神の御意思、ですべてが済むなら楽ですね
「言ったはずだ、初雪はお優しい神職だとな。平原に集い出した時点で、帰れの説得は始まってる」
「しかし、自ら集った民がそう易々と帰るとは、」
思えないと言いかけた長月は、まさかと眉を顰める。
「如月の二が直接説得に!?」
「行かいでか」
行く。確実に行く。寧ろもう誰が止めたところで、それら全員を引き連れてでも行く。あれはそういう女だ、龍征が止められないものを他の誰が止められるはずもない。
「危険回避のために、神楽を使って成終の邪魔はさせてるが。多分に俺や周りがそうするのも計算に入れた上で、自分で説得に赴いてるはずだ。二自らが帰れと言うなら、従わん者はいないだろう」
勿論、断固として聞き入れない者も中にはいるはずだが。初雪は案外、容赦がない。素直に聞き入れた者たちは穏やかに見送った後、頑として動かない者には脅迫めいた文言を使ってでも引かせるはずだ。
(神は神罰など下さないって明言してるくせに、二に逆らう愚かには相応の仕打ちが待ってるだろうね、くらいは言うからな……)
二や神を信じて行動する者に、初雪の脅迫ほど恐ろしいものはないと分かっていてやるのだから性質が悪い。誰かを助けるための嘘ならついてもよし! が信条という、何とも手前勝手な神職もいたものだ。
「とりあえず萌揺も動いてはいるだろうが、初雪が平原にいるとなれば師走は民ごと一帯を薙ぎ払いかねん。自領の民を大事に思うなら、文披を使って無事に散開するまで情報を霍乱するよう勧めるが」
手が増えるのは有難いからと水を向けると、文月が慌てて動き出す。
「今更だが、つく側を間違えたか……」
儂も耄碌したと額を押さえて嘆く葉月に、龍征は顔には出さないよう本当に今更だなと心中に肩を竦めた。龍征にとってそんな後悔など、初雪にこちらにつけと言われた瞬間から馴染んだものだ。
「しかしつく側の話をするならば、霜月殿。あなたはどうしてこちらにいらっしゃるのです」
「? 初雪を守るためだと、飽きるほど言ったと思うが」
まさか聞いてなかったのかと、尋ねてきた長月に知らず顔を顰めて聞き返す。今更と言えば、これほど今更な質問もない。
そうではなく、と苦笑したのは東北風。
「奥方のためにしか行動していないのは、もう嫌でも知っています。ただわざわざこちらの陣営につくよりは、側にいたほうが守れたのでは、という話です」
「それは初雪に言え」
否、言うだけなら龍征が真っ先にそう反論した。暦家が二つに割れたからといって、夫婦で陣営を違える意味が分からない。しかも初雪は対立する一方の旗頭だ、本来なら相手側も龍征が協力すると言ったところで疑って重用しないのは目に見えていた。の、だが。
「散々平行線の議論をした後、賭けを持ち出された」
「賭け」
「師走が俺に協力を仰いでくると言われたが、有り得ないと跳ね除けた。そうしたら賭けるか、と。誘いがなければ初雪の負け、あればその時点で俺の負け。で、まんまと師走に協力する羽目になったわけだ」
完全に口車に乗せられたと後悔の在り処を嘆くと、師走から声をかけたのかと文月が意外そうな声で聞き返してきた。
「いや、考えればそれも当然か。あれは小寒を戦場にはしたくないようだからな。大寒と啓蟄から挟み撃ちをされたなら、逃げ場がない」
「卯月殿が如月の二に助力されるのは明らかでしたから、私にも声をかけてきたんでしょうね。啓蟄から立夏までが敵地となっては、確実に立春に攻め入られるでしょうし。私としても清明が戦場となるを避けられる、は抗い難い誘惑でした」
叶うなら傍観していたかったのが最大の本音ですがと溜め息混じりに告げたのは東北風で、葉月はふんと鼻を鳴らす。
「そうしてお前たちが師走についたと言われたら、儂とても二姫に手は貸せなんだわ」
「それで陣営を決める理由が、よく分からんが。別段、俺がどちらにつこうと自分の好きに決めればよかったろう」
「また戯言を。貴様と石蕗が揃った陣営に歯向かえるのは、葉月か皐月くらいしかあるまい。その葉月までこちらと聞けば、選択の余地などあるか!」
「先ほど文月殿が言われたように、大寒と啓蟄から攻め入られれば四家の諍いで済んだ話でしょうに……」
恨みますよと僅かに険がある眼差しで長月にまで射られ、龍征は阿呆かと簡単に吐き捨てる。
「そうするとお前らは、今度は師走ではなく俺を警戒する状況になっただろう。そして俺を討った奴がまた別の誰かに討たれる──暦家は滅んだも同然だ」
