過去 2
その日、ヴィルフリートは授業をさぼった。
マクシミリアンが「あなたらしくもないですね」と少し意外そうに言い、同級生のゲルトラウデが「体調でも悪いの?」と聞いてくる中、彼は二度寝をかますことにした。
きっと、寝ればまたあの夢を見る。
そう確信した彼は――はたして、またあの木の根本に座る夢を見たのだった。
「****!」
少年が声を上げ、駆け寄ってきた。
ちょっとぼうっとしていたヴィルフリートは、その――思ったよりも高くて可愛らしい声に我に返った。
この少年は今、彼の知らない言葉を喋ったようだ。そういえば彼を無視して通り過ぎていく人間たちも皆、よく分からない言葉を喋っていた。
彼は自分の喉や頬に触れながら、言語理解の魔術を使った。夢の中でもちゃんと使えるか不安だったけれど……よかった。次の瞬間には、少年が「おー、やっぱいるじゃん」とつぶやく声がちゃんと聞き取れた。
「少年。君は……この世界の人間か?」
まずは状況確認だ。
この少年と意思疎通ができれば、なかなかおもしろいレポートが書けそうだ。
だが肩掛け鞄から何かを取り出そうとしていたらしき少年はヴィルフリートの言葉に、ぴしっと固まった。
大きな目が何度か瞬き、そしてだんだんとその表情が険悪なものになって――
「……少年じゃない! 少女と呼べーっ!」
少年は絶叫を上げ、ヴィルフリートの顔面を殴ってきた。彼の顔を貫通した拳は木の幹に命中し、少年は悲痛な悲鳴を上げる。
うずくまって痛がる少年を見下ろし、こいつ馬鹿か、とヴィルフリートは思った。
ズボンを穿いているし髪が短いのでてっきり少年だと思ったら、少女だった。
しかも、冴香、と名乗った少女は七歳児ではなく、十一歳児だった。とはいえどちらにしろ十六歳のヴィルフリートにとってはガキだし、しかも名前の発音が下手くそでヴィルフリートの名をまともに発音できなかった。
この少年――もとい少女と話をしてこの世界について調査しようと思ったのに、あっという間に二人は喧嘩腰になってしまう。といっても、少女が勝手に怒り、ヴィルフリートが鼻で笑うといったものだったが。
「ばーかばーか! 花粉症でくたばってしまえー!」
「はっ、七歳のお子様はさっさと帰ってネンネしてなよ」
「うざーっ!」
冴香は顔を真っ赤にしてキーッ! と怒り、足音も荒く去っていった。
カフンショウの意味は分からないが、きっとこの世界における凄まじい疫病の名前なのだろう、と彼は推測した。
次の日はさすがにマクシミリアンに捕まって、授業に放り込まれた。
そのまま食堂にまで連れて行かれそうになったので、両足で踏ん張る。
「離してくれ、マクシミリアン。俺にはやりたいことがある」
「やりたいこととは?」
「あの木の観察だ。非常に興味深い。時間が惜しいんだ」
「……は、はぁ、そうですか。まああなたは正直勉強しなくても常に主席だから授業はいいとしても――観察をしたいのならばなおさら、食事と睡眠は取ってください」
「すごく寝ている」
「ではそれと同じくらい、すごく食べなさい。食べないと寝ることもできないですよ?」
マクシミリアンの言葉に、なるほどそれもそうだとヴィルフリートは納得し、先ほどの抵抗が嘘のようにあっさり食堂に向かった。
そんな後輩の背中を見ながらマクシミリアンは、「……木の観察したいのか寝たいのか、どっちなのでしょうか?」と不思議そうにつぶやいたのだった。
最初は腹立たしいことこの上ない冴香だったが、毎度会うことにだんだん彼女の態度も柔らかくなり、ヴィルフリートもだいぶ常識的に彼女と接することができるようになっていった。
そうしてお互い話をして情報交換した結果、ヴィルフリートが座っているのは「桜の木」であり、ここは「地球」の「日本」という国の田舎であること、冴香もまた学生で、祖母の家に遊びに来ているのだということを知った。
