君が聞いてくれるから、安心して言えるのです
領地の視察から久し振りに戻った龍征は、何故か自室で寛ぐ暇もなく厨に立っていた。どうしてこうなったと誰彼ともなく問い詰めたい気分だが、解せないままも馬鹿みたいに料理をしている自分なら信じ難い。
「いいじゃない、たまには自分の奥を自ら持て成したって罰は当たらないよ」
「仕事から戻ったばかりの俺にさせることか?」
「だって君の御味噌汁が無性に食べたい気分」
なのでしょうがないと重々しく頷いて答えるのは、後ろで暇そうに座っている初雪。帰って早々珍しく自分から顔を見せたと思えば、開口一番、御味噌汁を所望すると言われた。思わず拳を作った龍征を、一体誰が責められるだろう。
しかし結局初雪に殴られた痕などあろうはずもなく、着替えだけ済ませてすぐに厨に立っている自分の正気が何より疑わしい。奥の言いなりなど、どうあっても阻止すべき事態のはずなのに。文句をつけようと視線を向けた先で、やたらとにこにこしている姿を見ると言葉が淡く融けるのだから仕方ない。
(いやいや、仕方なくないだろう。ふざけるなとか、お前が作れとか、色々言うべきはあるはずだ)
あるはずだ、確かにそう思う。が。
万が一にも、やってもいいのと目を輝かせた初雪が包丁を握ると思うと恐ろしい。
(最初にやった時は、まさかで包丁を振りかぶって後ろに投げやがったからな……)
すっぽ抜けただけだ、次からは気をつけると必死になって言い訳をされたが、後ろでどうにか包丁を受け止めた将弘が二度とさせないでくれと涙目になって縋ってきた顔を忘れられない。あれが料理人だったならとっくに生命がなかったことを思えば、将弘の主張は尤もだ。
部下の命を守るための已む無い手段だと自分に言い聞かせるそれは、我ながら苦しいことこの上ない。いっそ素直に料理がしたいだけだと主張するほうが、まだましだ。
いや、ましなのか?
「背中しか見えなくても、君の百面相が手に取るように分かる」
「誰のせいだ!」
「君なんじゃない? 私はそれをしてと頼んではないよ」
ただ御味噌汁を所望すると繰り返され、今やってるだろうと溜め息混じりに答える。
「でも早くしてくれないと、暇です」
「暇なのは俺もだ。何か話でもしてろ」
「えー。君が視察先の話をしてくれたらいいのに」
「前回、話だけじゃ分からないから自分の目で見てくる! って飛び出そうとして散々説教されたのも忘れたか」
繰り返してやろうかと振り向かないまま声に怒りを滲ませると、初雪がふらりと視線を外したのは見ないでも分かる。
「えーと、それでは自分でも今もって何がどうしてそうなったかよく分からない出来事を二つ」
分かるような分からないような前置きをした初雪は、龍征が促すまでもなくさらりと告げる。
「神無月さん家に三月ほど拉致軟禁された後、水無月さん家で一月ほど監禁されました」
吃驚だねーと笑いながら言われたそれに、それは往生だったなと一度聞き流してから勢いよく振り返る。
「は!?」
「うん、だから吃驚だねーって」
「そんな程度で済む話か、それは!」
どこまで本気なのかと噛みつくように聞き返すが、悲しいかな、初雪がわざと暦家間に波風を立てるような嘘を言わないのも知っている。今もきょとんとこちらを見返す顔に、演技の色はない。
言うべきを探して何度か口を開閉させたが、しっくりくる言葉がなく鍋に向き直る。とりあえず火を止めて煮立つ危険を回避してから改めて初雪に向き直る。
「あ、もうできた?」
「まだだ。それより詳細を教えないと飯は炊かんぞ」
「御味噌汁はご飯があってこそでしょう!?」
相性抜群の二人を引き裂くなんて正気の沙汰じゃないと本気の強さで責められるが、誤魔化せると思うなよと近寄ってくる額をぐーっと緩く押し返す。むう、と拗ねた顔をされても可愛い。いや違う。
「どうやって逃げてきた」
「逃げてはないなあ。話し合いをして、じゃあ帰りますって」
「なるか、普通!?」
「なりました。二人とも愚かではないからね。……馬鹿だけど」
ちくりと刺すような言葉が付け加わるが、初雪にとってはそれで済ませられる程度の話なのだろう。有り得ないと苦虫噛み潰す龍征に少し笑い、宥めるようにそっと頬に触れられる。
「君だって、あの二人とはよく会うでしょうに」
「御前会議ではな。それ以外に、親しく言葉を交わす仲でもない」
「勿体無い。できるだけ多くの人と話したほうが、見聞は広がるよ」
それができる立場なのに活用しないなんてと、大いに自分の地位を活用して外環を巡り続けてきた初雪は緩く頭を振る。
