早速ですが、敵対します
「今日から敵だね」
はにかんだような仕種で、思わず見惚れる柔らかを刷いて、彼にそう告げたのは霜月初雪。誰でもない彼──霜月龍征の唯一の奥であり正室である存在の発言としてはあまりに物騒だが、驚くには値しない。断じて自分から望んだ事態ではないが、そうすると受け入れてしまったのは龍征だからだ。
おかげで無様に狼狽するが醜態を晒さず黙って敵であり奥である初雪の顔を眺めていた龍征は、どこかでこの表情を見たなと現実逃避に近く考える。
最近ではない、けれど胸がぎゅうと絞めつけられるこの甘やかは。
ああ、そうだ。祝言を挙げた直後、二人きりになった時。薄暗い部屋の中で、何故か布団の上で膝を突き合せて座り、初雪が言った。
「今日から夫婦だね」
幾らか照れ臭そうに、大事に紡がれたそれに、知らず腰の辺りがざわりとしたのまで思い出す。
あの瞬間、龍征は気紛れで迎えたお飾りのはずの奥に囚われてしまった。それを受け入れるにも少し時間を要したが、すべてにおいて色々と規格外な正室に振り回される日々に癇癪を起こさなかった時点で勝敗は決していたと言える。
(それにしても、これはちょっとやりすぎじゃないのか?)
未だに納得しきっていない証拠のように考えるが、懐かしくも幸せそうな初雪の顔を見ていれば口にするのが野暮に思える。
本当なら、まだ間に合うはずだ。今この時、この場でなら。強引に腕を取り、後ろに居並ぶ面々から引き離して遠ざけてしまえばいい。初雪は彼の奥なのだから、誰にも責められる謂れはない。厳密に言えば敵地であることと、何より主の逢瀬を邪魔してはならないとの理由で大分距離を取ってはいるが、彼の背後にも霜月の部下が控えているなら尚更、無理に引き戻すくらいは容易い。
好き好んで添い遂げた相手と何が悲しくて敵対せねばならないのか、龍征が最初から抱いている疑問は世間的にも大いに同意されるはずだ。
けれど。
それをして、初雪の表情が歪むのも火を見るより明らかだ。悔しいほどに冷静で飄々としている彼女のことだから、人目の有無に関わらず龍征を詰ったり泣き叫んだりはしないだろう。ただひどく悲しそうに眉を寄せたり、最悪を予想するなら侮蔑に満ちた目で見られるくらいで──。
何より恐ろしい事態を想像しただけで震えを来たし、龍征は誤魔化すように一度目を伏せた。
対等でありたいとは、求婚した時に出された一つだけの条件。予想もしていなかった答えに面白がって望み通りにと受け入れ、それではと手が重ねられた。
敵対しようと今はまだ重ねてくれているそれを振り解く気にならないのだから、負けを受け入れるしかないではないか。
溜め息だとは気づかれないように細心の注意を払って息を吐き、真っ直ぐに初雪を見据えて言う。
「今日から敵だな」
初雪の言葉をなぞるように答えたのも、二度目。夫婦と敵とでは天地ほどの差があるはずなのに、初雪はあの時と同じようにくすぐったそうに身を震わせ、堪え切れないといった様子で口許を緩めた。
こいつは何度俺を殺す気だろうと冷めた風に考えるが、こちらも堪え切れず口の端が持ち上がっている自覚はある、背後の部下には死んでも見せたくない姿だ。
幸いなことにそれを確かに見られる位置にいるのは初雪だけ、そして彼女は龍征よりずっと素直に口許を覆ったり頬を引っ張ったりして表情筋の緩みを正すべく努力している。この可愛い女が俺の奥と噛み締めるが努力して平静を保ち、初雪が息を整えるのを待つ。
軽く胸に手を当ててふうと息をついた初雪は、恨めしそうな目で龍征を見て咎める。
「敵なんだから、無闇に口説かないでくれる?」
「今のそれで口説かれたと思うのはお前だけだ」
言いがかり以外の何物でもない発言にさすがに呆れて突っ込むと、初雪は幾らか複雑な顔をしたがまあいいかと大きく息を吐き出した。
「君の口説き文句を理解できるのが私だけならよしとしよう」
「──敵なんだから無闇に口説くなっ」
うっかり真に受けそうになって噛みつくと、勝ったとばかりに笑う初雪が可愛い。
違う俺の頭は花畑かと、すぐにほわんと緩みそうになる自分を戒めて頭を振ると、改めて自分の奥と向き合う。こちらも真面目な顔をして見つめてくる初雪と視線を交わし、出された手をぱんと軽く打ち鳴らした。
それ以上の言葉はなくにっこりと笑った初雪はくるりと背を向け、姿は窺えるが声は届かない程度に離れていた自分の陣営へと戻っていく。
「……もういいのか」
歩き出した初雪に最初に近寄って確認したのは、如月雷鳴。ちらりとこちらに視線を寄越し、他人には分からない程度に目礼した。本来であれば応える道理はないのだが、雷鳴に対する義理を立てて龍征も小さく頷き返した。
もう敵なのにーと、揶揄するように語尾を上げたのはその義理を生じさせた当人である初雪。龍征の義弟──つまり初雪の実弟は、一歩遅れて姉についていきながら溜め息混じりに返している。
「つーか、敵でもお前の旦那だろ」
「それは否めない」
「で、もういいのか」
隣に並んだ足を緩めて戻る時間を稼ぎながら問い直す雷鳴に、初雪はうんと軽く頷く。
「これ以上は示しがつかないじゃない」
「いや、如月の二が何をしようと、もう誰も驚かんと思うけど」
今更とばかりに眉を上げ、どうせお前のやることだからなと重々しく告げる如月の三に、初雪の嫌そうな目が向けられている。
「私はもう霜月の奥ですが」
「それで消える肩書きなら苦労してないだろう」
「もう雷鳴が二でいいんじゃない?」
「文句は先祖に言ってくれ」
所詮俺は三なんでーと気楽そうにおどけて言う雷鳴の足に、無言で目を細めた初雪の蹴りが入ったのは見なかったことにする。彼女は案外、手が早い。痛いとでかい声で上がる悲鳴は、強ち大袈裟でもないことを知っている。
一先ず溜飲を下げたらしい初雪は、雷鳴からも少し離れた場所で待機していた若葉頼国と狭霧槙也に迎えられてその先に居並ぶ面々を見回した。敵であるはずの龍征が離れているとはいえその場にいることを不審がる者はほとんどなく、膝を突いた体勢で控えていた全員はただ熱心に初雪を見上げている。
初雪はぐるりと全員を見回すと、さてと少しだけ声を張った。
「じゃあ、一緒に師走をぶっ飛ばそーう」
あまりにやる気がないようにも見える掛け声だったが、応えて上がる鬨の声は地を震わすほど。咄嗟に腰に佩いた剣へと手を伸ばしそうになり、何とか堪えて拳を作った。
これが。すべて敵に回る。分かっていても理解に及んでいなかった事態を目の当たりにして知らず息を呑んでいると、肩越しに遠く振り返ってきた初雪と目が合った。
何も言わないまま、ただ静かに微笑む姿は見惚れるほどに綺麗で。名残を惜しみながら顔を戻す初雪の髪は、まだ霜月に伝わる香を纏うだろうか。