突然上から失礼します
霜月龍征が初雪と出会ったのは、当然ながら彼女がまだ如月初雪の頃だ。十三で家督を継いだ龍征は十七にもなったその頃、やれ嫁を取れだの世継ぎはどうするだのと煩く言われることに辟易していた。
別段龍征だとて、女性に興味がないわけではない。ただ今までに散々と送り込まれてきた女たちは、どうにも食指が動かなかったのだから仕方ない。
「もうちょっと話が分かって花があって俺を飽きさせない女はいないのか」
「……龍征様と話が合う女性を探せというのは、酷な話かと」
後ろから控えめにながら口を挟んできたのは、龍征の教育係でもあった上弦信康。龍征より十歳も年上の信康は、妻帯こそしていないが長く婚約したままの相手が一人いる。親が決めたのではなく好き合って連れ添う約束をしたくせに今も婚姻に至らないのは、主君である龍征が未だ身を固めないからだろう。
「お前みたいな野暮天に、どうのこうの言われる筋合いはない」
「恐れながら、私は龍征様と違って約束した相手が既にございます」
「ならとっとと婚儀を挙げろ。ってもう何度目だ、この会話!」
ほぼ毎日に近く言ってる記憶があるぞと振り向きもしないまま噛みつくと、私にも意地がございますと恨めしげな信康の声が背を打つ。
「龍征様がご自分で納得の行くお相手と婚儀を挙げられるまで、私も挙式はせぬと申したはずです。やなも承知にございます」
「お前たちはそれでよくても、朝霧の家は堪ったもんじゃないだろう」
信康と約束した相手は朝霧なやといい、霜月に仕える五家の筆頭である朝霧の娘。上弦も五家として名を連ねてはいるが、信康の父の働きがあって先代の頃にようやく加わった新参だ。家格で言えば圧倒的に朝霧のほうが上であり、本来であれば同じ五家でも龍征の従弟が家督を継いだ秋灯くらいでないと釣り合わない。しかしそれでも信康が認められたのは龍征の腹心であること、何より娘の懇願に溺愛している朝霧義文が負けたからだ。
「なやを哀れに思ってくださるのであれば、早く龍征様が良縁を得てください」
「得ようと思って得られるものならな」
いっそ空から降ってこないと無理なんじゃないかと他人事のように笑った龍征の言葉に応えるように、頭上で枝の揺れる音がした。咄嗟に信康が庇って前に出たが、後ろに引き戻された龍征が見上げるとちょうどその真上に何かが降ってきた。
「っ、龍征様!」
気づいた信康が慌てて突き飛ばしてこようとしたが、降ってきた塊の鮮やかが女物の着物だと気づいた龍征は受け止めるように手を伸ばした。しっかりと龍征の腕の中に落ちてきた塊は龍征が見る前で何度か大きく瞬きし、ゆっくりと自分の胸に手を当てて息を吐いた。
「びっくりしたー」
「こっちの台詞だ」
やたらと暢気な感想にすかさず龍征が突っ込むと、息を整えていたらしい相手はそこでようやく気づいたとばかりに龍征を見上げてきた。
「ひょっとして助けてもらってますか、私」
「だろうな。いっそ見捨ててやればよかったと思う程度には腕が痛い」
「それは失礼。でも見捨てられたら全力で呪うところでした、それを回避できたのはお互いのためということで」
ありがとうございますとにこりと笑いかけてきた相手が人並みに愛らしくとも、発言内容によって印象は悪いほうに傾く。龍征も片眉を上げて、降りる気配もない腕の中の女を見下ろした。
「お前、誰に助けられたか分かった上での発言か」
「さっき下から聞こえてきた愉快な会話の内容から察するに、大雪の領主、霜月龍征殿とお見受け致しますが」
「知っててこの態度か!」
「えー。臣下と嫁取りの話で盛り上がってる思春期さんに、態度を改める必要性は感じないんですが」
改まったほうがいいのと恐る恐る聞き返してくる初雪に、言いたいあれこれは多い。だが間抜けな姿を見られたという気まずさも手伝って大きく溜め息をつくと、別に構わんと受け流した。
「但し、聞いた会話は全部忘れろ」
「……おや、何かお話しでした?」