どうやらこの世界には魔術がないようだ。せっかくだからこのお子様にも魔術を披露してやろうかと思ったのだが、どうにもうまくいかない。
いろいろ試したのだが、最初に彼が行った言語理解魔法以外はこれっぽっちも発動せず、冴香に「デマだなぁ?」と笑われてしまった。腹が立つ。
対する冴香はヴィルフリートに、地球に存在する道具について教えてくれた。彼女の説明は筋道が通っていないしあっちこっちに話が飛ぶし具体性に欠けるので非常に分かりにくいが、とにかくこの世界の人間は魔術なしでも文明を発達させ、便利な道具を開発して暮らしているのだということを知った。
ヴィルフリートは、魔力をほとんど持たぬ者――いわゆる低魔力者を蔑視している。低魔力者に恨みがあるとか明確な理由があるからとかではなく、周りの者がそういう思想を持っているから彼も自然と染まっていっただけにすぎない。
ゲルトラウデたちは「低魔力者はわたくしたちに感謝し、身の程をわきまえながら地べたを這いつくばって生きるべき」と主張している。彼もなんとなく、皆がそう言うのならそうなのだろうと思っていた。
だが……冴香と話をしていると、純粋な疑問が頭の中に浮かんできた。
低魔力者はかわいそうな人たち。
低魔力者は生まれながらにハンデを背負う者たち。
それなのに――なぜ冴香は、この世界の人々は、高い水準の生活を送っており、便利な道具を皆が扱えているのだろうか?
後日、冴香はさまざまなものを持ってきてくれた。
小雨が降っていたが、ヴィルフリートは雨を感じることも肌寒いと思うこともない。それがなんだか、ちょっとだけ寂しいと思った。
冴香が見せてくれたのは、カデンノチラシやげぇむき、ぼぉるぺん、ぽてーちなどだった。
相変わらず冴香の説明は下手くそだし、「このデンシれんじはどうやって動く?」と聞いても、「私は知らない」としか言わないのであまり参考にはならない。
だが、「こういうものが存在する」というのが分かるだけで大きな収穫だ。
ヴィルフリートは冴香から与えられる情報をぐんぐん吸収し、「カデンセイヒンを、どうやったら魔術を使って再現できるか?」ということを考えるのが楽しくなってきた。
また冴香の持ってくる書物やげぇむもおもしろく、「俺が指示を出すから君が操作して」と言って一緒に遊んだりした。冴香は画面の上部からさまざまな形のブロックが降ってくるげぇむをしていたのだが鈍くさいので、ヴィルフリートが指示を出しても手が追いつかず詰んでしまった。
冴香と別れて夢から目覚めたらすぐにデスクに向かい、冴香から得た情報をすぐに紙に書き出す。
カデンセイヒン、文字、文化、思想。
あらゆるものをメモして忘れないようにし、それを綴じたものを保管しておくようにしていた。
自分の世界にあって、冴香の世界にないもの。
冴香の世界にあって、自分の世界にないもの。
それらをうまく読み解けば、何かが変わる気がしていたのだ。
しばらくすると冴香が学校に行く日が近づいてきたようで、一旦ヴィルフリートと別れた。
そうするとヴィルフリートが自室で寝ても、桜の木の夢を見なくなった。きっとあの夢は、冴香が桜の木に近づかなければ見られないのだろう。
冴香に会えない間は暇なので、カデンセイヒンを魔法器具として再現する方法を考えることで時間を潰した。相変わらず授業はほっぽり出していてゲルトラウデからは「授業に出ないといい仕事に就けないわよ!」と言われたが、正直そんなのには最初から興味がない。
今まではなんとなく皆に同調し、なんとなく生きていたが、今はやりたいことがある。
マクシミリアンだけはヴィルフリートの内心の変化を素直に喜んでくれて、「食事と睡眠をするならもうあとは何でもいいんじゃないですか?」と放置してくれたのがありがたかった。