手を貸すの言葉は、信じるに足ると存じています
睨むように向き合っていた曇天は、聞き分けのない子供を諭すよりは侮蔑を込めて見捨てることを選んだらしい。先ほどまでは叔父として二としてそれなりに取り繕っていた雰囲気を一変させ、憎々しげに吐き捨てる。
「帝が如月の二を蔑ろにする原因はつまり、お前があまりにも二の自覚に欠けるからか」
「お言葉ですが、私も生まれた時から如月の二なれば」
自覚も何もと困ったように自分の頬に手を当てて見せれば、曇天が即座に睨めつけてくる。あからさまなまでの敵対する意思に、対抗するように笑みを深める。
「神の声に従い、帝も含めた水穂の民草を導くのが神官の役割だと教わらなかったか」
「そのような不敬を、何方に習うのです」
あまりの暴言に思わず目を瞠ると、曇天は度し難いと深い溜め息をつく。
「如月の二とは神にのみ仕えるものだ、帝に仕える只人が如き愚かを説くは昊の教えか」
どうやらどこまでも本気らしい曇天の嘆きに、初雪は怒りを覚えるよりも薄ら寒くなった。
初雪はよく神職のくせに不信心だと指摘を受けるが、まさか神を否定する気はない。神は確かにおわすとは思う、ただ神職が日々の説教で解いているほど熱心に、人に興味を持っておられるとは考えていないだけだ。
(無関心か放任主義かは知らないけど、そうでもないと帝が国を治められる理由がないじゃない。確実に間違いを犯す人に任せるより、全知全能であられるなら神が御自ら治められたほうが手っ取り早いし間違われないんだから)
それをしない、できないからこそ神は人との間に一線を引かれた。けれど神に見捨てられたとは思いたくない人が、神との繋がりを求めて宗教を、引いては神職を作り出したと思っている。
大っぴらに主張したことがないのは決して自重してのことではなく、それだけは一生涯二度と口にするなと、死にそうな顔色をした昊と雷鳴の二人がかりで縋られ諌められ懇願された挙句に誓わされたからだ。案外真面目に守っているがその間に考えが変化するではなく、初雪の認識としては“神はおわすけれど傍観者”でしかない。
勿論、信仰のありようは人それぞれ自由なのだから自分の考えを押しつける気はないが、反対に誰かの神様論を受け入れる気もない。曇天の言う、水穂の絶対は神であり、その代弁者たる如月の二が帝よりも尊いなど到底受け入れ難い暴論だ。
「例え神にお仕えする神職と言えど、水穂にある者は須らく帝の臣下です」
「帝ではない、神の僕だ!」
「神の僕たろうとも、帝の臣下です」
このまま続けても平行線だと理解していても、初雪は主張を翻す気はない。仮に相手が龍征だったなら、交わらないねと苦笑して話を終わらせることもできる。けれど目の前で戯言を繰り返すのは、他ならぬ二であるはずの曇天だ。曇天からすれば初雪こそが戯言をほざいているように見えるのだろうが、
当代ならずとも死ぬまで二である曇天が帝に翻意を持っているなど見過ごしていいことではない。
「二としてのあるべき姿が重ならないのは存じておりましたが、まさかこれほどとは……。今まで口にすることは控えておりましたが、ここに当代の二として宣言致します。あなたを次の当代には致しません。何が起きようとも、絶対に」
優美に笑いながら断言した初雪に、曇天は怯むことなく鼻で笑った。
「愚かな。お前がいなくなれば私以外に二がない状況で、叶うと思うか」
「これまでの話の流れで何故叶わないと思われるのか、解しかねますが。帝が二を廃されればよいともう何度も申し上げたつもりですが、聞いておられなかったのですか? ひょっとして眠っておいででしたか、相当にお疲れが堪っておられるのですね」
さすがに寝言としか思えぬ発言でしたから少し安心致しましたと笑みを湛えたまま続ける初雪に、曇天は両手で扇を引き絞るように握りながら立ち上がった。細身だが上背のある曇天が座したままの初雪を見下ろすとひどく威圧的だが、臆した様子もなく真っ直ぐに見上げた初雪の目も挑戦的だ。
「愚かもここまでいくと、いっそ哀れだな。ここは私の宮だと忘れたか」
「当代にはなれない二が啓蟄でのみ唯一治めることができる神社、が正しいかと存じます。……幼い頃とは違うのですから、そのように敢えて間違ってみせられずとも」
昔と違い今は自分が正しているのだと強調すると、曇天の持つ檜扇がみしりと音を立てた。初雪の代わりであろう扇は、今にも圧し折られんとしている。
曇天は憎々しげに初雪を見下ろしつつ、殊更ゆっくりと呼吸を繰り返すことで感情のまま怒鳴りつけるのを堪えているらしい。扇はもうきちんと開きそうにないが、犠牲の甲斐はあってか曇天の思う優雅をどうにか保ったまま凄みの増した笑みが浮かべられた。
