過去 1
ヴィルフリート編です
ヴィルフリート・シュタインは、学院内でその名を知らぬ者はいないと言われるくらいの人物であった。
貴族の生まれではなく、養い親の死によってぽいっと学院に放り込まれた少年。実力主義の者たちは最初、この生意気そうな少年をどう料理してやろうかとほくそ笑んだそうだが、彼の実力を目の当たりにすると皆、閉口したという。
彼は高学年の学生でも難儀する魔術を難なく使いこなし、複雑な魔術理論をあっさり読解する鬼才に加え、さまざまな魔法器具を扱い時には自分で改造するなどの発想力と器用さも持ち合わせていた。
学院を卒業するのは最高学年の十八歳になってから。だが彼は十六歳にして既に主席の座を占領していた。そんな彼には当然、あちこちからオファーが舞い込んでくる。
前線戦闘部署、近衛魔術師部署など、周りの学生たちが羨ましがるような就職先を斡旋されている。
だが、彼はそのどれにも快い返事をしなかった。
容姿端麗、頭脳明晰だが偏屈な変わり者。
そんな彼は今日も部屋に籠もり、なにやら怪しげな魔術を相手に時間を潰していた。
「ヴィルフリート。あなた、また生意気なことを言って教師を怒らせましたね」
ノックもなしに部屋に押し入って開口一番お小言を垂れたのは、若草色の髪の青年。
制服のローブの胸元に最高学年を表すバッジが付いていることから彼の年齢が十八歳であることが分かるが、実年齢よりずっと老け――否、大人びて見えるため、学生よりむしろ若い教師のように見える。
ドアの枠に寄り掛かって説教する彼だが、部屋の主はうんともすんとも言わない。もう夕方だというのに部屋の明かりもつけず部屋の奥にあるデスクに向かい、ペンを持つ右手だけ懸命に動かしている。手元だけはよく見えるようにとデスクの隅に発光魔石を置いているのが、却って不気味だ。
ろくに手入れしていないというのにふわふわと柔らかそうな髪は伸びっぱなしで、彼の横顔をほぼ全部覆い隠してしまっている。十六歳という年齢にしては少々痩せぎすで、ローブ越しに背骨のラインが見えるようだ。
お小言をスルーされた若草色の髪の青年は肩を落とし、片手に持っていた袋を目の高さに持ち上げる。
「また夕食に来なかったでしょう。いくらか見繕って持ってきたので、深夜になるまでにちゃんと食べてください。本当に、世話の焼ける後輩です」
実のところ、世話が焼ける焼けないというレベルではないくらい非社会的人間まっしぐらの生徒だが、これでも彼の後輩なのだ。他の同級生は、優秀ではあるがあまりにも性格に難のあるこの後輩をもてあまし、世話係役をたらい回しになった末、彼にお鉢が回ってきたのだ。
小言は多いが律儀な彼は以降二年間、ずっとこの頼りにならなさすぎる後輩のお守りをしてきていた。最近の悩みは、半年後に自分が卒業したらこの後輩は自室で屍になっているのではないかということである。ちなみに死因は、餓死だ。
「……ああ、そういえば。これ、ヴィルフリートも興味があるのではないかと思って持ってきました」
返事がないのは今日に始まったことではないので気にせず、ずかずかと部屋に押し入って勝手に明かりを付けた彼は、持ってきた袋をテーブル――よく分からない部品が散乱していたので、床に叩き落としておいた――に置く。
そして袋の中から、さらに袋包みになったものを取り出した。
「これ、さきほど城下町で闇取引していた者から没収したものです。他の商品はいかにも怪しいので近衛に提出したのですが、これはちょっと変わった観葉植物だろうということで譲ってもらったのです。よかったら、ヴィルフリートにあげますよ」
かさかさ、と袋を開ける音がする。
それまでずっと何も言わず同じ姿勢で書き物をしていた少年も興味を惹かれた様子で、ちらっと先輩の方を見やった。
