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41 同じ世界で生きる幸せ

あまーい

 ヴィルはもうベッドに座って待っていて、私を見ると振り返り、早足でこっちまでやって来た。


「お待たせ、ヴィル」

「君がゆっくり風呂に入れたならそれでいいよ」


 ヴィルはそう言い、私を抱き寄せてちゅっと頬にキスを落としてきた。同時に、私の胸元からふわっと甘い香りが漂う。


 おませなフローラが風呂上がりに「これ、絶対イケますよ」と、据わった目で出してきた香油を塗っているんだ。甘いベリー類っぽい香りがするんだけど、「甘い匂いのする君を食べたくなっちゃう」というのが売り文句らしい。フローラは、どこで、なぜ、そのようなものを手に入れたんだ――


 ヴィルもその匂いに気づいたのか、すんっと小さく鼻を鳴らし、「いい匂いがする……」と恍惚じみた声でつぶやいて私の喉に唇を滑らせてきた。そして柔く歯を立ててくるものだから、ぞくっとしてしまう。


「ひっ、ぅ……!」

「冴香……本当の本当にいいの? 俺の思いこみとかじゃないよね? 君を――抱いてもいい?」


 最初は戸惑うように、懇願するように聞いてきたくせに、最後の一言は耳元にふうっと息を吹き込むように色っぽく言うなんて……ずるい。

 おかげで私は既に心臓ばくばく状態で、ヴィルの眼差しやちろっと舌舐めずりした唇が見ていられず、うつむくしかできない。


「……ヴィル、意地悪」

「そうだね。昔よりは丸くなったと思うけど」

「昔も今も、意地悪……!」

「うんうん、冴香限定だからいいんだよ」

「本当に意地悪! でも……」


 縋る先を求めて伸ばした指先が、ヴィルのシャツに触れてくしゃっと掴む。

 その拍子に胸元のボタンが数個はずれ、薄くもしっかり引き締まった胸板が覗いて私の体を熱くとろけさせていく。


 はだけられたヴィルの胸元に片手で触れると、どくんどくん、と私のそれと負けないくらい速く脈打っていることが分かる。ヴィルは「煽ってるのかな?」と笑い混じりに囁いてから、ちょんっと私の唇の端に触れるだけのキスを落とした。


「でも……何かな?」

「……。……好き」

「うん、俺も好き」

「大好きなの! だから……あ、あなたに抱いて……ほしい、です……」


 言った! 言い切ったぞ!

 誰か私を褒めて! ベタベタに褒めて!


 でも誰かといわず、私の旦那様が反応してくれた。

 彼は「うん、よくできました」と私の頭を撫で、ひょいっと体を抱き上げた。


「うわっ!?」

「冴香……重いね」

「張り倒されたいの!?」

「そうじゃない。……この重みが愛おしいんだよ。今でも信じられなくて。俺の腕は今、こうして冴香を抱き上げ、その温もりを感じ、匂いを嗅ぎ取って、体の重みを感じることができる。……それが、泣きたくなるくらい幸せなんだ」

