記憶 2
翌日は小雨だった。
「ごめん、ヴィル。遅れた」
「気にしないでくれ。それより、カデンセイヒンノチラシはどこにある?」
おばあちゃんに着せられたカッパ姿で登場した私は、桜の木の根本で腕を組むヴィルに迎えられた。当然のことながら彼の体は天候に左右されないので、雨にも濡れていないし肌寒さを感じている様子もない。
私は折りたたみ傘を開いて防水シートを地面に広げ、チラシや携帯ゲーム機、それからおやつのポテチやボールペン、おばあちゃんの老眼鏡、私の学校の春休みの課題など、鞄いっぱいに詰めてきたものをフリーマーケットの商品のように並べた。
結果、ヴィルが驚かなかったのは「似たものは存在する」という老眼鏡だけだった。
いろいろな家電製品が掲載されたチラシや狭い画面の中でモンスターがうろちょろするゲーム機、インク瓶に浸すことなくさらさら字を書けるボールペンや、ヴィルには読めないらしい字が書かれた課題などを見る間、ヴィルは子どもみたいに興奮していた。彼では触れられないので、「これはどう使う?」「ページを捲ってくれ」といった指示を受けて、私はヴィルにいろいろなものを見せた。
魔術師の学校に通っていて、生まれたときから魔術が使えるのが当たり前なヴィルは、魔術を必要としないいろいろな道具に心を奪われてしまったようだ。
しかも、好奇心旺盛なだけじゃなくて頭もいいようで、「これはどう使う?」「このソージキの内部はどうなっている?」と質問攻めになることもしばしばだった。当然、十一歳児が掃除機の構造を答えられるわけもなく、私が答えに詰まるとヴィルはふふんと笑い、「情けない」と馬鹿にしてきた。
悔しいから「もう二度と見せてあげない!」とチラシやゲームをかき集めると、この世の終わりのような顔をされた。
ちなみにせっかくだから二人で記念撮影をしようと思ったんだけど、現像した写真に写っているのは私一人だけだった。
ヴィルは幽霊みたいな存在らしい……謎だ。
そうしている間にあっという間に春休みが終わり、私は家に帰ることになった。
「次は夏休みに来る予定だから、そのときに会おうよ」
別れを告げると、ヴィルはあからさまに残念そうな顔になった。
「私に会えないのが寂しい?」と聞くと、「冷蔵庫のチラシが見られないのが寂しい」と言われた。
私は激怒した。
まあそれはいいとして、私は家に帰り、小学六年生になった。
六年生の夏休み。
緑の生い茂る桜の木の下に、やっぱりヴィルはいた。
彼は半袖で登場した私を見るとぎょっとして、「レディがなんて格好をしているんだ!」と叫んだ。
「せっかくだから、最初に聞くのは『久しぶり、会いたかった』がよかったなぁ」
「君は馬鹿か! ……いや、君だけじゃない! どうしてこの世界の女性は、あんなに破廉恥な格好をするんだ!」
「はれんち?」
「ともかく、足を隠せ!」
「暑いから嫌だ」
だって気温三十度越えだし。ヴィルは涼しそうな顔をしているのが憎らしい。
そうして話をしていると、私たちの時間の流れがちょっと違うことが分かった。ざっくりとだけど、地球で三日経過する間、ヴィルの世界では一日くらいしか経っていないそうだ。
だから私は誕生日を迎えて十二歳になったけど、ヴィルは最初会ったときと変わらず十六歳で、しかも春休みに私と別れてから一ヶ月程度しか経っていないそうだ。
「ずるい」
「ずるくない。あっという間に君も俺と年齢がそろうだろうし、いいだろう」
「ふんっ……だったら、ヴィルがびっくりするくらい素敵なお姉さんになってやるんだから!」
「ああ、そうだね。楽しみにしているよ」
くつくつと笑うヴィルはやっぱり大人の男の人で、いつまでも子ども気分の抜けない自分が腹立たしかった。
夏休みが終わると、冬休みに再会した。
もこもこ着ぶくれした姿を笑ってきたから、雪玉を投げつけてやった。当然、貫通したけれど。
春になると、私は中学生になった。
せっかくだから買ったばかりの制服を着て会いに行くと、「膝を見せるんじゃない!」と叱られた。腹が立ったから、スカートのウエストを巻いてもっと短くしてやった。