上で寝てたから分かりませんとにこりと笑う彼女の物分りのよさはともかく、さっきから発言には引っかからねばならないところが多すぎる。
「それはどこまでが冗談だ」
「? どこまでも事実ですが」
「木の上で寝てた!?」
「嫌だわおじいちゃん、寄る年波で耳まで遠くなっちゃって」
「誰がおじいちゃんだ!!」
明らかにお前のほうが年上だろうと堪えきれずに噛みつくと、堪えきれないとばかりにころころと笑い出された。
「乗りがいいね、君」
領主を捕まえて君呼ばわりも大したものだと眉を上げ、信康が剣に手を伸ばしかけたのを視線だけで制した。今まで呆気に取られて眺めているだけだったが、さすがに主君への無礼な態度は腹に据えかねたのだろう。
ただ当の龍征がさほど咎める気になれなかったのと、信康との短い会話を聞いただけで誰かを言い当てられる知識と回転の速さを持つほうが気になった。
「で、お前の名乗りは受けてないが」
「あらあら。私も君の名乗りを受けた覚えはないですが」
こっちが勝手に言い当てただけだよねと揶揄するように語尾を上げられ、はっと短く笑った龍征は彼女を降ろして真っ直ぐ見据えた。
「名乗りが遅れた無礼は詫びよう。俺は大雪領主、霜月由史郎龍征だ」
「ご丁寧に恐れ入ります、助けて頂いたことへの感謝も遅くなり失礼致しました。私は如月が二、初雪と申します。先ほどは危ないところをお助け頂き、誠に有難う存じます」
龍征が名乗ると馬鹿丁寧に頭を下げた初雪は、顔を上げて目が合うと悪戯っぽく笑った。彼としては面白い女だという感想だったが、後ろで悲鳴も上げかねない顔色になったのは信康。
「っ、如月の二がお越しでございましたとは存じ上げず……!」
「あ、お気になさらず。ご大層な迎えを期待したなら鳴り物入りでお邪魔してます、凡そ忍び込んだに近いので咎めを受けるのは私のほうかと」
大騒ぎしないでもらえるほうが助かりますと気安く手で制した初雪に、そのようなわけにはと狼狽える信康に龍征も捨て置けと手を揺らした。
「他領の女が一人忍んできただけだろう。俺の首を狙ってのことなら返り討ちにするだけだ、そうでないなら騒ぎ立てることでもない」
「剛毅な領主様がいたものですねぇ」
「こっちの台詞だ、無謀神官」
無礼討ちにされても仕方のないところだぞと脅すように目を眇めると、やれるものならと不敵な様子で受けて立たれる。今まで会ったどんな女とも違う反応に、知らず口の端が緩んだ。
「お前、行く当ては」
「大雪で? 特にないね、ふらりと立ち寄っただけだから」
「なら俺の邸に来い。上手い飯なら作ってやる」
「ご歓待の件ならお断り……、作る?」
まさか君がと不審げに聞き返されたそれに、料理は趣味だと答えると初雪はぱあっと顔を輝かせた。
「何それ、楽しそう。私も参加していいなら、お招きに預かりたい」
「待て。明らかに厨にも立ったことがない発言にしか聞こえんが?」
「大丈夫、叔父上も弟も料理は得意だから」
「何が大丈夫だ!?」
立ったことがないんだろうと続けて突っ込んだが、好奇心が暴走した初雪がそんな程度で止まるはずもなく。如月の二は、晴れて霜月邸へと招待されることになった。
龍征が初雪と出会って五日後。二日ほどは何だかんだと構っていたが、そろそろご政務にも目をお向けくださいと殺意さえ込めて促す信康を無視できず、普段の生活に戻っていた。初雪には邸にいる間は好きにしろと言い置いたが、退屈して出て行っているだろうと踏んでいたのだが。
「今戻った」
「あ、お帰りー」
つまらない会議続きでうんざりしながら屋敷の門を潜って一先ず帰りを告げると、思ってもみなかった応えに驚いて顔を向けた。御機嫌ようと軽く片手を上げて挨拶してくるのは、声から察したように初雪。まだいたのかの感想より早く、女中と変わらない格好で庭掃除に勤しんでいるほうが衝撃だ。
龍征にとって初雪はただの客であり、如月の二として招いたつもりはない。ないけれど。