そんな後輩を見、若草色の髪の青年はしめしめと微笑む。
偏屈な後輩だが、彼は新しいものや斬新なものに弱い。これまで何度も彼が不健康ゆえ倒れそうになったことがあったのだが、そのたびに新作の魔法器具などの「おもちゃ」を持っていき、デスクから引きはがすことに成功してきたのだ。
袋から取り出したのは、植木鉢だった。
鉢自体はそこらにあるものと大差ない素焼きだが、植わっている植物を目にして少年はブルーの目を丸くした。
「それは……何だ?」
かなり久しぶりに後輩の声を聞いた気がする。しかもものすごく掠れている。授業が終わってから部屋に籠もったっきり、水すら飲んでいないのかもしれない。
「さあ、何でしょうね。それこそ、ヴィルフリートの研究課題になるんじゃないですか?」
「……それを、俺にくれるのか?」
「ええ、私は食べられない植物には興味がないので。これ、いかにも不味そうですし……ほら、勝手に揺れているでしょう?」
彼の言うとおり、テーブルに据えられた植木鉢に植わる植物は、風もないのに勝手にゆらゆら揺れていた。
それはミニチュアの木のようで、高さは少年の前腕くらいしかない。がっしりした飴色の幹に、白っぽいような花が満開だ。
その花は風もないのに揺れ、はらはらと白い花びらを落としている――が、落ちた花びらがテーブルに落ちることはなく、自然と消えていった。
きらり、とブルーの目が輝く。
頭はいいのだが良くも悪くも単純な後輩は、先輩の持ってきた餌にホイホイ食らいついたようである。
「これ、たぶん世話も要りませんし、ヴィルフリートの部屋に置いていても枯れることはないでしょう。……ということで、要りますか?」
「要る」
「それはよかったです。じゃ、どうぞご自由に」
彼はそう言うとひらりと手を振り、後輩に背中を向けた。
この謎の植木鉢に興味を持ち、後輩が少しでも社会的になれたら……という望みを抱いているが、まあ無理だろうな、と分かっていた。
とはいえ。
この植木鉢が後輩の未来を、性根を、変えることになるとは――当時の彼は露ほども思っていなかった。
先輩であるマクシミリアンから、植木鉢をもらった。
ヴィルフリートは先ほどまで集中していた計算式をほっぽり出し、今はテーブルに頬杖をつき、飽きることなく植木鉢を眺めていた。
白い花はふわりふわりと揺れ、時に強い風を受けたかのようにざあっと音もなくなびき、花弁を舞わせる。そっと幹や花に触れてみるが、柔らかさや温かさは一切感じられない。
試しに少しだけ、魔力を注いでみた。その結果、どうやらこの木の本体はここから遠く遠く離れた場所にあり、今ヴィルフリートの目の前にあるのは現物の精巧な複製品のようなものであることが判明した。
これは、おもしろい。
ヴィルフリートは飽きもせず花に触れ、魔力の注ぎ方を変えてみて、終いには筆記用具を取り出して熱心に植木鉢の観察を始めた。
そうしていると――ここ最近の疲れが出てきたのか、だんだんとまぶたが重くなってきた。
彼はくわっとあくびをし、最後に一度とばかりに花をちょんと突いてからマクシミリアンが勝手につけた明かりを消し、ベッドに向かった。
面倒だが、明日も授業はある。マクシミリアンが持ってきた食事は朝に食べればいいだろう。
そう思って、彼は眠りに就いた。
なぜか寝付くまで、彼のまぶたの裏には白い花が舞う光景がいつまでも続いていた。
――ここは、どこだろう。
ヴィルフリートはあたりをきょろきょろ見回し、そして今、自分がどこか知らない場所にいることに気づいた。
確か昨夜はマクシミリアンからもらった植木鉢を観察したあと、寝たはずだ。それが今、彼は知らぬ場所に座り込んでいる。
それにしても、ここは面妖な場所だ。
