そのとき彼は 1
木が根こそぎ消えて、半年経った。
ヴィルフリートは二十歳になり、冴香の見せてくれた家電製品を基にさまざまな魔法器具を開発したことで、「シュタイン卿」と呼ばれるようになっていた。
また学友である王太子は父王の隠居をきっかけに即位したが、今でも「ヴィルフリート」「陛下」と気軽に呼び合う仲であることもあり、ヴィルフリートはフローシュ王国内で有名になった。
だが彼はリリズの町の隅っこで暮らすことに喜びを見出しており、仲間と共に仕事をし、今では十五人にまで増えた門下生たちと穏やかに暮らす日々を幸福と感じていた。
きっと冴香も、ヴィルフリートの知らない場所で幸せになっている。
確証があるわけではないが、そう思わないとやりきれなかった。
もしかすると冴香はヴィルフリートのことを忘れて別の男と一緒になっているかもしれないが、ヴィルフリートは一生独身を貫くつもりだった。国王からはそれとなく見合いを薦められたりしているが、どれも丁重に断っている。
自分は生涯、冴香以外の人と添い遂げるつもりはなかった。
別に結婚しなくても、気の合う仲間たちや自分を慕ってくれる子どもたちと一緒に暮らしていけたら、それでいい。それに、たとえフローシュ王国が他国との抗争に巻き込まれることがあったとしても、妻子のいない自分なら心おきなく出兵できる。それならそれでいいのではないか。
――そんなことを思っていたある日。
自室のデスクで手紙を書いていたヴィルフリートは、にわかに左手が焼けるように熱くなって悲鳴を上げた。
「くっ……これ、は……?」
似ている。
半年前、桜の木が消滅して間もなくの頃にぴりっと感じた痛みに似ていて、それよりもっと酷い状態だ。
椅子から立ち上がり左手を押さえながら痛みに堪えていたヴィルフリートだが――ふわり、と目の前で黒いカーテンが踊った。
きらきら眩しい光を纏いながら、彼の目の前に一人の女性が現れた。
寝台に横たわっているかのように仰向けになり、両目を固く閉じている全裸の若い女性。
その顔立ちは最後に見たときよりずっと大人びているけれど、忘れるはずがない。
「っ……冴香!?」
裏返った声を上げ、ヴィルフリートは両腕を差し伸べた。
それまでは彼の目の高さに漂っていた冴香の体はすうっと下降して、ヴィルフリートの腕に収まった。とたん、それまで背筋を伸ばして仰向けになっていた彼女の体がくったり弛緩し、喉を反らせそうになったので慌てて抱え直す。
冴香がいる。
なぜか裸だけれど、ここにいる。
ここにいるはずなのに――
ごくっとつばを呑み、ヴィルフリートはもつれそうになる足を必死に動かして彼女をベッドに運ぶ。冴香は深い眠りに就いているようで、一切反応を見せない。
おかしい。
彼女の体にひとまずシーツを掛け、いろいろな感情でグチャグチャになりそうな頭をフルに回転させながらヴィルフリートは思う。
自分は今、この手で確かに冴香の体を抱きしめた。柔らかくてふにゃっとした感触ははっきり感じられたし、触れた素肌は温かかった。生きているのは間違いない。
だが――異様に体が軽かった。
痩せているというわけではなく、もはや人間を抱えているとは思えないくらいの軽さだった。
しかも、顔色がよくない――いや、よくないのではなく、透けている――?
「……マックス!」
「さっきからどうしましたか、ヴィルフリート。悲鳴が聞こえて――」
「来てくれ! いや、やっぱり来るな! フローラとアンネを呼んでくれ! 今すぐに!」
「はい?」
「冴香が来たんだ!」
その後、冴香の世話はフローラとアンネに頼み、ヴィルフリートはマクシミリアンと緊急会議を開くことになった。
「そういえば……聞いたことがあります。肉体が破壊された際、魂だけを異世界に引っ張り込むという秘術です」
マクシミリアンの言葉に、ヴィルフリートは青い顔で頷く。
「……俺もそれを考えていた。まさかこんな形で、その秘術が発動するとは思っていなかったけれど……」
「あなたは昔から、頭はいいのにどこか馬鹿でしたからね。サエカ様に贈る指輪を作るときにとにかくいろいろな魔術を詰め込み、しかもいろいろな条件が重なった結果、発動したのでしょう」
「……ということは、今の冴香は魂だけの状態なんだな? だから服を着ていなかったし、体は軽いし、透けているし――」
ぶつぶつつぶやくヴィルフリート。
マクシミリアンは「……だから私を追い返したのですね」とひとりごちたあと、持っていた分厚い書籍を捲った。
「まあ、魂だけ引っ張り込むのは法律に触れているわけではありませんし、きちんとした手順を踏めばサエカ様の肉体を再形成させられるでしょう」
「ああ。……俺と魔術の契約を結べばいいんだったか」
魂だけの状態で異世界に引っ張り込まれると、しばらくすれば消滅してしまう。
消滅しないようにするためには、「この世界に馴染ませ、肉体を再形成する」必要があった。
フローシュ王国でも昔には、異世界から呼び寄せた魂で肉体を再生させた例がある。魂まで失った死者を生き返らせたわけではないし、言ってしまえば異世界人にこの世界における人権はない。「壊れてしまったものを修復しただけ」ということなので、禁忌とされているわけでもないのだ。
