5 この世界で生きていく決意
あっという間に春休みは終わり、私は一旦ヴィルと別れた。
でも、祖母の家に帰省するたびに、私たちは桜の木の下で語り合った。どうやら桜の木に私が近づいたら自然とヴィルも私の夢を見たようで、すれ違うことはなかったみたいだ。
そうしているうちに、私はヴィルより早く年を取った。十二歳と十六歳だったのが十五歳と十七歳になり――ついに、十八歳で年齢がそろった。
十八歳といえば、母方の祖母が亡くなった頃じゃないか。
それを指摘すると、ヴィルは頷いた。
「そう。おばあさんが亡くなったし、冴香は大学進学のために都会に行くから、もうここに来ることはなくなるって言われたんだ」
「……そう、だったの」
「だから俺は、君に指輪を渡したんだ」
そう言ってヴィルは、私の左手を指さした。
……指輪?
「そんなもの、もらっていたの?」
「うん、俺のあらん限りの魔力を込めた指輪だ。これが冴香を守ってくれるってね。たぶん、冴香がこっちの世界に来る際に壊れてしまったんだと思う」
……そういえば、指輪の魔力がどうのって話をしていたような。
え、つまり私たちって、お互い十八歳にして指輪をもらうような仲だったってこと?
……顔が、熱い。
十八歳の私、大人の階段駆け上がりすぎだ! 覚えてないけど!
「別れは辛かったけれど、植木鉢はずっと残っていたからね。これを冴香と繋がれる唯一の存在だと思って大切にしようと思っていた。でも……ある時、木が根本からぽっきり折れて切り株になってしまってね」
「え、壊れたの?」
「……たぶん、俺が持っていた植木鉢の木と君の世界に生えている桜の木は繋がっていたんだ。予想だけど、君の世界にある桜の木が切り倒されたんじゃないかな。しばらく経ったら切り株ごとごっそりなくなってしまったから……」
そっか……でも残念ながら、私にはその桜の木がどこにあったのか、分からない。
母方の祖母の家は県道沿いにあったし、春になったら桜も満開だったと思う。でも、その辺の記憶もすっぽり抜け落ちているのか、思い当たる節がなかった。
「……それじゃあヴィルから贈られた指輪は、私が電車に轢かれそうになったときに魔術とやらを発動して、私の魂をこっちの世界に引き込んだってこと?」
「そうだと思う。俺自身もこんな結果になると思っていなかったけれど――とにかく、君は魂だけの不安定な状態でこっちにやってきた。このままだと、君はこの世界に馴染めず魂ごと消えてしまう危険があったんだ」
「えっ、何それ。私、消えそうだったってこと?」
「消える」という言葉にぞっとした私が詰め寄ると、ヴィルは苦い顔で頷いた。
「君、結婚式の間はずっとぼうっとしていただろう? それはきっと、魂が分離寸前になっていたからだ。君の魂をとどめさせるには、この世界で生きる人間の魔力を流し込み、『この世界で生きる』という魔術を執り行う必要があった」
「……まさかそれが、あの結婚式だったの?」
そういえばぼんやりする意識の中で、ヴィルに求婚された覚えがある。
あのときはふわふわしていてどうせ夢だろうと思っていたけれど、私の魂はそんなに危険な状況だったってこと……なんだね?
「魔力を込めた台帳に俺と君の名を記し、君の体に俺の魔力を流し込んだ。今、君は体のどこにも不都合がないだろう? それは、魔術が成功したっていう何よりの証。……その、てっきり俺のことを少しでも覚えていると思って強引に進めてしまって、申し訳なかった」
そう言ってヴィルが頭を下げるもんだから、私は慌てて彼を止めなければならなかった。
「謝らないで! その、確かにいろいろびっくりしたけれど、ヴィルは私が消えないように一生懸命動いてくれたんでしょ?」
「……まあ、そうだけど」
「それに……私の方こそごめんなさい、だよ。ヴィルは二十歳なんでしょう? いきなり私みたいな年上と結婚しなければならなかったなんて……あなたにとって負担でしかないはず」
巨乳子に言われた「ババア」は地味に、私のハートをえぐっていた。
いいもんいいもん! どうせあの巨乳子だって十年すれば「ババア」になるし、さらに数十年すればあの巨乳も垂れる……はずだ。
でも、ヴィルは弾かれたように顔を上げ、私を凝視してきた。
「負担なんて……とんでもない! 君と結婚できたのは、俺にとっては幸運以外の何物でもないんだよ!」
「……え?」
「俺はずっとずっと、君のことが好きだった。好きだけど、俺と君は異なる時間軸を生きているし、触れあうこともできない。さらに桜の木も消えてしまったし――俺は一生独身を貫いて、魔術研究だけをして年老いていく覚悟だったんだ」
「……お?」
「でも、そんな俺の前に君が現れた。君はちょっとぼうっとしていたけれど、俺の求婚を受けてくれた。……これが、幸福と言わずとしてなんだというんだ?」
「……あ?」
「俺たちの婚姻関係は、解消することができない。ただでさえこの世界は、魔力を持たない君にとっては生きづらい場所だ。だからせめてこれからは……君の夫として一生を尽くし、一生君だけを愛することを誓うよ」
そう言うとヴィルはテーブルに伸びていた私の右手を取り、ちゅっ……と手の甲にキスを落とした。
わあ、手の甲へのキス!
