傷として刻まれた覚悟を、どうして忘れられましょう
初雪が実際に会って話したことがある如月の二は、二人だけ。大叔父の夜空と、叔父の曇天。ただ先帝にお仕えしていた夜空とは二度ほどしか話したことがなく、やはり如月の二と言われて思い浮かべるのは曇天だろう。
夜空も昊も曇天を警戒していたようだが、初雪は目指す場所こそ違うとの認識はあれどそれでも二として尊敬はしていた──八年前の、あの日までは。
雷鳴が成人の儀を迎えるにあたって相談したいことがあると昊に呼び出され、初雪は半年振りくらいに如月の生家に顔を出した。成人の儀なんて半年も先の予定じゃないと顔を合わせて早々苦情を呈すると、無理にでも呼びつけないと帰って来ないお前が悪いと昊に笑って流された。
もっとちょくちょく帰っておいでと、宥めるように頭を撫でられたのを覚えている。扱き使う気でしょうと肩を竦めたのは照れ臭かったからで、当然だろうとさらりと笑った昊には苦笑するしかなかった。どれだけ遠く長く離れていても一瞬で家族に戻れる空気が愛しくて、今回は一月くらいは滞在しなさいねと促されたそれを断る気はなかったのに。
二日後の朝、昊は起きてこなかった。一緒に食べようと朝食を待っていた初雪と雷鳴が不審に思って起こしに行くと、前日に就寝の挨拶をした時と変わらない穏やかな顔のままもう息をしていない昊を発見した。
生まれつきの持病があったわけではない、健康に不安はなかった。精神的に揺らぎがあったわけでもなく、その日も初雪に押しつける仕事を山ほど用意して準備していた。疲れた様子もなく、追い詰められた風もなく、久し振りに兄弟三人、水入らずで過ごせると楽しそうにさえしていた。その昊が、どうして死ななければならなかったのだろう。
「心の臓が止まれば人は動けない。仕事を背負い込みすぎて疲れている場合は、稀ながら起きる症状だよ。こうならないよう、以前から仕事を減らせと警告していたのに……」
せめても眠っている間でよかった、苦しんだ気配もないのが救いだと駆けつけてきた曇天が初雪を慰めるようにそう言った。瞬間、今まで積み上げてきた尊敬も信頼もすべてが音を立てて崩れ落ちるのを聞いた気がした。
初雪がつまらない質問をしたり、民の陳情により祈りを中断させられたり、曇天の思う仕事が邪魔をされた後にいつも聞いた声。言葉自体は取り繕われていても棘があり、ようやく終わった解放されたと僅かに安堵したその声を、どうして昊が死んだ今、聞いたのか。
昊が優秀なのは、幼い頃から誰の目にも明らかだった。後継承認を受けるなり、今まで領主の補佐を兼ねていた曇天が本業に専念できるようにと進んで補佐の業務を請け負った。おかげで楽になったと笑っていたけれど、それは果たして曇天の本心だったのだろうか。
昊を邪魔に思っていたのは、語られずとも態度の端々に感じていた。昊も曇天を嫌っていたからお互い様だろうと傍観していた自分を力一杯殴りたいほど、後悔に打ち震える。
どうして今までそんな風に、暢気に構えていられたのか。
曇天にとって、如月の二であることは尊厳そのものだった。自分に向けられる悪意も害意も困ったねと受け流しているところしか見ていなかったが、それらすべてが再び叔父と見えることはなかった。二の信者が暴走したり、不幸な事故に見舞われたり、急な病に倒れたり。わざわざ調べなければ分からないほどひっそりと、けれど確実にいつの間にか処分されていた。
昊も同じ、だ。
優秀な二は、一の補佐さえ完璧にこなす。そうでなければならない。幼い次代の一を導き、それが次なる当主となった時も自分が支える。それが理想の形だったのだろう。けれど昊は優秀すぎて差し伸べた手を払い除けたばかりか、曇天を政から遠ざけた。
そんな屈辱を受けて今まで黙っていたのは、ひとえに準備が整っていなかったから。誰にも疑われない形で昊を退場させ、初雪が一になるならば自分が当代の二に、雷鳴が一に繰り上がるのならその補佐を申し出るに相応しい時機を計っていた。
そうして虎視眈々と曇天が爪を研いでいた間に、初雪にもできる備えはあっただろうに。
(ごめん、昊)
馬鹿みたいに、信じていた。家族なのだから、疎ましく思ってもそれ以上のことはされないと。初雪が無条件で昊と雷鳴を受け入れているように、曇天にとってもそうであってほしい、と。