肉体から離れそうになった魂を呼び寄せる、という魔術の発展系だと思えばいいのだ。
多大な魔力を必要とするが、その媒体となるのがヴィルフリートなら問題はない。
「……それはそうですが、つまりそれは、あなたとサエカ様が結婚することになるんですよ」
マクシミリアンは念を押すように言う。
冴香の魂をこちらの世界に馴染ませる――つまり、冴香の体を再形成するためにヴィルフリートの魔力を使い、なおかつ「この人はこの世界の人間の伴侶です」という一種の契約を結ぶ。こうすることで冴香の体はこの世界に馴染み、肉体を保つことができるのだ。
肉体再形成の魔術が存在しながらこれまであまりケースがないのは、そういったたくさんの条件をクリアしなければならないからだ。そして、結婚誓約の際には双方の同意が必要なので、冴香から結婚を承諾する言葉を聞き出さなければならない。
とにかく、やるべきことや条件が多いのだ。
そうと決まれば。
「マクシミリアン。すぐに結婚式の準備を整えてくれ」
「式までするんですか? サエカ様の同意を得て誓約書を書けばいいんでしょう?」
「こういうのは形から入るべきなんだ! 俺は今から冴香の許可を取る。だからすぐに皆への事情説明や陛下への連絡を済ませてくれ……頼む」
「……あなたからこうして何かを必死に頼まれるのも、久しぶりですね。分かりました」
マクシミリアンが了解してくれたことにほっとする間もなく、ヴィルフリートは寝室に向かった。
フローラとアンネは椅子に座って冴香をまじまじと見つめていたが、ヴィルフリートが来ると立ち上がり、「失礼します」と言って部屋を出て行った。物分かりのいい子たちで本当に助かる。
寝室で二人きりになり、ヴィルフリートはベッドで眠る冴香に歩み寄った。
フローラが自分の新品の寝間着を貸してくれたので、今の冴香は真っ白なネグリジェを着ている。肩胛骨までの長さの黒い髪はきれいに整えられていて、両手を重ねられた胸は微かに上下している。
生きているのは間違いない。だがやはり体はほんのり透けて見えるし、今すぐにでもふうっとかき消えてしまいそうなほどその体は儚い。
急がないと、時間がない。
「冴香。冴香――」
必死で呼びかけ、彼女の体の負担にならない程度に肩を揺する。
お願いだから、目を覚ましてほしい。
やっと会えたのに、やっと触れられたのに、消えてしまうなんて――耐えられない。
ヴィルフリートの必死の願いが通じたのか、冴香のまぶたが震え、ぼんやりと目が開いた。それだけで――まぶたの隙間から黒い目が覗いているのを見るだけで、ヴィルフリートの胸は幸福で潰れそうになる。
「冴香……目が覚めたんだね」
なるべく優しく呼びかけると、冴香はこっくりと頷いてくれた。もう嬉しさで頭の処理能力が限界突破しそうだが、狂喜乱舞している暇はない。
早く、冴香の許可を取らなければ。
「聞いて、冴香。君のために、俺たちはすぐに式を挙げなければならないんだ」
「しき?」
寝起きだからか、冴香は舌っ足らずに問い返す。
そんな姿に思わずぐらっと来そうになりながらも、ヴィルフリートは自分の胸に片手を当て、冴香となるべく視線の高さが合うようにしゃがんだ。
「……時間がない。俺と結婚してください、冴香」
どうか、「はい」と言って。
言ってくれないと、ヴィルフリートは。
冴香は――
冴香はしばしぼやっとしていたが、何かに気づいたように目を瞬かせ、心底嬉しそうに微笑んだ。
「……喜んで」
許可が取れた。
しかも、単なる「はい」とか「分かりました」とかではなくて、「喜んで」という言葉で。
ふわっとした笑顔まで添えて。
ヴィルフリートは喜びのためか安堵のためかカリカリしてきた喉をごくっと鳴らし、ベッドに横たわる冴香の体をぎゅっと抱きしめた。
軽く、儚く、脆い体。
でもその感触はあるし、温もりが感じられるし、首筋からはドキドキするようないい匂いがする。
冴香が存在する。
冴香が自分の求婚を受けてくれた。
あとは、契約を結ぶための準備をするだけだ。
「ありがとう、冴香!」
「ん。結婚式なら、ドレスを着たい。真っ白で、ふわふわで、可愛いドレス。お尻をふくらませたデザインのがいいの。布で作ったお花も、付けてほしいな」
なんと、冴香はドレスに細かな注文まで付けてきた。
さっきまでは少々舌っ足らずだったというのに、この饒舌っぷりである。
ヴィルフリートは一瞬言葉に詰まったが、すぐに何度も頷いた。
甲斐性なしにだけはなりたくない。
急ぎは急ぎなのだが、冴香のお願いだったら何でも叶えてあげたい。
そうしていると冴香の体力が尽きたようで、彼女はまぶたを閉じてくたっと力を抜いた。
まさか――と一瞬肝が冷えたが、寝息が聞こえるし、胸も上下しているのでほっとした。
大丈夫。まだ間に合う。
「……マックス!」
「説得はできましたか?」
「できた! 今すぐに真っ白なウェディングドレスを調達する! ふわふわで、尻を膨らませた、可愛いドレスだ! 布で作ったたくさんの花も付けなければならない!」
「え? 今からですか?」
「今から! 行くぞ、マックス!」