、私は無事だから。一旦落ち着こう」
「落ち着けるわけがあるか! 妾がどれだけ心配したと思うておるのじゃ!」
「うん、苦情も聞くし説明もするから。聞きたくないなら出て行ってくれても構わないけど」
「妾を除け者にするな!」
「じゃあ大人しく入ろうね」
ほらほらと肩を押して促す間にも、部屋の無事を確認するべく先に蛍と槙也が入っている。姫様何これーと中から届いた疑問の声に、邪魔なら端にやっておいてと適当に指示するとはーいと返事される。いやお前それってあれじゃないのと不安げに雷鳴が尋ねてくるが、あれとかそれでは分かりませんと惚けて当たり前の顔で横に並んだ龍征を軽く見上げる。
「それで、君はここで何をしているのかお聞きしても?」
「狭間橋を渡ってたら往路を逆走してきた尚侍に、勅命を以って警護を言いつけられた」
「っ、申し訳ありません、一応神社の前でお止めはしたのですが……っ」
顔色が戻らないまま申し開きを試みる弥生に、止められませんよね分かりますと深く頷く。
「文句があるなら出て行けばどうだ、東北風。雷鳴はともかく、誰もお前に入れと強制はしてないだろう」
「ここまできて放り出されるほうが気になるだろうがっ」
面倒そうに手を揺らした龍征に噛みついた弥生は、初雪の視線を気にしたようにはっと威儀を正すと丁寧に一礼してきた。
「如月の二が許可してくださるのならば、同席させて頂きたく存じます」
「ゆかちゃんの護衛が勅命とあらば、許されないことなどございません」
諦めた雷鳴も渋々と入っていった部屋を示すと、弥生は一つ息を吐いて尚侍に続く。
やっぱり面倒臭い事態になったとこめかみを押さえると、龍征が無事かとぼそりと確認してくる声に知らず伏せていた目を開けた。心配そうな目は身体の傷を案じているわけではなさそうで、ふと口許を緩める。
「うん。だいじょうぶ」
ありがとうと頷くと、確かめるように伸びた手がそっと頬に当てられる。ほっと息を吐き出して、どうやら緊張していた身体から力を抜く。
残念ながらもう一仕事ほど待っているが、この手があるのを思い出せば何とか乗り切れそうだ。
 