そうではなかったと痛感したところで、誰に訴えてもきっと信じてもらえないほど曇天は“如月の二”として一分の隙もなく振舞ってきた。まともに取り合ってくれたかもしれない唯一の心当たりだった夜空も、初雪に当代を譲ってすぐ先帝に殉じている。雷鳴だけは話せば分かってくれるとしても、まだ如月の三でしかない弟が曇天に敵うはずがない。
自分のやりたいことがちゃんとした形でやれるようになるまで我慢も必要だと、いつだったか仕方なさそうに聡し教えてくれた曇天の言葉を思い出す。覚えてはいても聞き流していた程度の教訓は、埋め難い喪失感と痛みを伴ってここに実感するに至った。
こんなところで闇雲に糾弾したところで、初雪が錯乱したとされるだけだ。下手をすれば療養と称して外海の島にでも送られかねない。それがどれだけ曇天に都合のいい状況かを知っているなら、意地でもするものかと噛み締める。
警戒されてはいけない。愚かな姪であり、幼く指導のいる二であり続けなければならない。曇天の思う如月の二と初雪の思う形が異なっているなら、思うまま振舞っていれば見せる姿に苦労はないはずだ。排除対象として曇天が動き出す前に、今度は自分も準備を整える。何にも換え難い犠牲を払ってそんなこともできないようなら、初雪にはここで生きている意味さえないではないか。
「叔父上の教えは、大変参考になりました」
それに関しては感謝していますとにこりと笑みを深めると、曇天は決して目が笑っていないまま檜扇を口許まで持ち上げた。その影で口の端を歪めるようにして笑い、ゆっくりと呼吸をして言う。
「後進を導くのは務めとはいえ、お前は本当に手のかかる子だ」
「真の神官ではない、と?」
小さく首を傾げて語尾を上げると、曇天は目を細めた。どれだけ図星を突かれても慌てて否定しては見え見えだ、といつだったか呆れたような声で聞いた言葉が今になって本人の態度を説明する。初雪はそっと息を吐いて、せめてと小さく呟いた。
「師走殿が失敗したと聞かれれば、助命くらいはされるかと期待していました」
「師走と何の接点もない私が、そんな嘆願をしてどうする? そもそも二に刃を向けた時点で、極刑は免れないと定まっている。お前のそれは優しさではなく、侮りに繋がる甘さだと知りなさい」
二としての威厳が足りないと諌める曇天に、
「当代がどれだけ侮られようと、ただの二に関係がありますか?」
叔父上はどうぞご自分の道を行かれませと勧めると、空気がひやりと凍てついた気がする。無闇に挑発するんじゃないと、いないはずの雷鳴の悲鳴なら聞こえてきそうだが知ったことではない。
曇天は初雪を見据えたまま、話にならないとばかりに小さく頭を振った。苛立ちを現したように、ぱちりぱちりと扇を一橋だけ開閉する音が響く。
「お前は、二の務めを理解していないにも程があるね」
「まあ。では如月の二の当代とは、そのような愚かでも務まるものなのですね」
「っ、務まっていない証拠に帝のご不興を買っているのだろうっ」
耐え難いとばかりに棘を乗せた曇天に、ご不興だなんてと軽く頬に手を当てる。
「帝はただ、如月の二という制度を廃止する、と仰せになられているだけではございませんか」
「そのような不敬を提示される時点で間違っているのだ!」
思わずといった様子で腰を浮かせた曇天に、初雪は目を細めて声を尖らせる。
「不敬とは聞き捨てなりません。水穂を治められるは帝なれば、誰に対する不敬にございますか」
「神だ。帝は神に認められて初めて、水穂を治めることを許されるのだ。その神と帝を繋ぐ二を廃止するなど、神に対する冒涜以外の何物でもないっ」
その程度も分からないのかと睨まれるが、今のどこに不敬がございましたと聞き返す。
「神に叛くのではなく、介す二を廃すとの仰せです。帝がご自身で神に仕えられればいいだけのこと、何の問題がございましょう」
「それができるならば最初から二は必要なかろう、愚か者が!」
「ですから、そう申し上げております。叔父上がどうしてなかったこととして処理されておられるのか見当はつきませんが、帝が政に専念されるために代わりの神職として如月の二が置かれたに過ぎないのはご承知でしょう。元は帝が神官であられたのですから、叔父上が仰られたように最初から二など必要がなかったわけです」
元に戻すとの仰せがそんなに不思議ですかとわざとらしく目を瞬かせると、曇天は軋む音が聞こえそうなほど強く檜扇を握り締めた。