「……泣くの?」

「今はまだ泣かない。ただ今夜、冴香のことはたくさん泣かせちゃうと思うけど」


 そう意地悪く囁くと、ヴィルはくるっとその場で回転して私をベッドに寝かせた。

 寝慣れたベッドなのに、今はそのシーツの冷たさやマットレスに沈み込む自分の体の感覚がはっきり感じられる。

 それは、体中が過敏になっているからなのか。


「冴香」


 ぎしり、と板を軋ませて私に覆い被さってきたヴィルは、ブルーの瞳に獰猛な炎を灯していた。まるで、獲物を捕獲せんとする肉食動物のような眼差し。

 けれど、直後落とされたキスはすごく優しくて、ふわふわとしていた。


「許可をもらったのだから、もう遠慮はしない」

「ん、うん……」

「冴香、俺と出会って、結婚して……好きになってくれて、ありがとう。一緒に幸せになろうね」


 行き場なく投げ出されていた私の手に彼の手が重なり、そうっと握られた。

 邪魔な衣類を丁寧に剥がされると二人分の体温が重なり、鼓動が混ざり合う。


「……ヴィル。一緒に、ずっと――」

「うん。ずっとずっと、一緒だよ」


 そうして与えられた熱っぽい口づけは、長く幸福な夜の始まりを感じさせた。



















 翌朝。


 私は朝寝坊をした。


 お天道様は既に南の空の頂上付近まで昇っているというのに、私ときたらずっとベッドとお友だち状態だ。


「冴香、体は起こせそう?」

「むり」


 ヴィルに心配そうに尋ねられたからそう答えたけれど、「む」にも「り」にも日本語としてはあり得ない濁音が混じった気がする。


 体は痛いし、だるいし、喉は嗄れているし、恥ずかしいし、なんかもういろいろと無理。体はいろんな意味でぼろぼろなのに幸せすぎて――そう思うと痛みすら喜びに変わって、とりあえず起きる気力がなくなる。


 目覚めたのは朝だけど、それ以降ベッドの上をごろごろするしかできない私と違い、ヴィルは朝から元気いっぱい、むしろ眩しいくらいの笑顔で頬もつやつやしていた。そして動けない私のためにシーツを取り替え、体や髪を拭き、水を飲ませてくれた。

 日本時間で言う十三年前に「下手くそ」と私を馬鹿にしてきた人と同一人物とは思えないくらい、愛情に満ちた献身っぷりである。


 一通りの世話を終えたヴィルは私の隣に上がり、ぎゅっと体を抱きしめてくれた。正直それだけでも体中の筋肉が悲鳴を上げるんだけど、人の温もりはありがたい。スポーツやってるし基礎体力はあるはずなのに体の疲労が半端なくて、ついついヴィルに甘えたくなってしまった。


「今日は一日部屋でゆっくりする? もうすぐ昼食の時間なんだけど……」


 ヴィルに尋ねられ、私はしばし考える。


「……お昼なら、食べに行く。もうちょっとごろごろしたら立てるかも」

「分かった。もし立てなかったら、俺が下まで運んであげるからね」


 ヴィルはなんてことないように提案するけれど……そうなったら、大人たちからは生暖かい目で見られ、フローラたちに達観した顔をされるのは目に見えている。


 それにしても、昨夜のヴィルはいろいろすごかった。最後まで私を気遣ってくれて優しかったけれど、私はヴィルが見せるいろいろな表情にドキドキしっぱなしだったし、体中にキスされるし、耳元でいろいろ囁かれるし、恥ずかしいことも言われるし――だめだ、思い出したら今日一日まともに過ごせなくなる!


 約束通り、昼ご飯に間に合うように私は起きた。まだ体はだるいけど、「抱っこするよ?」と笑顔で両手を差し出してくるヴィルの申し出をやんわり断り身支度を調え、自分の足で食堂に降りる。ヴィル、お姫様抱っこが好きなのかな。さすが王子様フェイス。


 食堂ではなんというか……予想通りの反応をされた。

 バイロンさんたちはいつも通りに接してくれるし子どもたちも年長組は察してくれるけれど、たちが悪いのが純粋なクラウスたちと、分かっていていじってくるマキシさんだ。


 クラウスは「サエカ様とヴィルフリート様、同じ匂いがする!」と大声で言ったため、食事の途中だけどアウグストに抱えられて強制退場させられた。そしてマキシさんは「盛り上がるのは結構ですが、目立つところに付けない方がよろしいかと」と私の首の周りを指しながら真顔で言った。

 クラウスは大目に見るとして、このキツネ目お兄さんにはもうちょっと、こう、乙女心とか、ロマンチックとかいう言葉をたたき込みたいものだ。


 食事を終えると、子どもたちは午後からの勉強に向かうべく移動を開始した。ちなみにクラウスはアウグストに何か言われたようで、食堂に戻ってきてからはずっとお利口さんにご飯を食べていて、今も私たちを見てぺこっとお辞儀をして早足で立ち去っていった。