「お前は昔から、人の神経を逆撫でするのが上手い。どれだけ私がそれに苛立たされたことか」
「あなたは昔から、我慢の足りない方でしたから」
気に入らなかったのはお互い様ですねと頷くと、ついにばきりと扇が折れた。哀れなことだ。
「お前が愚かであってくれることを、これほどに喜んだことはない……っ。自慢の影も、萌揺である以上は如月の二である私には手出しができない。節操なく死んだ暦家当主から巻き上げた護衛も、ここには立ち入れぬ。それでどうやって己が身を守る気だ? まさか今になって親族の情になど縋らんだろうな」
見苦しい真似はしてくれるなと冷たく吐き捨てた曇天に、初雪は口許に手をやって大仰に目を瞬かせた。
「昊の死を突きつけられた後で、私にそのような情が残っていると思われるのは心外です。どうぞご心配なく、あなたを蹴落とすためには手段も問いません」
神に仕える者が、須らく慈悲深くあるとは限らない。現に手本であるはずの曇天が無慈悲に昊を奪ったことで証明したなら、初雪が敵にまで慈悲を施せずとも仕方のない話だろう。神の慈悲が無限であろうとも人には強いることができない、ならば全力で敵を排除したところで愚かな人の所業と受け入れてくださるはずだ。
曇天が憎悪を深める様から目を逸らさずにいると、不意に檜扇を投げた手が自身の懐を探っていることに気づく。何本の扇を用意しているのだろうと半ば呆れていると、曇天が取り出したのは予想に反して鞘に収まった懐剣だった。見つけた瞬間、初雪は思わず頭を抱えそうになった。
如月の二が神の僕と主張するならば、それに与えられた神社の中で神が厭われる金気を帯びるとは一体何事か!
「正気ですか」
初雪が険を帯びた低い声で確認すると、曇天は何故か得意げに口の端を歪めた。
「今更詫びても無駄だ、私の社で私に叛くが真似をした己の愚かを噛み締めよ」
「ここで私を斬り殺して、その死体をどうする気です。世間知らずの神職だけならばいざ知らず、武家の人間が見て殺害した跡が分からないと思いますか。霜月も、当然ながら如月もあなたを弾劾するでしょう」
「神職が自害するなど、神に最も反した行為だ。哀れな姪を人目に晒すは忍びない、慈悲を持って私が清め、荼毘に付してやろう」
ようやく取り繕った笑顔を浮かべた曇天の戯言に、初雪は頭痛が止まらない。
何を聞いたところで龍征が信じるはずもないが、せめても判断を難しくするために鈍器で殴りつけたほうが事故を主張できるだろうに。如月の二を継げば、どれだけ穴のある言い訳でも押し通せると思っているなら大間違いだ。
(残念ながら私が死んで一番激昂するだろう龍征君は、不信心で有名ですよ)
神社での不文律など物ともしないでここまで乗り込み、言い訳を聞く間も置かず怒りの赴くまま唯一となる如月の二を斬り殺す姿まで容易に思い浮かぶ。帝としては誰に気兼ねすることもなく二の制度を廃止できるようになるが、大っぴらに喜べる事態でないなら龍征も極刑は免れない。霜月の取り潰しは確実だろう。
神を信じないだけでなく家を繋ぐことさえどうとも思っていない暦家当主がいるなんて想像もしていないのだろう曇天は、初雪から見れば哀れにしか思えない暗い喜びに浸っている。初雪を殺せば当代の二に就くまでもなく神の御元に召されることになると、せめても教えたほうが親切だろうか。
「ご自分の命を大事に思われるなら、懐剣を下げられたほうがよろしいかと」
「は。非力な小娘が、武器さえ持たねば私に勝てる気か? 彼我の実力差も測れぬとは惨めだな」
確かに、初雪は自分で戦うような教育は受けていない。傍らには常に薄氷がいた、その絶対的な剣と盾をなくせば初雪は碌な抵抗もできないまま神の招きに応じることになるだろう。しかしそんな相手と知りながら懐剣で備えている小心者に嘲笑されるのは、正直納得がいかない。
思わず目を据わらせた初雪が口を開くより早く、曇天が熱に浮かされたような目で見下ろしてきながらうっそりと笑った。
「さあ、祈れ。せめても最後くらい、神職らしいことをしてみせるがいい」
「生憎ですが、祈るくらいならば助けを呼びます」
「は! お前が頼りとする萌揺は、お前に限らず如月の二に逆らえない。例え曲がった忠義で薄氷が飛び込もうとしても、末黒野が死んでも止めるだろう」
ようやく終わりを迎えると狂気めいた光を浮かべて曇天が懐剣を振り被るのを見て、初雪は避ける気もないまま宣言通りに口を開く。
「どうぞ手をお貸しください。柘榴殿、要殿」
いつぞやの約束をと乞えば、予想だにしていなかったであろう名前に一瞬怯んだ曇天に向けて二つの影が襲い掛かった。悲鳴を上げる暇もなかった曇天から武器を取り上げているのは、忍装束の二人。萌揺とはまた違う額当ては、水無月の波達羅盈と神無月の雷無と知れる。
