記憶 3
「どうして……」
「俺、最近魔術研究のおもしろさに目覚めてね。片っ端から資料をかき集めて、この指輪を作ったんだ。この指輪には俺のたくさんの思いを込めたから、きっと冴香を守ってくれるよ」
晩冬の太陽に手をかざしたりその場でくるくる回転したりして指輪の所在を確かめていた私は、その言葉にヴィルの方を振り返った。
ヴィルは微笑んでいた。
でも、その頬は真っ赤に染まっていて、照れたように頬を掻いている。
……そういえば私は昔、家電製品以外にもいろいろなチラシや雑誌をヴィルに見せた。その中にはいとこのお姉ちゃんが使っていたブライダル専門雑誌もあって……左手に薬指を嵌める意味も、そのときヴィルに教えたような……。
「……ヴィル、分かっていて指輪を嵌めたの?」
「うん、分かっている。冴香も分かっていて、大人しくしていたんでしょ?」
「それはっ――! まさか本当にもらえるとは思ってなくて、私もびっくりして……」
「でも嫌じゃないでしょ? もし本当に嫌だったらその指輪、もう既に粉々に砕けているはずだから」
ヴィルはこの指輪にいったいどんな魔術を込めたんだろう。
まあ、それはいいとして。
ヴィルが指輪をくれた。
結婚の証である、左の薬指に。
それが意味するのは――
私はぎゅっと左手を握り、ヴィルに向かって駆け出した。
分かっている。
どんなに想っても、彼が私の体を受け止めることはできない。
私の目にどれほど、この大好きな人がくっきり映ろうと、傍目から見ると私は一人で奇行を繰り返す頭のおかしい女にすぎない。
ヴィルはくしゃっと顔を歪め、大きく腕を広げた。
私たちの体は互いの鼻先がぶつかりそうなほど接近し――そして、すり抜ける。
「ヴィルっ!」
「冴香……」
「好き! 私、あなたのことが好きなの!」
ああ、脇を通りかかったロードバイクのお兄さんが、痛い子を見る目で私を見てきた。
分かってる。今の私がただの痴女にしか見えないって、分かっている!
でも、こんなに好きだと思っている人に触れたいと思うことは罪なの?
抱き留めてほしい、その体温を知りたい、触れてほしい、と思うのはいけないことなの?
私がその場で項垂れていると、私の体を貫通してふわっとヴィルが後退してきた。
そして両腕を上げ、しばらく高さや腕の広げ具合を調節したあと――まるで私を正面から抱きしめているかのような形で静止した。
「俺もだよ。俺も、君のことが大好きだよ……!」
片想いじゃないのは、指輪をくれた時点で気づいていた。
でも、その言葉を言ってもらえるとは思っていなかった。
とたん、目の前の世界がゆがみ、潤む。
どうして、この人の腕に触れられないの!?
どうして、彼の腕は私を抱きしめてくれないの!?
「っ……連れてってよ……! ねえ、私、ヴィルの世界が見てみたい! 魔術で炎を出したり、便利な道具を作ったりしているんでしょう!? ヴィルばっかり私の世界を見ていて、ずるい!」
「冴香……ごめん、それは俺にもやり方が分からないんだよ――」
気づけば、私はぼろぼろ泣いていた。
ずるい、ずるい、と連呼する私をヴィルは困ったように笑いながら見つめ、私の涙を掬うように頬に手を滑らせる。
でも私の涙は頬を伝い、ヴィルの腕をすり抜け、地面に吸い込まれていく。こぼれる涙で彼の服を濡らすことさえできない。
私たちの間に立ちはだかる、目に見えない壁。
決して越えられない、決して触れあえない。
それは七年前から分かっていたはずなのに、絶対に実を結ばない愚かな恋だと分かっていたのに、私は諦められなかった。七年掛けてゆっくりゆっくり成長していた想いの芽は、世界の壁によって踏みつぶされる。
「俺はいつまでも、君の幸せを願っているよ。君に会えて、幸せだった」
「っ……そんなの、私もだし!」
「ありがとう、嬉しいよ。……ねえ、冴香。何年先になってもいいから、またこの木の下で会おうね」
ヴィルに言われたけれど――私の胸の奥で、嫌な予感が湧き上がっていた。
かつて十一歳と十六歳だった私たちは今、奇跡的にも十八歳と年齢がそろっている。それは、私とヴィルの世界で流れる時間の速さが違うから。
私はあっという間に年を取る。
単純計算して、私が二十四歳のときヴィルは二十歳。私が三十歳になってもヴィルは二十二歳。私が四十歳になっても、ヴィルはまだ二十代半ば――
せめて、同じ速さで時が流れていれば。
彼と同じ速度で年を取れたら、ここまで苦しまなかったのかもしれない。
でも、「会うんじゃなかった」とは思わなかった。
「好きだよ、冴香。だから……しばらく、さようなら」
あなたが、私の大好きな笑顔でそう言うから。
「うん! ……しばらく、さようなら。大好きなヴィル」
私も無理をした笑顔でそう言い、永遠に交わることのない彼と手を重ね合った。
大学生活は充実していた。
中学から続けているバレーのサークルに入り、バイトも始めた。おかげで毎日忙しく、夏休みにちょびっとだけ実家に帰省するくらい。おばあちゃんの家はなくなった上、あの地域には電車すら通っていないから桜の木の場所に行くことも難しくなった。
でも、私の左手薬指にはいつでもヴィルの指輪が輝いていた。
