苦労人の胃の腑がとても心配です
部屋に戻ってきてから、師走は目の前を行ったり来たり落ち着きなく動き回っている。声をかける権利など頼広にはない、何も語らずじっと見守っている義父の少し後ろで頭を垂れ、起こる事態に備えるだけだ。
(しかし、どうして俺がここに呼ばれた……?)
若葉の嫡男として、本来であれば皐月家に従うのが頼広の役目だ。いくら石蕗の娘を娶ったからといって婿入りしたでなし、師走に何の義理もないならこちらにつく意味もなかった。奥である樹氷も、必要とあらば先に父を討ち取って参りますと真顔で告げてきたくらいだ。敵対するのに否やはないどころか、そうするものと決めてかかっていた節がある。
それでどうして頼広がここにいるかと言えば話は簡単で、主君と仰ぐ皐月風炎にお前は師走につけと命令されたからだ。主家とも如月の二とも対立したくはないと反論したが、儂が命じておると断じられては逆らいようがなかった。
(あの方も初雪嬢も、基本的に言葉が少なすぎる……)
何かしら意図があってのこととは思うが、その“何かしら”の説明がなさすぎる。間諜めいたことをしろと命じられたわけではなく、そもそも情報を得ようにも立場を知る全員に警戒されていて碌な話が入ってこない。
そんな状況だったのに突然呼び出されたと思えば、忙しなくうろつき回る師走を聞くだけとは。
(一時的にでも玄夜を俺の影にして、連れて来るべきだったか……)
頼広にも当然、影はいる。玄夜とは違い藤棚の一族で、皐月の忍衆である浅苗とも縁近い。ただ暦家の直属ならいざ知らず、それ以下の忍は大体が護衛を主とした戦闘を得意とする。敵地にぽつんと一人で投げ出されたような状況下で、それでも有用な情報を得られるほどの力はさすがにない。
(性格的に考えて、あれをずっと自分の影にはしたくないが……)
弟は、よくあれに耐えられるものだと遠く考える。そもそも影に潜まない影など、存在意義から考え直せと言いたいところだ。
などと頼広が現実逃避に近く考えを進めていると、ばちりと扇子を叩きつける音がして我に返った。今まで忙しなく歩き回っていた師走が足を止め、自分の手に扇子を叩きつけたらしい。
「成終はまだか! 相手の動向を探るくらい、もっと手早くすべきだろうっ」
「申し訳ございません、何分相手の忍衆の妨害も、」
「その程度、予測できんかったのか!」
石蕗の謝罪を苛々と遮った師走は、そこでようやく控えている頼広を見て存在を思い出したらしい。小さく舌打ちしたと思うと大股に歩み寄ってきて、若葉の嫡男だったかと声をかけてきた。はっ、と短く答えてより頭を下げると、小刻みに揺らしている師走の足先が目に入る。
「っ、如月初雪は一体何を考えている……!」
頼広が風炎と共に如月で承認のための教育を受けたのは知れ渡っている、成る程、そのために呼ばれたのかと得心しながらも答える義理は感じない。勿論、義父の手前、素直にそう告げるわけにもいかない。かといって黙っていれば不興を買うだろうと踏んで、考える素振りで答える。
「彼女には承認試験の時に二年ほど世話になりましたが、以降はさほど顔を合わせる機会もなく。その頃の記憶による憶測とはなりますが、よろしいでしょうか」
「許す、話せ」
主君でもない人間に話す許可を得る必要があるだろうか、と心中で皮肉に呟いたのは隠し通し、それではと予防線を張ってからようやく話し始める。
「如月の二としては感心できぬ行動も多く見られましたが、彼女の基本方針は民に寄り添うこと、と見受けました。政に直接関わらぬからこそ甘くあれるのでしょうが、誰かが傷つくのを良しとはしていませんでした。よって自ら民を巻き込むとは考え難く、平原に集った民は彼女が呼び集めたのではないと存じます」
「それでは何のために、あれほどの数が今集っているというのだ!」
ふざけた答えをと受け入れ難く怒鳴りつけてくる師走に、そこは集った民に直接問うべきことだと心中に反論する。それでも不機嫌そうな石蕗の視線と、今にも扇子で殴りつけてきかねない師走の様子に用心して、師走が受け入れやすそうに形を整えて言葉を続ける。
「例えばもうお一人の二であられる曇天様は完璧な神職であられるのに対し、彼女は親しみ易いからこそ御し易いとも取られるのではないでしょうか。民からすれば、彼女を仰ぐほうが生活が楽になると考えても不思議はないかと」
頼広の答えに少しばかり納得した様子を見せる師走に、心中でそっと溜め息をつく。本来であれば生活の改善は領主に訴えるものなのに、それをただの神職に期待していると告げたも同然だ。叱責を受ける覚悟もしていたのに気づきもしていないらしいと、失望は深まるばかりだ。
そんな頼広を他所に、主人の様子を窺っていた石蕗が首を捻った。
「しかしお館様、自領の領主に逆らってまで相手の旗頭を守りにわざわざ集うものでしょうか」
やはり何かしらの企みがあるのではと不審がる石蕗に、頼広は恐れながらとより深く頭を垂れた。
「二を守ることは神を守ることにも繋がる、という極論もあるとは存じます」
「神……、神と同義だと抜かすか、あの小娘が!?」
不敬にも程があると扇を圧し折った師走は、怒りのまま再び歩き回り始める。余計なことをと石蕗には睨まれたが、水を向けてきたのは義父のほうだ。そもそも頼広が言葉を伏せたところで、実情は変わらない。
例えば領主に睨まれても、死ぬ可能性が高くとも、如月の二の生命こそが大事と駆けつけた。それがすべて。
「何の力も持たない小娘に縋るなど、盲信と呼ぶより他にない。そんなものに真実救いがあるとでも思うてかっ」
「お館様、すぐに奴らも身を以って思い知ることとなりましょう。どうぞお気を鎮めくださいませ」
「っ、儂がこの程度のことで我を失っているとでも言いたいか、太助!」
「まさか、そのような!」
失礼致しましたと平伏する石蕗を聞きながら、頼広は何とか溜め息を殺した。
主人の愚かを諌めるではなく、増長させるべく付随う。これこそを妄信と言うのではないかと冷めた気分で考え、確かにこれに救いなどあろうはずはないと酷評する。
そういえばいつぞや初雪も言っていたなと、ぼんやりと思い出す。何かを信じるのはいいけれど、疑わなくなれば終わりだ、と。二の振る舞いに相応しからずの評価はだから望むところだと笑った、あれは強がりでも何でもない本音だったと今更ながらに思い知る。
(初雪嬢、あなたはいつも正しい。ただ自説の正当性をこんな形で知らしめられずとも、言って頂ければ理解しましたが!?)