言ってしまえば曇天も、戦うための教育は一切受けていない。性別と体格差だけで初雪には勝てる気だったのだろうが、隙だらけの状態に不意を衝いた忍衆に敵うべくもない。戦い慣れていた槙也や蛍さえ、こんな風に縛って転がされていたものだ。哀れな神職には抵抗など碌にできようはずもなく、あっさりとその場に縛られて転がっている。
「何……、が、──何が起きた、これはどういうことだ!?」
猿轡を免れたおかげで悲鳴じみて叫んだ曇天は、拘束を解こうともがきながら所属の違う二人の影を睨み据える。
「誰の許しを得て神域に踏み込んだ!? 二に狼藉を働くなど、神をも恐れぬ所業と知れ……!」
「何を言っている。二に狼藉を働いたが馬鹿はお前だろう」
「成る程、自ら神をも恐れぬ愚かと証明したいらしい」
曇天の言葉を不審げに聞き返したのが波達羅盈、くつくつと笑ったのが雷無。薄氷と長くいると影は喋ってはいけないのかと錯覚しそうになるが、考えてみれば玄夜も影だ。忍も人それぞれと感じ入っていた初雪は、この浅はかな小心者がと突き刺さるような勢いの声にふと視線を下ろした。
「神職はおろか、武家の娘としても人道に悖る行いを平気でしようとは……っ。主を喪った他家の忍衆を我が物にするとは、恥を知れ!」
浅はかな小心者の小娘に刃物を突きつけてきた男は、自分の恥を棚上げして責め立ててくる。傷ついてやろうにもあまりに的外れで、戸惑った目を向けるしかできない初雪の側では地雷を踏み抜かれた二人が躊躇なく曇天の顔を殴りつけている。
「主を喪った? 喪わせた元凶が、よくも言えたな……!」
「我らは初雪嬢を主と仰いだ覚えはない、恥知らずな発想は貴様のほうだ」
できるならこのまま殺してやりたいと怒りを滾らせている二人は、けれど一発ずつ殴ってどうにか息を整えると気持ちを切り替えるようにして初雪に向き直ってきた。
「遅くなりまして。ご無事ですか」
「お二方のおかげで。助かりました」
「主の遺志を叶えたに過ぎない」
突き放すような波達羅盈に、愛想のないことでと雷無が取り成すように苦笑して片眉を上げる。主を喪うまでは交流もなかっただろう二人は、どうやらここしばらくで友人と呼べるくらいにはなったのだろうか。
ちょっと興味深く眺めていると、視線に気づいた波達羅盈が小さく溜め息をついた。
「たった今殺されかけた人間が、呑気なことだな」
「あらあら。さも柘榴殿が言われそうな言葉ですね」
「我が殿ならば、神職を害そうとした者に容赦などするなと仰せでしょう。今でしたらば、これの始末も請け負いますが」
勿論御代は結構ですと貼りつけたような笑顔を浮かべる雷無に、初雪は苦笑して頭を振った。
「その理屈に頷くと、私は処罰すべきに追われることになりますので。お気持ちだけで」
「この場で起きることなど、お前一人が口を噤めばすむ話だ」
「おや、珍しくお前も乗り気だな? 初雪嬢、こいつの言う通りです。何でしたら、目を伏せておいでの間に」
すべての罪を請け負いましょうと言葉にはされないまま提案されたそれに、痛みに呻いていた曇天はふさけるなと声を震わせて二人を睨みつける。
「たかが影が、如月の二によくもこんな狼藉を働けたものよ……! 神の許しを乞うてももう無駄だ、必ず購わせてくれるっ」
「彼らを許すのは神に非ず、ただ主君があるのみです。そのお二方を喪わせたあなたに、何かを言う資格があると思われますか」
「水無月も神無月も、手を下したは師走であれが勝手にやったことだっ。関係のない私を陥れ、」
陥れる気かとでも問い詰めたかった曇天の言葉が途中で途切れたのは、波達羅盈も雷無も曇天の戯言でこれ以上耳を汚されたくなかったからだろう。一瞬で意識を刈っているがそのついでに止めを刺していないことを褒め称えるべきだと思うほど、曇天は発するいちいちで二人の神経を逆撫でしていた。
差し出た真似をと形ばかり謝罪してくる二人に小さく頭を振り、初雪は視線を落とした。
(これで、終わり……)
いっそ簡単にそこで転がっている曇天を見下ろして、初雪はゆっくりと息を吐き出した。いつも叔父であることを立てて跪き、或いは並んでも身長差で見下ろされることしかなかった曇天を、初めてに近く見下ろしている。
(いい気分。って、思えたら楽だったのかな……)
叔父であり、二の先達であったのも事実だ。けれど昊の仇として自分で立場を塗り替えた相手でもある、同情には値しない。ただこの八年ずっと望んできた復讐を遂げたはずなのに、噛み締める喜びも思わず溢す安堵の息もない。終わったという実感さえ湧かない。
ひょっとして槙也や蛍もこんな感じだったのだろうかとぼんやりと考え、曇天から目を逸らすようにして伏せた。