次の瞬間、ヴィルは悲鳴を上げて姿を消した。
翌日、顔を真っ赤にしてすごく怒られた。解せぬ。
中学生になるとバレー部に入ったから、夏休みも練習漬けになっておばあちゃんの家に帰省できなくなった。
次に再会したのは新年で、「遅い!」とヴィルに怒られた。この頃になるとヴィルの見た目もちょっと変わっていた。ヴィルはもうすぐ試験があるらしく、勉強しているらしい。
さらに時が流れ、私は高校生になった。
第一志望の学校に合格した、と涙混じりに報告すると、「よかったね」と笑顔で言ってくれた。この頃になると私も喧嘩腰にならなくなったし、ヴィルはずっと優しくなった。
「本当の王子様みたいになったね」と言うと、「俺は王子様ってガラじゃないよ」って微笑んだ。
その笑顔を見ていると――どうしてなのか、胸がドキドキしてきた。
そうして、私が初めてヴィルと出会ってから七年。
私とヴィルはどちらも十八歳になっていた。
「おばあちゃん、死んじゃったんだ」
黒いセーラー服姿の私が言うと、ヴィルは驚いたように目を瞠った。
ヴィルはおばあちゃんと会ったことはないけれど、写真は見せていたんだ。「冴香に似ている」って言われたっけ。
「……そっか。お悔やみ申し上げます。寂しくなるね」
「うん。……それで、ね。おばあちゃんの家はもうすぐ取り壊されて、土地が売り出されることになったの」
県道沿いの土地は、田舎の割に結構いい値で売れるらしい。お母さんと叔父さんたちで相談し、土地を売り払ってそのお金を兄弟で分けることになったそうだ。
「それに……私、もうすぐ大学生になるの」
本当は、遠くの大学に進学したくなかった。
できることならこの田舎に越して、ずっとずっとヴィルと一緒にいたかった。
でも……そうも言っていられないのは分かっていた。
私以外の人間の目に映らないヴィルのことを両親に教えても笑われるだけだし、最終的には頭がおかしくなったかと思われるだけだ。
それに……ヴィルもきっと、そんなのは望まないだろう。
私が受験し合格したのは、ここから遠く離れた東京の私立大学。実家からも遠いので、女子大学生向けのアパートで一人暮らしすることになっていた。もう部屋は押さえていて、高校の卒業式の次の週に引っ越す予定だ。
ヴィルは小さく息を呑み、そして頷いた。
「……そっか。寂しいけれど、それが冴香の選んだ道だものね」
「……寂しいと思ってくれる?」
「当たり前だろう? ……ねえ、冴香。手を出して」
ヴィルに指示され、私はよく分からないながら両手のひらを上に向けて差し出した。
「ちょーだい」と言っているかのような仕草だったからか、ヴィルはぷっと笑った。
「そうじゃなくて、左手だけでいいよ。左手をこう、手の甲を上に向けて」
「うん?」
ヴィルは私の手に触れられないから、彼がやった仕草をそのまま真似る。そうしてヴィルは上着のポケットに手をつっこっみ、「届くといいな……」とつぶやきながら、小さな箱を取り出した。真っ白で、おしゃれな留め金の付いた箱だ。
「これ、俺から冴香へプレゼント」
「……え?」
「開けるね」
ヴィルは一言断り、箱の留め金を外した。
そこに入っていたのは、きらきら光る小さな指輪だった。
「あっ、きれい」
「そう? よかった。……これを、君に」
「えっ、でも――」
同じ世界を見、同じ感情を抱いている私たちだけど、決して触れることはできない。
だから、その指輪を受け取ることも――
ヴィルの喉仏が動き、すんなりした指先で指輪を摘む。
それをおそるおそるといった様子で、私の左手に近づけ――
ヴィルの手が私に触れる。
それはすかっと空を掻くのみで、分かっていても泣きたくなった。
でも。
「……嘘」
「ああ、よかった」
安堵したように微笑むヴィル。
私は何も言えず――自分の左手に収まった指輪を、穴が空くほど見つめていた。
私の左薬指の付け根に、確かに指輪が嵌っている。指輪の感覚はないし右手で触れることはできないけれど、光り輝く銀色の指輪は間違いなく、私の指に存在している。