どうして自分一人がこの苦痛に放り込まれているのかと、気づかれないように拳を震わせる。確かに霜月も師走側につかされているが──決して自主的にでないのは、噂を知らずとも窺い知れる──、あちらは初雪と敵対する気はないとして歴然と対立できる立場がある。義父とその主人に歯向かうこともできない頼広のほうが、より一層初雪を恨みに思っていいはずだ。
今でも十分に噛み締めているというのに、目の前の二人は今もって突きつけてくるのだから。
「平原に集った連中を、文月がどの程度で追い払えると思う」
「あれらがすべて立夏の民としても、対立していると分かった上で集まっているならば文月が直接赴いてもすぐに従うとは思えません」
「戦の日限はもう迫っておるというにっ」
「いざとなれば立ちはだかるすべて、この太助が一振りで排除してご覧に入れましょう」
お任せくださいと身を乗り出して請け負う石蕗に、頼広は知らず遠い目をする。
如月の二を案じて集った民を、薙ぎ払うという。確かに石蕗の手にかかれば、人の盾とて容易く破れるだろう。相手がただの農民なら尚更、怪我ではすまないことも分かっているはずだ。つまり石蕗は、主人の敵を引き摺り出すためなら罪のない一般人さえ殺すと宣言したに他ならない。
(それを本気で実行されても師走はきっと犠牲になった民を哀れんで、すべてを初雪嬢の責任にするんだろう……)
石蕗が勝手に言い出して実行したのだとしても、誘導したのは師走だ。ここにいる頼広だけでなく実行された後にほとんどの人間が察するはずの状況を、けれど師走は知らない顔をする──それを、真実にする。力尽くで。
「若葉」
「、はっ」
ぞっとする想像の直後に名を呼ばれ、頼広は思わず肩を竦めて答えた。師走が静かにしゃがんだのに気づいて見えない角度で眉を寄せると、折れて短くなった扇子で軽く肩を叩かれた。
「お主、如月初雪はあれらの民をどうすると思う」
「どう、と仰いますと」
「自ら招いたのではないとしても、追い返すと思うか。罪なき民を巻き込まぬようと、布告状で告げたはずだが」
初雪が民を盾にするという言質がほしいのだと、声にはされない意図に気づく。曖昧に言葉を濁しても頼広がそう言ったと師走に思い込まれれば最後、戦の後に二を庇う声が上がった時に頼広がいらない進言をしたのだと言うためだろう。
この場において保身を考えるなら、望まれるままそう言うべきだと分かる。だが天地が引っ繰り返っても有り得ないと知っているのに、頷くのは抵抗がある。
(成終の報告が未だにないということは、相手の妨害は功を奏している。民の安全を第一に考える初雪嬢が下手を打つとは思えない、そろそろ散開もさせている頃、か)
少しくらい有益な情報を出せなければ、頼広は役立たずと見做されるだろう。今後の人生において問題が生じるとは思わないが、この戦の間に限っては困る。万が一の場合、初雪や風炎を守れる位置にいなくてはこちらにいる意味がない。
「これはあくまでも私見ではありますが、よろしいでしょうか」
「いいだろう」
鷹揚に頷いた師走に少し頭を下げ、言葉を探す。
ただ民の命を心配して、脅してでも帰らせると言ったところで師走は信じまい。ならば少しばかり表現を変えて、師走に納得しやすい形にしてやればいい。
「平原に集った民は、じきに散開すると思われます。彼らが傷を負うようなことがあれば、守り導く二としては沽券に関わりましょう。となれば二の威信にかけて、追い払うしかないかと」
「……ふむ」
自分の面子を重んじる師走にとっては、初雪もそうであると言われたほうが理解できるはずだ。ただそれを聞いた師走が見過ごすはずもなく、二の責を問うために一人でも多く殺傷しようと追っ手をかけるのも想像に難くない。
(一か八かの賭けは好かないが、多分残っているとしても最初の説得に応じなかった僅か。そのくらいなら、頼国が守り通せるはず)
幼い頃から、初雪のことしか見てこなかった弟だ。二である初雪を尊重しすぎて出遅れたせいで霜月の行動力に泣いたが、それはつまり自分よりも彼女を優先できるという証明でもある。彼女が望まないすべてをしない、させないとそれだけを胸に一つ誓って動く頼国が、民を守りきれずに泣かせるようなことはしない。
──と、信じたい。
(頼む、頼国。俺に民殺しの片棒を担がせないでくれ……っ)
信じてるぞと強く弟に賭けながら、予想通りの行動に出ている師走に吐きたい悪態もどうにか飲み込んだ。




