最終手段は、使えないからこそ最終なのです
一応最後の説得という名目で訪ねて来た龍征と別れた後、初雪たちは啓蟄の如月邸に移動した。暦家の当主も揃っている中、まさかその辺で宿に泊まるというわけにもいかないからだ。初雪一人だったなら、いっそ野宿でも構わないのだけれど。
(もうじき夏だし、風邪も引かないし)
さすがの彼女だって、まさかその辺の草むらで横になるほど豪胆ではない。ただ他領にて身分を明かさず宿を取ることに慣れていなかった頃、木の上で落ちずに眠るという特技を身につけた。龍征に知られた時はくれぐれも二度とするなと念押しされたが、久し振りにやって落ちても間抜けなので今でもこっそり練習しているのは内緒にしている。
(言ってもこれからしばらくは、さすがにそんな気儘は許されないけど)
否、本来であれば霜月に嫁いだ時から色々と自粛すべきだったのだが。身を案じて叱りはしても自由に過ごさせてくれていた、龍征にとことん甘やかされていたのだとここにきて痛感する。
(まぁ、敵対することを受け入れてくれた時点でよっぽど愛されてるわけですが)
普通は離縁するよねと他人事のように考えつつ、ぼんやりと窓の外を眺める。
気儘を許されていた初雪は、幼い頃から他領をふらふらと歩き回っていたためあまり長く邸にいなかった。それでも帰ってくれば自室に戻ったし、兄弟でこそこそと話をするには彼女の部屋が最適だった。だからここにいると、嫌でも思い出す。自分が如月の二であること、それを厭ったところで如月は捨てられないこと。誰より強く熱い思いを、誓いを聞いたからこそ、同じく如月を──啓蟄を愛し守るのは生涯をかけての使命だと。
(勝手でごめん)
心中に重く謝罪するのは、誰に向けてだろう。今はもうないたった一人の兄か、ここに暮らすすべての民か。はたまた大雪の民にか、たった一人の愛する存在か……。
また溜め息をつきそうになり、どうにか堪えて深呼吸に変える。この邸ではもう誰も纏わないはずの菊花の香が鼻を掠めた気がして、いない存在を探して部屋に視線を巡らせた。
「責めてる?」
応えがないのを分かっていながらぽつりと尋ねるが、返事と思しき何も起きない。見捨てられたのか信用されているのか、微妙なところだと苦く口許を歪める。
「昊は放任主義だから」
困るんですよねぇと僅かに声を尖らせて脇息に肘を突き、泣きたい気分で目を伏せる。
如月の一は、彼女にとっても特別だった。如月の後継というだけでなく、人として兄として、家族として。いつも二に対する距離を取りすぎるほど取っている両親より、昊と雷鳴だけが初雪にとっては家族だった。その兄が命に代えて守ると宣言していた啓蟄の民を戦争に巻き込むなんて、生きていれば何と言っただろう。
(……何も言わないね、きっと)
好きにしろと、雷鳴が諦念を持って受け入れたのと同じように昊もまたそうしただろう。お前なぁ、と呆れた声を出したとしても、軽く頭を小突いても責めたり説得したりはされない予想はつく。決めた以上は自分で何とかしろと突き放されるのも想像がつくなら、もう笑うしかない。
(やりますよ、何でも。好きでではなくても、始めた責任くらいは取らないと)
この手に持っているのが如月だけだったなら、多分今頃は師走を始末して決着としていた。突き詰めたなら、師走は自分の思い描く世界に初雪が邪魔で、初雪は暴走する師走が嫌いだという理由で始まった争いだ。二人で殺し合って生き残ったほうが勝ちという、至極単純な構図に落とし込める。
だがそうすればいいと提言した龍征を止めたのは、するとなれば初雪が動くのを待たずに龍征がさっさと実行しかねなかったからだ。自分がする分には構わない、けれど他人にはしてほしくないなんて身勝手にも過ぎる。分かっていて実行すればもう誰も初雪の話を聞かなくなる、それは避けたい。
(それ以外で即座に止める方法もあるにはあるんだけど、本気で最後の手だからなぁ……)
やりたくないが七割。やるべきではないが二割。残り一割でしかやれない、最終手段。
如月の二として帝に師走の蛮行を知らしめ、直接止めて頂く。