彼の目線の先には灰色の道があり、謎の大きな物体がせわしなく行き来している。
遠くに見えるのは、緑の山と集落らしきものの影。だがその家屋の形はヴィルフリートが知っているものとは大きく違い、やけに平べったくて屋根が重そうだ。
空は抜けるような青色で、はらはらと白い花びらが舞っている――と気づき、彼ははっとして振り返った。
今、彼は立派な木の下に座っていた。背中に当たっていたのはごつごつとした飴色の幹で、おそるおそる触れてみるとその樹皮の感覚がはっきり伝わってきた。
頭上は白っぽい花が満開で、こうしている間にもはらりはらりと花びらが舞い、地面に散っていく。不思議なことに、木には触れられるのだが宙を舞う花びらに触れることはできず、立ち上がってあたりを散策しようにも何かの力に引っ張られているかのように、木の周囲から離れることができない。
また、灰色の道の付近を通っていく人間たちは、ヴィルフリートの存在に気づいていないようだ。
そんな格好で大丈夫か、と心配になるような薄着で黒い眼鏡を掛けた男がヴィルフリートのすぐ目の前を走って行ったので声を掛けたのだが、鮮やかにスルーされた。いつも自分がマクシミリアンの言葉を無視しているのと違い、本当に聞こえていないようである。
続いて、二つの車輪を持つ謎の物体にまたがった若い男たちが通りがかったので、彼らに触れようと腕を伸ばしたが、指の先は何もない空間を掴むのみで、男たちの体を突き抜けてしまった。
なるほど、どうやらこの夢の中で自分の存在は透明人間のようなもので、この木の幹以外には触れられないし、遠くに行くこともできないのか。
「……君が俺を呼んだのか?」
振り返り、がっしりとした幹に聞いてみる。
きっと、マクシミリアンが持ってきたあの植木鉢の木の現物はこれなのだ。昨夜散々いじくり回してから寝たから、この木が自分を夢の世界に連れてきたのではないだろうか。
確証は持てないが、魔術は奥が深いしこの世界には未解明のものも多い。
これはおもしろそうだ、と彼はかなり久しぶりに微笑んだ。
――そこへ。
ふわっ、と花びらではない何かが飛んできて、ヴィルフリートの木の幹に引っかかった。どうやらあれは布きれ――ハンカチのようだ。誰かの持ち物だろうか。
間もなく、前方の緩やかな丘を一人の少年が駆け上がってきた。短い黒髪とよく動く黒い目を持つ彼は白い柵を乗り越えると灰色の道の左右を確認し、こちらに渡ってくる。
少年は見たところ、七歳くらいだろうか。彼は腕を組み、ハンカチの引っかかった枝を見上げて思案顔になっている。さては、あのハンカチの持ち主は彼なのだろう。
普段のヴィルフリートなら知らぬフリをするだろうが、今はなんとなく、少年の力になってやろうという気になった。この七歳児は手足が短いので、木に登るのも大変だろう。
そこで彼は立ち上がり、するりするりと木に登った。運動は得意ではないが、これくらいで音を上げるほど軟弱でもない。あっという間にハンカチの引っかかった枝に到達し、手を伸ばし――たが指先をハンカチが貫通したため、彼ははっと息を呑んだあと、自嘲の笑みを零した。
そうだ、自分はこの幹以外のものに触れられないのだった。
ハンカチを取ってあげようにも、ハンカチに触れることができないのだ。
我ながら馬鹿なことをした、と思った彼は幹に腰掛け、眼下を見やった――そのとき。
黒い大きな目が、真っ直ぐヴィルフリートを見つめた。
間違いなく、彼の目を真っ直ぐ見つめている。
……どうしてだ?
彼には、自分の姿が見えるのか?
「君は――」
何者だ?
そう問おうと思った瞬間、ぶわっと強い風が吹いた。
そしてその風が止んだ直後、ヴィルフリートはベッドからがばりと身を起こし、まだ薄暗い自室の壁を呆然と見つめていたのだった。




