隙あらば説教しなければならない現状を理解してください
久し振りに戻った自室の窓から、ぼんやりと空を眺める。群青の夜空に白い星が僅かに瞬くだけで、今頃は猫の目ほど細くなっているはずの月は厚い雲に覆われている。象徴的だねと皮肉に唇の端を持ち上げて考えていると、初雪と少し遠く声をかけられて振り返る。
部屋の入り口で何故か突っ立ったままこちらを見ているのは、龍征。いつもなら無遠慮にずかずかと踏み込んできて腕の一つも取ってくるところなのに、何をしているのだろうと首を傾げる。
「どこかに出かけるの?」
「……は?」
気の悪いことに、一文字で聞き返してくる龍征が機嫌を損ねたのは分かる。問いかけは的外れだったらしいと理解しながら、そうでないなら部屋に足を踏み入れていない理由が分からず反対側に首を傾げる。
これ見よがしに大きな溜め息をついた龍征はがりがりと頭をかいて、入っていいのかと低い声で尋ねてくる。いつの間に常識を身につけたのだろうと軽く感動しつつ、どうぞと促すと真っ直ぐに近寄ってきた龍征はそっと手を伸ばしてくると、そのままうにっと初雪の頬を抓る。
「今、とんでもなく失礼なことを考えただろう」
「ただの誤解だったと知れたから、考えてないです」
「嘘をつけっ」
気の悪いと拗ねた声で呟いた龍征はけれどさして痛くないように力を抜いていた手を離し、改めてそっと頬を撫でてきた。何がしたいのだろうなと疑問に思うが、その手が懐かしいと思う程度には離れていたのだと実感する。
「……ただいま」
囁くように告げると龍征は僅かに目を瞠り、すぐに苦笑するように笑って撫でていた手で頭を引き寄せた。促されるまま胸に頭を寄せると、龍征が纏っている香が鼻先を掠める。そっと息を吐いて、ああ、帰ってきたのだと噛み締める。
「でも出かけるのでもないなら、どうしてすぐに入ってこなかったの」
「……負けた人間が、ずけずけと近寄れるわけがないだろう」
「勝ち負けとか」
何を言っているのかと眉を上げるが、龍征は勝敗は決したと吐き捨てる。
「お前が師走を捉えて連れてきた時点で、師走の負けだ。なら、それに与していた俺も同じく負けたとされるべきだろう」
「今回のあれを戦争という形にする気がないって表明して全員の同意を得た後なら、それはただの頑固ではないですか」
それとも室に負けたがる趣味でもおありですかと若干引きながら尋ねると、お前、と一瞬声を荒らげた龍征は続く言葉を溜め息に紛らわせた。
「例え他の全員が納得しても、俺は納得していない。どうして宣戦布告を叩きつけた師走が無罪放免だ、如月の二は神官だろう。水穂を代表する神職に剣を向けておいて咎められずなんて、納得できるか……!」
「でもその理屈で言うと、師走に加担した七家は全員代替わりを強制されかねないよ。それで一番困るのは、君だからね」
分かっているのかと問い返せば、龍征はぐっと言葉に詰まる。
何しろ七家の内、後継承認を受けた人間がいないのは霜月だけだからだ。当主に子がない間、親戚筋から何人かが念のために承認試験を受けておくのは暦家の倣いのはず。だが一番候補である将弘が、断固として断る! と放棄を宣言して臣下でい続けているため、多分に龍征の子ができるまで後継は空座のままだろう。
「さっさと世継ぎを儲けろって、朝霧さんが口を酸っぱくしてたのに聞かないから」
「っ、それを言うなら水無月も神無月も、まだ後継はいないだろうが」
「そこは交代したばかりだからが一番の理由だし、君の理屈で言うなら勝った側にその心配はいらないでしょうに。第一、水無月さんは既に次代が承認試験に備えておられるし、神無月さんもまだ試験には臨めないとはいえお子はあられるわけですよ」
完全に後継がいないのは家だけですと反省を促すと、それはこの際どうでもいいと切り捨てられる。横に置いていい問題ではないんだけどと思わず目は据わるが、龍征は真っ直ぐに初雪を見て声を低める。
「今なら師走の断絶さえ、望めば叶う」
そうだろうと確認され、初雪はゆっくりと息を吐き出した。
「そうだね。帝が如月の二をどれだけ疎ましく思っておられても、今はまだ最高位の神職だし。それに剣を向けた、一歩間違えれば殺していたとなれば見せしめも兼ねて断絶しかねない。でもそれだと、あまりに思い通り過ぎるから」
「思い通り……?」
誰のと不審げに龍征が問いかけてくるより早く、初雪は緩く頭を振った。
「今もこれからも、まだ師走さんには防波堤になってもらわないと困るんだよ。如月の二じゃなくて、霜月が」