「話になる奴となら、話すのも吝かじゃない」
「それじゃ面白くないじゃない。こんなに話にならない人もいるんだなー、って認識できていいよ」
「会議でとっくに実感してるが?」
「まあ、暦家は皆さん個性が豊かすぎるからね……」
少し遠い目をしてしみじみと噛み締めた初雪は、ふと視線を戻して苦く笑った。
「でも二家に説得は行くんでしょう?」
「っ、」
どこでそれをと聞き返しかけ、無駄を知って口を噤む。初雪には優秀すぎる影がいるのは承知だし、つい忘れがちになるが如月の二であるという事実は覆せない。今まで御前会議で直接顔を合わせることこそなかったが、本人が望めばいつなりと出席することを許されている。帝に報告されるすべてを知っていても、なんら不思議ではない。
とはいえ、果たして他家が案じるほど二と帝は通じ合っているか? は、龍征も初雪と話を重ねて抱いた疑問だが。
(成る程。対話は大事か)
ここにきて奥の言葉を実感するが、今は感慨に耽っている場合ではない。初雪がどうやって知ったかは知らないが、師走の馬鹿げた提案のせいで各暦家当主は神無月と水無月の説得に赴くことになってしまった。
「どうせ、誰が言ったところで聞き入れないのは分かってるだろうに」
「初めから諦めて臨むのは如何なものか。自分が考えを変えさせるくらいに意気込んで」
「お前のおかげで、とりあえず話題には事欠かんが」
面倒は御免だと肩を竦めると、初雪は頬に当てていた手でぎゅうと抓ってくる。
「領民に無体を働かないように説得しろと言われているのであって、誰が過去に私を浚った経緯を聞き出して来いと……っ」
「死なれる前に聞き出しておかないと、二度と聞けんだろう」
だからだと突き放すように答えれば、雷にでも打たれたような仕種で初雪は手を離した。無駄に世情に通じていて聡い初雪が思い至らなかったはずはないが、考えないようにしていた事実だったのだろう。軽く青褪めまでしているのを見て申し訳ない気分になり、今度は龍征が手を伸ばしてそっと頬に触れた。
「悪い。口が過ぎた」
「、大丈夫。分かってた……はず……」
口篭るように答え、それでも耐え切れないように目を伏せた初雪の額にそっと口接ける。慰めるように抱き寄せれば力なく寄りかかってきて、言葉は慎重に選ぶべきだったと反省する。
(しかし浚った相手と和解しているらしいのもどうかと思うが、恨み辛みさえないのか?)
その元凶たるが多少不幸な目に遭ったのを見て、自業自得だと笑ったところで罰は当たらない。寧ろ自分やそれに近しい者が仕返しに手を下してもおかしくないのではないか。
お人好しなのか甘いのかよく分からないが、理由はどうあれ初雪に辛そうな顔をさせたことに変わりはない。
「少しばかり真面目に説得してくる。それで許せ」
「それは願ってもないけど、……うん。今ので決めた」
意を決したようにぽつりと呟かれたそれに嫌な予感しかしなくて、決して顔を見たくなくてぐっと抱き締める腕に力を込めて頬を引き攣らせる。
「分かった、もういい、何も言うな」
「言っても言わなくても、もう二家を訪れるって決めたのに。無駄な足掻きだと思わない?」
「もう少し神妙な顔を保てないのか!?」
「見てもいないくせにー」
そろそろ息苦しいと力を緩めるよう背中を引かれるので、仕方なく少し力を抜く。どうしてこうも言いなりなのかと自分を問い詰めたい気分にはなるが、大きすぎる溜め息に変えた。
気の悪いと心外そうに言われるが、こちらの気を重くすることしかしない奥に言われたくはない。
「止めても無駄か」
「やりたいことがあればその間は好きにしていい、は、結婚時の約束だったように記憶しております」
故に無駄と笑顔で断言され、龍征は溜め息を重ねる。
「昔の俺を殴りたい」
「今の君なら殴ってあげるけど」
「いらん。奥に殴られて喜ぶ趣味はない」
「目覚めるかも?」
「そんな男が旦那でいいのか、お前」
「……。お互いのためにやめておこう」
重々しく頷く初雪に勝った気にはなれず苦く笑い、凭れかかるように抱き締める。初雪は軽く背を叩き、まあまあとあくまでも軽く慰めてくる。
「危ないことはしないように努めます。如月の二だけど、もう霜月初雪だから」
「なら、俺が行く時についてくればいいだろう」
「それができない程度には、如月の二なので」
君の嫁は立場が複雑なんですよと軽く笑われるが、複雑の内に龍征の奥という立場があるのは悪い気はしない。そんなだから負け通しなのだと咎める自分の声は小さくて、溜め息に紛れてしまう程度でしかなかった。
 