ロマンチーック!
「……で、でも、私、あなたのことを――」
「覚えていないんだよね? でも、それは君の罪じゃない。こうなったら、君が俺に恋をして、俺のお嫁さんになったことを幸せに感じてもらえるようにするしかないな」
ヴィルは私の手をそっと愛おしそうに撫でた。場合によっては警察に通報案件の行動だけど、ヴィルの手つきには一切のいやらしさがなくて、むしろ優しく撫でられていると少しずつ肩の力もほぐれてきた。
「君が嫌がることは絶対にしない。……何年も我慢したし、一生独身の覚悟だってしていたんだから、これくらいどうってことはない。君の同意が得られるまでは絶対に手を出さないから、安心して」
「手を出さないって……でも、あなたはその……わ、私のことを好き……なんでしょ?」
「好きだから大事にしたいってのは当たり前じゃないか?」
さっくり言い切るヴィルは、間違いなくイケメンだ。顔だけじゃない、心もイケメン。
ヴィルは笑顔だ。
でもその笑顔はどう見ても無理をしているみたいで……ちくりと、私の胸が痛んだ。
話を交えながらの朝食を終え、私はヴィルに連れられて部屋を出た。
「俺はここ、フローシュ王国の魔術師だ」
「……本当に魔法が使えるんだよね?」
「そうだよ。……ほら」
「わっ」
振り返ったヴィルが指先に炎を灯したから、ついつい私は声を上げてしまう。
「何か魔法を見せて」と言われて手に炎を灯す。鉄板だ!
「俺はわりと魔術には才能がある方で、いろいろ進路はあったけれど、個人的に関心があったから魔術研究部署に就くことになった」
「それは、研究者ってこと?」
「そうそう。……で、この屋敷は俺がリリズという町で暮らす際の拠点なんだ」
ヴィルに案内された先は、ベランダだった。私たちが今まで話をしていた部屋は地上三階にあったようで、ベランダに立つと地上はもちろん、遥か彼方まで眺めることができた。
芝生の敷き詰められた広い庭。
その先に見える、西洋風の家並み。あれがヴィルの言うリリズって町かな。
その向こうは森が続いていて、地平の彼方では、きらきら輝いているものが見えた。あれは……海か川かな?
私はすうっと息を吸った。
風景だけじゃない。
風の匂いまで、地球とはまったく違う。
ここは、外国じゃない。
魔術が存在する、異世界なんだ。
「……私は、この世界で生きていくんだね」
ぽつんとつぶやくと、並んでベランダの手すりに寄り掛かっていたヴィルがこっちを見て、悲しそうな顔で頷いた。
「……そうだ。君の本来の体は既に破壊されている。つまり、君はあちらの世界では死んでいる、という扱いになっているはずだ。今君が肉体を持っているのは、魂がこの世界に馴染むことで体を再形成したから。……地球に戻ることは、絶対にない。ごめん」
「ヴィルが悪いわけじゃないでしょう?」
だって、指輪とやらがなければ、私は孝夫や巨乳子への恨み辛みを抱えたまま死んでいた。
二十四年間生きた世界と切り離されて、辛くないわけない。
両親や友だちが恋しくないはずがない。
でも、足掻いても仕方ない。
これは夢の世界じゃなくて、確かな現実。
胸に手を当てると、一定のリズムで心臓が動いていることを確認できる。
私は――寺井冴香は、この世界で確かに生きている。
私を見、ヴィルは静かに切り出した。
「……フローシュ王国の国王陛下には、君のことも伝えている。陛下は君に関心がおありのようで、いずれご挨拶に伺わなければならないだろう」
「私が王様に……? いいの?」
「君は俺の妻だ。俺はこれでも、王国の魔術師の中ではかなり高い地位にいる。しかも一生独身を宣言していたのに電撃結婚したのだから、陛下も他の魔術師たちも興味津々なんだよ。冴香にとっては負担にしかならないだろうが……前向きに検討してほしい」
「……分かった」
不安は多いけれど、これ以上ヴィルに迷惑を掛けたくなくて、私は頷いたのだった。