如月の二とは暦家はおろかこの国で唯一、側用人を通さず帝と見えることを許された最高位の神職だ。故に如月の内に収まらず他領をうろついたところで咎められることもなく、下にも置かない歓待をされるのが通例となっている。
本音を言えば、如月の二がどれほどのものだと今でも思っている。しかし神職云々は横に置いても霜月と並ぶ暦家の令嬢を女中扱いしたのでは、さすがの龍征でも顔色が変わる。
「っ、誰がお前にそんなことをしろと言った! 俺は客として持て成せと言ったはずだぞ!」
命じた馬鹿を直ちに目の前に連れて来いと背後の信康に声を荒らげると、血相を変えて従われる前に落ち着いてと初雪が呆れたように制止してきた。
「誰と言うと私だし、もうここにいるから呼ぶ必要はないって」
「っ、申し訳もございません、お館様! 私どもも、必死でおやめくださいますようお頼みしたのですが……っ」
どのような処罰も受ける所存にございますと、龍征の帰参を知って慌てて駆けつけてきた侍女頭が死も覚悟した様子で平伏する。やめて手なんかつかないでと立つように促している初雪は、彼女たちに罪はないからねと眉根を寄せて主張する。
「あまりにすることがなくて暇だったから、自分にできそうなことを探してこれしか見つけられなかったの。本気で泣いて止められたんだけど、耐えられないくらい暇で暇で……っ!」
発狂寸前だったのですと握り拳で主張され、龍征は頭痛がしそうな額を押さえた。
どうやら本人にその気はないようだが、これは龍征の持て成しが気に入らないとの不平に他ならない。邸を離れる時に相応の待遇をしろと言いつけていった、普通の女が喜びそうなあれこれは用意させていたはずなのに、そのすべてより庭掃除のほうが楽しいと言われたのでは面目が丸潰れだ。
「っ、気に入らなかったならさっさと出て行けばよかっただろうが」
「え、町を見て回ってもよかったの!?」
吐き捨てた龍征の言葉に顔を輝かせた初雪は、自分がどれだけ的外れな反応をしているか分かっていないらしい。今度は何を言い出したんだと理解に努めていると、不審げな龍征に気づいたのか、私だってそこまで常識なしじゃないですと少しばかり赤くなって反論される。
「如月の二と認識されてないなら好きに観光もするけど、顔を合わせて邸にまで招かれておきながら勝手に町を見て回るなんて、不調法に過ぎるじゃない。他人様の懐事情や内情を知りたくてうろついてるわけじゃないんだから、許可が下りるまで控えるくらいはします」
でも閉じ篭るのって好きじゃないのと箒を折らんばかりに言われ、龍征も毒気を抜かれてつい吹き出した。
いつ癇癪を起こすかと後ろではらはらしていた信康も、如月の二は身体を張って守るべきかと身構えていた侍女頭も、何が起きたか判じかねて互いをちらちらと窺っては眉を寄せている。まだ笑いの漣を止められない龍征は、何だか馬鹿にされている気分と拗ねた顔をしている初雪に違うと手を揺らした。
「邸内だろうと町だろうと、好きに見て回れ。俺が許可する。領都以外が見たいなら案内させる、……ああ、俺が案内してやってもいい。どこに行きたい」
「とりあえず今は領都を見て回れたらそれでいいんだけど……、暇なの、君」
政務はどうしたと顔を顰めて心配する初雪に、余計な世話だとぐしゃぐしゃと髪をかき回す。やめて崩れるっと悲鳴を上げて逃げた初雪は乱れた髪を整えながら、何の嫌がらせなのと聞き返してくるが答える気にはならない。ただ拗ねた顔をして睨んでくる眼差しに笑い、一先ず着替えに邸へと足を向けながら言いつける
「夕餉に付き合え。三日ほどで時間を取れるように調整する、それまでに行きたい場所を考えておけ」
「許可さえ貰えたら別に君の案内はいらないんだけど」
「──俺の執務が片付くまで、塗籠に閉じ込めたほうがいいか?」
「案内して頂ける日を心待ちにしております!」
わあ楽しみー、とわざとらしい仕種で語尾を上げる初雪に小さく鼻を鳴らしたが、がなる気にはならなかった。自分でも思う短気を発揮しないのは我ながら不思議だったが、そう悪くなかった。