40 重なる想い
あまーい
ふわふわと柔らかい感触がする。
「冴香」
私の名が呼ばれている。
両手にそっと触れてきたのは、大きくて温かい手のひら。
この声は、この匂いは、この温かさは――
私はゆっくりまぶたを開いた。
最初は少しだけぼやけていたけれど、何度か瞬きすると徐々に視界がクリアになっていく。
私を見下ろしていたのは、茶色の髪にブルーの目の王子様――ううん、違う。
「ヴィル……」
「冴香、目を覚ましたんだね。……体調は、どう? 何か飲み物でも――」
「ヴィル、あのとき、花粉症でくたばれって言って、ごめんね」
舌っ足らずになりながらそう呼びかけると、近くにあったテーブルから水差しを取り上げていたヴィルが動きを止めた。
最初は怪訝そうに細められていたブルーの目が徐々に見開かれ、はっ、という短い吐息が唇から漏れる。
「花粉症って……冴香、君、無事に記憶を――!」
「うん。……心配掛けてごめんね。もう大丈夫だよ」
「冴香っ!」
ヴィルは持っていた水差しを放り投げ――水差しは近くにいた魔術師がキャッチした――ベッドに身を乗り出し、ぎゅうっと私を抱きしめてきた。
「冴香! 俺との記憶……思い出したんだね!?」
「うん……あ、はは。苦しいな」
「あっ……ごめん、つい」
「ううん、いいの。……私も同じだったから」
「え?」
ゆっくりと抱擁を解いてきたヴィルを至近距離で見つめ、私は微笑んだ。
「ヴィル、言っていたよね? ずっと私に触れたかったって」
「あ、うん、言ったね」
「私もだったの」
ヴィルの左手をそっと持ち上げ、私の右頬に宛てがう。
この温もり、手の厚み、骨張った感触。
触れたいと思っていた。
あなたの世界を見たいと思っていた。
あなたと一緒に、年を取りたいと思っていた――!
「私も、ずっとずっとあなたに触れたかった。……私、桜の木が伐採されてショックを受けていたの」
「伐採? ……ああ、なるほど。だから俺が持っていた植木鉢の桜も同時に、すっぱりと切り倒されたんだね」
「うん、きっとそうだと思う。……でも、ヴィルが守ってくれたんだね」
ヴィルは、「冴香を守るように」という願いを込めて指輪を作った。彼自身でも、どういった効果になるか分かっていないままで。
ヴィルと繋がる唯一の方法である桜の木を失った私は、心が崩壊しかけていた。
きっと、このままでは私は生きていけなくなる――だからヴィルの指輪の魔術が発動して、私の心を守った。
――ヴィルとの思い出を全て封印することを代償に。
忘れれば、苦しむことがなくなる。その代わり私は指輪を見ることができなくなり、自分の記憶にぽっかり穴を開けたまま大学を卒業し、就職し、孝夫と出会った。
でも、見えなくなってもなお指輪は私を守ってくれていたんだろう。
それこそ――プラットホームから落ち、電車に轢かれたそのときも。
ヴィルも同じことに気づいたようで、「そういえば……」と少し口ごもりながら言う。
「俺、とにかく冴香を守りたい、大切にしたいと思っていろいろな魔術を指輪に詰め込んだんだ。……電車に轢かれたはずの冴香が魂だけになってこっちにやってきたのも、指輪のおかげだったんだよね」
「作った本人でもよく分かっていないんだ……」
「そっ、それはそうだけど――でも、これでいろいろ分かったよ。指輪は冴香を守るために記憶を封じ、肉体が滅びたときもせめて魂だけは救えるよう、俺のもとに連れてきてくれたんだね」
うん、きっとそう。
魂だけの存在になってもなお私はヴィルとのことを忘れていたけれど、彼と夫婦の契約を交わすことで肉体を再構成し、この世界で第二の人生を歩めるようになった。
そして子どもの頃からの願いだった――ヴィルの世界を見、魔術を見、彼の手に触れることができるようになった。
「……ねえ、ヴィル。私はずっと、あなたに恋をしていた」
頬に当てたままだったヴィルの手に頬ずりしながら言うと、ヴィルの喉仏がごくっと上下したのがよく分かった。だって、ちょうど目の前だし。
「触れられない、同時に年を取れない。おまけに昔のあなたは意地悪で、むかついたこともあった。でも、かけがえのない大好きな人だった。それをやっと思い出せたし……それに」
「うん……」
「私、あなたとの記憶がない状態でこの世界に来たけれど、それはそれでよかったんじゃないかと思うんだ。だって、前よりずっとずっとあなたのことが好きになったんだもの」
地球の桜の木の下で過ごした七年間。
そして、この世界で結婚して過ごした一ヶ月と少し。
ヴィルのことが好き、という思いはそれぞれちょっと違うけれど、両方の記憶を兼ねそろえた今の私は言ってしまえば、ヴィル大好き状態が限界突破している最強状態だ。