「俺でもなく、霜月か」
「だって警戒されるべきは、私と龍征君だから。御前試合でやる気を出さないから今までは石蕗さんが水穂一とされていたけど、それを退けたせいで今や最も警戒される武力は龍征君だよ。その君と、帝にさえ直訴できる私が夫婦なのはどれだけ恐ろしいか。暦家は十二家すべて同列であるはずなのに、霜月一強なんて見做されたら師走さんの二の舞は確実」
もうちょっと家のことも考えてくださいと溜め息交じりに説明すると、龍征は軽く眉を上げた。
龍征にすればいきなり自分の評価が上方修正されただけで本人の意識としては何も変わっていないのだろうが、その世間的評価が何より怖い事態を巻き起こす。ここで師走を潰してしまえば、今回の騒動は権力を一手にするために霜月が企んだことだと何れ誰かが言い出しかねない。言いがかりでしかなくとも、そうしてでも潰さねばならないと警戒されるからだ。
「そうなったら即離縁だから。権力を分散するには君が当主を退いたくらいじゃどうにもならないし、私は如月の二から逃れられない。しかもそうなった時に子供がいたら洒落にならないから、私との間に子は望まないでね」
「っ、」
「言っておくけど、今回のことがなくてもこれは予想しておくべきだったよ。暦家当主が如月の二を娶るのがどれだけ危険か、私は散々と説明してきたしやめておけと何度も警告しました」
忘れたとは言わせないと、今にも反論してきそうな龍征の鼻先に指を突きつけて言い放つ。
ようやく初雪が語った不穏な未来を目前の恐怖として受け止めたのだろう龍征は、鼻に皺が寄るほど顔を顰めるができない反論は喉の奥に押し留めたらしい。
脅しには十分と見て取り、ゆっくりと息を吐いて言い添える。
「まあ、いつだってそうなる危険性があることを忘れないでくれれば、今はいいんだけど。陽ちゃんと風炎さんとは幼い頃に敵対はしないって契約をしたし、水無月さんと神無月さんは師走さんが仕置きされれば筋道をつけた分くらいは義理を感じてくれるだろうし。後の六家には今回のことを不問にして恩を売れる、しばらくは誰にも因縁をつけさせる気はないから」
そのために馬鹿馬鹿しくも大仰な衣装まで着て、如月の二は神職だと全員に印象付けた。
不当な仕打ちを受けた者に味方はするが、個人で裁く気はない。暦家の均衡を保つためだけに立ち上がったのだと、自分への害意さえ水に流して証明してみせた。その初雪を捕まえて、霜月に肩入れする危険人物だとは言わせない。
龍征はまだ納得しかねた顔でがりがりと頭をかき、軽く目を据わらせながら初雪を見据えてきた。
「霜月を守るために、師走を見逃せと」
「霜月もだけど、君と私のため、だね」
まだ不服? と聞き返すと、軽く目を眇められる。頭では理解できるが、感情的に受け入れ難いといったところだろうか。
では分かりやすく、と苦笑して続ける。
「誰が庇い立てしようと、師走常永の天下はもう終わったも同然だよ。他家の当主を二人も殺めた咎で強制的に師走当主は交替するだろうし、石蕗さんとも引き離される。帝の気分次第では、外島への流刑も考えられる。そんな状態で他家と並び立つためには、──次期当主が情を捨てて然るべき措置を取っても不思議ない」
「同じ血を継いだってことなら、親子揃ってまたお前を排除に動く可能性もあるだろう」
「やりたいとしても、もう誰も師走に力を貸さないから無理だと思うよ。今回で成終は大分数を減らしたし、石蕗さんも隔離されるだろうから純粋な武力として霜月に敵わない。隣り合う領土で下手に手を出したらすべてを失いかねないのに、同じ考え方をするなら尚更、手を出す理由はないと思うけど」
暦家当主の考え方は君のほうが得意でしょうと肩を竦めると、龍征は痛そうにこめかみを押さえて溜め息をついた。絶対的な保証とまではいかないが、初雪の良人としてではなく暦家当主としてなら納得するしかない理由のはずだ。
「……また手出しをしてくるようなら、今度は叩き潰す」
そこだけは譲れないとむっとしたまま断言され、それも愛ですかと笑いながらそっと龍征に抱きつくと、
「愛でなかったら、こんな面倒に付き合うか」
抱き締める腕に力を込めつつ吐き捨てられ、知らず口許が緩む。頭を寄せて懐かしい香りに目を伏せながら、ごめんねと心中にだけ小さく謝罪する。
渋々引き下がった龍征にはとても聞かせられないが、これですべてが終わったわけではない。終わればよかったけれど、初雪にはまだ大事な仕事が待っている──。