実際に戦いを避けるには最善にして唯一の方法で、初雪さえその気になれば今からでも簡単に叶う。分かっていて何故実行しないのかと問われれば、どこまでの効果があるか分からないからというのが最も大きな要因だ。
そもそも帝は水穂を治められるとはいえ、実際に外環の統治は暦家に一任されている。それぞれの裁量で治めよが基本方針であり、よほどの事態がない限り口出しをされないのが暗黙の了解としてある。今回の騒ぎにしても既に帝の耳には入っているだろうが、今のところどの領にも帝からの下知はない。外環がなくなるような事態にでもならない限り、やはりお出ましはないだろうと全員が踏んでいる。
そこに如月の二としての職権を乱用して赴いたところで、師走許し難しと即座に仕置きに動いてくれるだろうか。
(水無月と神無月をいきなり斬り殺したのは非道としても、形ばかりとはいえ暦家全部を巻き込んで説得って形は取った後だし。あくまでも主観で身勝手だったとはいえ、民意を代弁したって体裁は整えられなくはない。そうすると帝による師走の処断は一方的だって言いがかりはつけられるだろうし、そんな面倒に巻き込まれるのをよしとはされないよね)
思いつく体面だけでも動かない理由なら十分だが、実際には別の原因で無視されるだろうと確信している。何しろ帝は、如月の二が何よりお嫌いだ。
(如月の二など廃止してやる! って、もう何回面と向かって言われたか知れないしねぇ)
参った参ったと他人事のように思い出す初雪にしても、事の重大さは身に染みて分かっている。だからこれを笑い話として提供したのは昊と雷鳴の二人だけで、その二人ともが聞くなり言葉を失い血の気を失い、酸欠の魚よろしく口を開閉させた後で頭を抱えて蹲った。さもありなん。
水穂では、神を信じようと信じまいと自由だ。最近では龍征のように、神様って何ですか。などと言い出す不信心者も多い。それを罰する法律もないし、罰当たりだとは思っても聖職者ですら糾弾しないけれど。
唯一、公言すると全員から不審と不信の目で見られる存在がある。それが帝だ。
(天意なくして務めるに能わず、が未だ根強い共通認識だしなぁ。龍征君みたいな不信心者でも、旱魃や洪水が続くと帝の資質を疑うものだし。神の加護のない帝なんて認めない、って話になるからね)
そして誰の目から見ても分かる“神の加護”は、他ならぬ如月の二だ。それを蔑ろにするということは自ら加護を放棄するに等しく、引いては国を傾けることにも繋がる。いくら帝や初雪がそんなはずがないと理解していても関係ない、民がそう信じているのが問題なのだから。
(要は呪いの原理と一緒なんだけど、悪いことが起きると何かに原因を求めたくなるのは当然の心情だし。そうである以上、帝と如月の二が不仲なんて広まったら簡単に滅びかねないのを分かった上で、それでも廃止しようとされるから……)
今上帝は歴代の帝と違い、行動力に溢れておられる。初雪が知っているだけでもう三回は廃止すべく法の改正に着手されたが、その度に皇宮の一部が内々ながら上を下にの大恐慌に陥った。隠棲された上皇后までが奥院からお出ましになり、泣いて縋ってお止めになって何とか実行には至っていないが。未だに機会を窺っておられるのは間違いなく、そんなきっかけになる言動は慎むべしと初雪にも厳しいお達しがあった。
(師走の仕置きなんてお願いに行ったら、是幸いと二の廃止に動き出されそう……。普段だったら別にお止めしないけど、今回ばかりはそれで師走さんが暴走したら目も当てられないっ)
それだけを恐れて行動できない、けれどそのせいで全員を巻き込む事態になるのも耐え難い。きりきりと痛む胃を押さえて溜め息交じりの息を吐いていると、姫様と控えめな声に知らず伏せていた目を開けた。
黄昏時を通り過ぎ、火の入っていない部屋はもう真っ暗だ。声をかけてくれたのは手に火種を持った侍女で、ずけずけと踏み込むが真似をしないでそっと控えている。
(ああ……、ここはまだ、私の家か……)
胸の奥をぎゅうと掴まれた気分になるのは、顔を見たことがない侍女でも彼女の好みを知ってくれていると分かるから。
 