そうならないよう、暦家を唯一成敗する権利を有するのは帝のみと定まっている。本来であれば、勝手に二家を成敗した師走が何より先に帝に征されるべきであり、それで終わる話だったはずだ。
「──如月の二は、何故あの時点で帝に進言されなかったのでしょう。暦家の誰かがそうするにはお目通りが叶う前に師走に発覚する、けれど二はいつなりと拝謁を賜ることが可能だったのでは」
二としてはそちらが正しい道筋だったのではないかと咎めるような東北風の問いかけに、それで済めばとっくにそうしていると思いながらも、尤もだと頷いた。
「だが帝がお出ましになられたら、生温い仕置きで終わったはずだ。玉体に穢れを与えるわけにはいかないなら、初雪は二として助命を乞うしかなくなるからな。そうなると今度は二の後ろ盾を得たとして、師走が助長するのも目に見えてるだろう」
「っ、厄介極まりない……」
例えば建前だけでも、そんなことはないだろうと否定してやるほど師走に義理のある人間はここにはいない。成る程、いつになく如月の二が冷静さを欠いての暴走ではなかったのかと納得すると共に、師走の性質の悪さを痛感して溜め息を揃える。
実際のところ、師走が二家を討った時点で初雪が二として取れる手は一つだけだった。十二家を二分して争い、勝てれば最上。負けたとしても師走側に独裁を許さない数の当主がいれば多少の枷にはなる、帝を担ぎ出すまでの時間は稼げる──。
(負けた時点で自分の生命はないくらい、とっくに覚悟してたくせに。何が、万一の時は命乞いしてほしいから、だ)
冗談めかしたそれが現実的ではないなんて、お互いに分かっていた。分かっていても受け入れざるを得なかったのは、国を憂いて帝のために尽くす初雪が如月の二であるように、龍征も暦家当主だからだ。何より、惚れた女の本気を踏み躙るなどできるはずがない。
(ああくそっ、それさえ分かった上での我儘なのも分かってただろうがっ)
何故塗戸に閉じ込めるなどして防げなかったのかと、今でも時折発作のように思い出しては発狂したい気分になる。
(そうしたところで、結果逃げ出して好きに振舞うんだろうがなっ)
手に取るように分かると知らず拳を作っていると、百面相でもしていそうな空気ですねと東北風に苦笑されてはっと我に返る。難しい顔を取り繕うまでもなく、東北風以外の三人のほうがよほど顰め面をしている。
「儂らは見事に、二姫の掌で転がされたわけか」
「しかしこんな回りくどい手段を取られずとも、最初から師走を叩くと協力を仰いでくだされば」
「それでは師走が堂々と帝に泣きつく理由になろう」
「っ、ああ……」
面倒臭いと繰り返し痛そうに額を押さえる長月を尻目に、言っておくがと龍征が口を挟む。
「聞いて考えつきそうなことなら、とっくに俺や周りが論破された後だからな」
よほどの奇策を持ち出さない限り無意味だぞとぼそりと警告すると、三人の眉間の皺が深くなる。何やら他人事のようにそれらを聞いていた東北風は、ふと思いついたように龍征に顔を巡らせてきた。
「奇策と言えば、奥方にはどんな策が? 現状では、とても師走に勝てる要素はないように思うのですが」
「──、知るか」
初雪が起つと決めた時から、頭を過ぎる最悪の場面はある。だがそれは有り得ない、あってはならないと言い聞かせて見ない振りをしてようやく正気を保っているのに、正面から向き合わせようとは何たる暴挙か。
不愉快極まりなく顔を顰めて吐き捨てると、全員が何かを言いたげにしたが結局は口を噤んだ。
「とにかく事ここに至っては、二姫の側に寝返るもできん。二姫が無事にこの戦を終えるよう、祈るばかりか……」
溜め息混じりに、しかし大分本気の様子で目を伏せる葉月を笑う者は誰もいない。不信心を自覚する龍征でも、それを無駄と指摘するつもりはないが。
(最後に縋るのは、結局神か)
知らず皮肉に呟いてしまうのは、この国のそれが如月の二を祭り上げているのも知っているから。自分の奥以外のものであろうとする初雪を責められないのは、これのせいだと恨みに思う気持ちがあるからだろう。
(ただ俺の奥だけであればいいものを……)
何度となく告げたそれに、初雪はいつも複雑そうに笑うだけ。否定も肯定もしない代わり、龍征の肩に額を寄せてくることが多かった。
今は何の温もりも感じられない左肩を、無意識に触る。初雪は今頃何をしているのか──、
進めかけた思考を、そこでぶつりと途切れさせた。
やめよう。世の中にはきっと、知らなくてもいいことが存在する。良人のことをちらっとも思い出していない可能性なんて考えていない、考えてないのだからそんな事実もない。ない。




