幼い日のまま、無邪気にあれたらよかったのでしょうか
胸の奥をぎゅうと掴まれた気分になるのは、顔を見たことがない侍女でも彼女の好みを知ってくれていると分かるから。
初雪は昔から、黄昏時が好きだった。ゆっくりと夜に移り変わる様を眺めていたくて、火を入れるのはその後でと駄々を捏ねた。勿論、もうずっと幼い頃の話だ。まだ如月の二として出歩く前、この邸しか世界を知らなかった頃。仕方のないと受け入れてくれたのは昊で、初雪の部屋の火は何か特別な事情がない限りは日が落ちてからと決めてくれた。霜月に嫁ぎ、もうほとんど帰ってくることもなくなったのに、未だきちんと引継ぎがれている。
昊が悪戯っぽく笑って見守ってくれている気がして、突き放し主義じゃなかったのと心中に尋ねる。
「ありがとう、ちょっと待って」
部屋の四隅に設置されているのとは別に、手元にある燭台を持って侍女に向かう。呼ばれず近づいてくる主人に戸惑いながらも、おずおずと火種を移してくれる侍女にご苦労様と声をかけるとぱっと嬉しそうにして急いで頭を下げられる。
「残りの燭台には」
「ここから移すから大丈夫。もう下がっていいよ」
「はい、それでは失礼致します」
緊張した面持ちで再度頭を下げた侍女が離れていくのを見送り、暗く沈んだ部屋に小さな火を持って戻る。まだ部屋に灯りを広げる気にはならずに窓辺に戻り、手に火を持ったまま座り直すと、
「初雪」
慣れた声に呼ばれて振り返れば、未だ火の届かぬ闇にすらりと立つ人影を見つける。誰かと問いたくなるほど顔は分からないが、その立ち姿と好んで纏っている白檀の香りで誰かは分かる。
「叔父上」
どうぞと促されてようやく足を踏み入れてきた曇天は、初雪の手許にある火しか頼りのない部屋を見回してやれやれと小さく苦笑する。
「相変わらず、薄暗い部屋だね。せっかく神から火を賜ったというのに」
もう少し明るくなさいと幼い頃から変わらない調子で諌めながら顔が分かるほど側に寄ってきた曇天は、心配そうに見下ろしてくる。
「また何かしら思い詰めた顔だね」
「そう、ですか? いつもこんな顔ですよ」
困って眉を下げると目の前で膝を突いた曇天はそっと手を伸ばし、優しく頬に触れてきた。
「お前は少々乱暴なほど元気なほうがいいね」
「……褒められているようには聞こえません」
「まあ、褒めてはいないからね」
顔を顰めて反論すると、くすりと笑った曇天は頬を撫でた手で頭を撫でてきた。
「子供扱いも過ぎませんか」
「お前が私の年を越えることがあれば、その時は改めよう」
それ以外は諦めなさいとさらりと言ってのける曇天に、苦笑交じりの息を吐く。しばらくして満足したように手を離した曇天は改めて座り直し、じっと目を見据えてきた。
「無理を押して嫁いだ身で、良人と離れることになるのは寂しかろう」
「……否定はしません」
「いやに素直だね」
「叔父上の前で虚勢を張っても仕方がないので」
お見通しでしょうと苦く笑うと、曇天はまた手を伸ばしてきて頭を撫でた。遠い日からの、これは彼の癖なのだろう。思い出すほどの時間は黙って受けていたが、もう人妻なのですがとちくりと刺すと手が止まった。
「ああ、そうだった」
失礼したねと畏まって謝罪しながら手を戻した曇天は、変わらずに真っ直ぐ初雪を見つめてくる。
「如月を巻き込んだことについては色々と物申したいが……、お前が可愛い姪であることに変わりはないよ。望むなら、私が帝にお目通りを願おう」
「叔父上、それは、」
なりませんと眉を寄せると、曇天は少し困ったように笑った。
「お前ももう分かっているだろうが、このままでは一番被害を受けるのは他でもない、お前が愁う民だよ」
二の我儘にしてはひどいと、柔らかい口調ながら突き刺してくる曇天に項垂れるように頭を垂れる。
「叔父上の仰る通りです。それでも叔父上が帝に無茶を仰せになれば、私に二の資格なしとなった時に代われる者がなくなりましょう」
「初雪、滅多なことを言うものではない」
「いいえ、そこまで考えるべき愚かを働いている自覚はございます。故にどうか、先ほどの話はなかったことに。叔父上のご助力を仰ぐべき時は、ちゃんと自ら頭を下げに伺います」
今はそのお心遣いだけと丁寧に手をついて頭を下げると、そっと溜め息か降りかかる。
「そこまで心を決めているなら、もうお前は梃子でも動くまい。……帝へのお目通りを願うのはやめておこう、但し無茶はしないと約束しておくれ」
お前は大事な兄者の娘なのだからと顔を上げるように促しながら言われ、嘘になっても構わないのならと頷くと呆れたように眉を上げて、苦く笑われた。けれどそれ以上の言葉は呑み込まれ、三度頭を撫でられた。
手を突いたままの畳に、影が揺れる。
「霜月の苦労が偲ばれる……、お前は我を曲げることを知らないから」
昔から何も変わらないとぽつりと呟かれたそれがどんな表情で言われたのか、頭を撫でられて俯いたままの初雪には分からなかった。