「冴香を守るように」って魔術が通じているのか、バレーで怪我をしても医者が驚くような速度で完治したり、生牡蠣パーティーで仲間全員ノロウイルスに感染しても私だけ軽症で済んだりと、幸運なことが多く起きた。ちなみにそれ以降、私は牡蠣を食べなくなった。
きっと、ヴィルが遠い遠いところから私を守ってくれている。
ヴィルのことがずっと心に残っていたからか、私は大学生活で一度も彼氏を作らなかった。
告白されたこともそれっぽい雰囲気になったこともあったけれど、どれも恋愛に発展しなかった。
私には、ヴィルがいるから。
この指輪をくれた大好きな人がいるから……他の人は、いらない。
大学四年の秋。
今度の帰省について母親と電話していると、母が「そういえば」と前置きして話題を変えた。
「おばあちゃんの家があった近くに県道があったでしょ? あそこ、もうすぐ片側二車線になるのよ」
母の言葉に、私は瞬時にヴィルのことを思い出す。
確かに、あの県道は片側一車線だった。ヴィルと並んで桜の木の下に座り、「あれはトラック」「あれはワゴン車」と県道を通っていく車の種類を教えたりしたっけ。
ヴィルのことを思い出して思わず口元が緩んでしまいそうになり、私は抱えていたキャラクタークッション――かつてさんざんヴィルに紹介したから、彼もこのイラストが描けるようになった――に顔を埋めた。
「へえ……でも、あそこってそもそも狭かったじゃん。どうやって道路を広げるの?」
「桜並木があったでしょ? あの木を全部切り倒して土地をならすのよ」
――私は人生で初めて、「心臓が止まるような思い」というのを経験した。
気づけば私は翌日以降二日間の講義を全て欠席する旨を友人に伝え、家を飛び出して駅に突進し、新幹線に飛び乗った。
地元の大きな駅に着いたらすぐに電車に乗り換えて、ローカル線で一時間ほど北上する。そしてタクシーを捕まえ、べらぼうな運賃になるのを覚悟であの桜並木に向かった。
――移動中の記憶はほとんどない。
気がつけば私は、「立ち入り禁止」の看板と頑丈なフェンスの立つ県道脇の前に立ちつくしていた。
かつて桜並木の存在した一帯は土が掘り返されていて、目の前では大型ショベルカーがせっせと新しく土を掘っている。看板の脇には「県道工事中」というお知らせが貼られていた気がするけれど、よく覚えていない。
桜の木が。
七年間、ヴィルと私を繋いでいた桜の木が。
私たちを繋いでいた木が、なくなって、地面が――
「っ……ヴィル!」
私はバッグを放り出すとブーツを脱ぎ捨て、鋼鉄のフェンスに足を引っかけて乗り越えた。
そして掘り返されて間もないため柔らかい地面に不格好に着地し、かつて桜の木のあったあたりまで這っていく。
「ヴィル! ヴィル、どこなの!?」
私の左手には、きらりと光る指輪が。
そう、きっとここに、桜の木が残っている。
根っこだけでもいい。枝一本でもいい。
それさえ見つければ、またヴィルと――
「おい、何をしているんだ!」
私の乱入に気づいたらしい工事のおじさんが駆け寄ってくるけれど、私は狂ったように両手で土を掘り起こしていた。
掘っても掘っても出てくるのは土と、石と、ときどきでかいミミズと、石ばかり。
ううん、でもきっと見つかる。
根っこを見つけて植えればまた生えてくるかもしれない。枝一本でも、接ぎ木をすればまたヴィルに会えるかもしれない。
「こら、やめなさい! 何をやっているんだ!」
「離せっ!」
後ろから軍手を嵌められた手で肩を掴まれ、私の体がカッと熱くなった。
止めるな!
私に触れるな!
私はヴィルに会うんだ。
ヴィルとの思い出の桜を見つけるんだ!
私が抵抗すると思っていなかったからか、おじさんは驚いたようにあとじさる。おじさんには目もくれず、私はすぐに穴掘り作業を再開させた。
両手の爪はぼろぼろで、指先の皮膚もめくれてしまっていた。掘り起こす際に大きな石の角が当たったみたいで、左手の甲から血が流れ、泥と混じって指先に滴っていく。
「ヴィル、ヴィル! どこにいるの! 私だよ、冴香だよ! 会いに来たよ!」
もうちょっと、もうちょっと掘れば、見つかるはず。
ヴィル、ヴィル、ちゃんと会いに来たよ。
私、二十二歳になったよ。
「素敵なお姉さんになる」って宣言したよね? 私、毎日自分磨きをしたし、きれいになるよう気をつけているんだよ。
全部、ヴィルのために――
ねえ、ちゃんと会えるよね?
また、「好きだよ」って言ってくれるよね?
「やめなさい! ……おい、誰かこの子を止めて――」
おじさんが何か叫んだ、その瞬間。
私の左手が、眩しく輝いた。
ヴィルから贈られた指輪が、光っている。
光は私を包み込み、穴に突っこんだままの両手を優しく撫でていった。
ヴィルに撫でられているみたい。そんなことを思ったのが、最後だった。
光が消え、私の左手にあったはずの指輪がなくなっていた。
そして私は。
私はぽかんとして、自分の両手を見ていた。
泥と血にまみれて、ズタズタに裂けてしまった両手。バレーをしていても、指先まできれいになるように気をつけていたのに――
あれ?
私、どうして毎日爪の手入れなんかしていたんだっけ?
それに、どうして私は今、泥まみれの血まみれになって穴掘りなんてしているんだ?
「……ここ、どこ?」
ぽつんとつぶやいた私を、おじさんは哀れむような、怯えるような眼差しで見ていた。