 今日一日私たちは仕事からも家事からも外されているので、ヴィルに手を引かれて三階のベランダに向かった。

 ここは……そうだ。私が目覚めた日、ヴィルに連れられて来たんだっけ。

 ベランダから見える異世界の風景とリリズの町並みを見、私はこの世界で生きていくんだと不安になりながらも覚悟したのを、昨日のことのように思い出せる。


「……なんだか不思議な気分。これまで見てきた風景と変わらないはずなのに、昨日までよりずっときれいに見える」


 風に髪を遊ばせながら私がつぶやくと、私の隣で手すりに寄り掛かっていたヴィルはくすっと笑った。


「それは……本当の意味で俺の奥さんになってくれたからかもね?」

「……うん、きっとそうだと思う」

「あれっ、今日は素直だね」

「素直な私は嫌い?」

「まさか」


 ヴィルは身を屈めると片腕で私の腰を引き寄せ、風のせいで露わになっていた額にキスを落とした。


「ばーかばーかと言ってくる君も、せーらー服を着ている君も、今の君も、どれも大好きだよ」

「さすがに子どもの頃の暴言は忘れてほしいけど」

「それはできないね。どの君も、俺にとってかけがえのない愛する人なんだ」


 ヴィルは目を熱っぽく緩め、腰を支えていた手をそっと背中にあてがってきた。

 昨夜は明確な意図をもって私の肌を撫でてきたその手のひらは今、労るようになだめるかのように背中をさすってくる。


「……ずっと、君と共に在る。君を幸せにすると、誓うよ」

「……ヴィル、ありがとう。あの、私も」


 言われっぱなしは悔しいし、年上の矜持もある。

 私も両腕をヴィルの背中に回し、ぎゅっと抱きついた。彼の胸元から漂うのは、昨夜の私と同じ甘酸っぱいベリーの香り。


「……私に何ができるかは分からないけれど、あなたを支えて、結婚してよかった、と思ってもらえるように頑張る。その……あなたの妻として」

「冴香はもう十分すぎるくらい頑張っているのに……これ以上頑張ったら、俺の立つ瀬がなくなる」

「いやさすがにそれはないかと」

「本当だよ? ……でも、俺はそんな頑張り屋でちょっと意地っ張りな君のことが大好きだから、参ったな」


 そんなこと言いながら、顔は緩んでいるし全然「参った」って様子じゃない。


「なんかずるいし、悔しい。反則」

「ふぅん? ……そんなことを言う可愛い奥さんはまた明日の朝、立ち上がれなくなるくらいのことをされたいのかな?」


 そう囁いてくるブルーの目は意地悪な三日月を描いている。

 私が記憶を取り戻してから、ちょっとだけヴィルは意地悪になったみたいだ。……でも、それを嫌だとはまったく思わないあたり、ヴィルは加減がうまいし私はチョロい。


 だからといってやっぱり、、やられっぱなしにはならないけどね!


「……うん。立ち上がれないくらい……私がどこにも行かないように、私を繋ぎ止めてね」


 もう、私たちの手が互いの体を突き抜けることはないのだから。

 ずっとずっと、離さないでほしい。


 ヴィルは一つ息を吸うと、優しく私を抱きしめてきた。


「……もちろんだよ。冴香、これからも……よろしくね。愛しているよ」

「……うん。私も愛している」













 かつては、重ねられなかった手のひら。

 どれだけ想い合っても交わることのなかった恋情。

 今は、この身にしっかりと刻み、感じることができる。


 どこからか子どもたちのはしゃいだ声が聞こえる中、私たちは抱き合っていた。









 ……もうすぐ茶の時間だからとシュタイン卿夫妻を捜しに来たマクシミリアンは、ベランダで抱き合う夫妻を見たときのことを、後にこう語った。


「お二人が、サクラの木の下に立っているように見えました」と。

本編はここまでです

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