するり、と彼の手が私の頬を撫で、いつの間にか零れていた涙をぬぐい取ってくれていた。
六年前はだらだらと流れ彼の体を貫通するだけだった涙も今は、彼の指先で受け止めてもらうことができた。
そのことが――胸が張り裂けそうなくらい嬉しくて、せっかくヴィルが拭ってくれたのに新しい涙がこぼれてしまう。
「ヴィル……愛しています。子どもの頃からも、結婚してからも、ずっと」
「冴香――」
ひくっ、とヴィルの体がしゃっくりを上げたように揺れる。
そして彼は私を抱き寄せると、覆い被さるように唇を重ね合わせてきた。
熱くて柔らかい、ヴィルの唇。
高校生の頃、「彼氏とキスしたー」と自慢する同級生を尻目に、ヴィルとキスできたら……と乙女嗜好に陥っていたことを思い出した。
今は、何かに遠慮することも、何かに怯えることもなく彼とキスできるし、抱き合えるし、思いを打ち明けられる。
「俺も、君を愛しているよ。……冴香、俺の世界に来てくれて――俺を愛してくれて、ありがとう」
ありがとう。
愛している。
私はこの日ようやく、十三年前から始まった関係であり、六年前から抱いていた想いであり、二年前に全てを失ったと思っていたものを結び、今に繋げることができたのだった。
……そういえば忘れていたけれど、ここって城の客間じゃん。
ヴィルが満足した頃を見計らって尋ねたところ、「あ、そうだね」とあっさり言われた。
私は気づいていなかったけれど、魔術師や陛下たちはとっくの昔に退室して二人きりの空間にしてくれていたそうだ。め、面目ない……!
「皆様にもお礼を申し上げないと……」
「そうだね。記憶蘇生魔術の結果として記録もしないといけないし、夜になるまでに終わらせてしまおう」
「うん。……早く屋敷に帰って、皆にも会いたいからね」
「それもあるけど……」
そこで一旦ヴィルは言葉を切り、真剣な眼差しで私の目を覗き込んできた。
……ん?
この視線は――
「……君の記憶は戻ったし、俺は発表会を終えられた」
「う、うん?」
「だから……今夜こそ、君の全部をもらうよ」
……なんとなく予想はしていた。
でも、私は今この瞬間、人生最大級とも言えるだろう巨大な爆弾を手渡されたのだった。
魔術研究部署の皆様や陛下に挨拶をお礼を述べ、報告を終えた私たちはすぐにヴィルの転移魔術で屋敷に戻った。
既にマキシさんが皆に事情を伝えてくれていたようで、フローラたちは少し警戒した様子で私を出迎えた。でも、私が記憶を取り戻しつつも元の人格のままであることを知ると、皆一斉に駆け寄ってきた。
嬉しい、すごく嬉しいけれど……クラウスからフローラまで十五人に殺到された私は、子どもたちに圧迫されて死ぬかと思った。
夕食は、バイロンさんたちが腕を振るったごちそうになった。私の皿には、他の人たちにはない丸くて赤いパンのようなものがよそわれた。
バイロンさん曰く、これはフローシュ王国で何かめでたいことが起きたときに食べる料理らしく――つまるところ、日本で言う赤飯だった。
食事のあとは、フローラたちと一緒にお風呂に入った――けれど、フローラやアンネ、マヤあたりの年長者は何か感じるものがあったらしく、「今日は私たちがサエカ様を徹底的に磨きます!」と意気込み、全身しっかり洗われてしまった。
アンジェラたちはきょとんとしていたけれど、今夜私とヴィルの間に何か起こるのでは、という想像は付いたらしく、「サエカ様、頑張って!」とエールを送られた。
フローラたちはともかく、アンジェラは何も分かっていないんだろうと分かっていても、恥ずかしくて死にそうだった……。
風呂上がりも、いつもなら私が皆の髪を乾かしてあげるのだけど、ナターリエとイェニファーがドライヤー二丁で念入りに私の髪を乾かしてくれた。爪磨きもされたし自分では見えないところのむだ毛まで抜かれたし……なんかもう、至れり尽くせりを通り越して顔面爆発しそう。
そうしていつもなら少々ぐずる子どもたちも驚くべき速さで自室に引っ込み、「なんで今日はサエカ様、ぴかぴかなの?」と無邪気ゆえの質問をするクラウスたちは女の子たちによって連行されていった。
クラウス、君ももう十年くらいすれば分かるかもしれないよ……今はまだ、純粋な天使のままでいておくれ……。
通りがかったバイロンさんには「おやすみなさい」と紳士的に対応され、ヴィルの部屋の前ですれ違ったマキシさんからは、「明日、お二人の予定は空けているので、しっぽりどうぞ」とありがたいけれどよけいな一言を浴びせられつつ、私は寝室に向かった。