記憶 1
――桜色の風が巻き起こる。
おばあちゃんのお遣いの帰り、ちょっと寄り道をして県道沿いの桜並木を見に行った。
ここは毎年春になると桜が満開になって、ドライブ中の人たちも思わず車を停めて魅入ってしまうくらい見事だ。ちょっと前には、「春の絶景スポット」として何かの雑誌のコラムに載ったこともあるそうだ。
惣菜パンとふりかけの入ったエコバッグ片手に、県道に上がるための緩やかな丘をえっちらおっちら登っていた私だけど、急にいたずらな春風が私を襲い、エコバッグに引っかけていたハンカチがふわっと飛んでいってしまった。
「あっ……!」
私はハンカチを追いかけて丘を上がり――腰ほどの高さのガードレールを跨ぐ前にしっかり左右を確認し、片側一車線の道路に車の姿がないのを確認して道路を横断した。
ハンカチは、桜並木のところまで飛んでいっていた。ハンカチも桜の花も同じような色なので最初見分けが付かなくて焦ったけれど、風に煽られひらひら揺らめく布が視界に入り、私はその木に向かった。
ハンカチを枝に引っかけた桜の木は、このあたりに生えているものの中では比較的若いみたいで、高さはそれほどでもないし幹もつやつやしていた。
これなら、頑張れば登れるかも。ズボンを穿いているから、ちょっと足を広げたりしても咎められないはずだ。
そう思った私は、木に登るために足下にエコバッグを置こうとして――息を呑んだ。
さっきまで誰もいなかったはずなのに、今、桜の木の枝に足を引っかけている男の人の姿があったんだ。
でも、私が驚いたのは男の人がいきなり現れたからってだけじゃなかった。
その人は、とてもきれいな顔をしていた。
大学生くらいの男の人だけど、どう見ても顔つきは外国人。鼻は高くて、ふわふわくるくるの茶色の髪は襟足が長め。こっちをきょとんとした様子で見てくる目は、晴れ渡った空のような青色。
まるで、絵本の中から抜け出てきた王子様のような人。
絵本に出てくる王子様は金髪が多かったけれど、私は彼を見て、「王子様みたい」とつぶやいていた。
彼は私を見て、何か言いかけたようだ。
でも次の瞬間、ぶわっと桜吹雪が巻き起こり――それが収まったときには、彼の姿はかき消えていた。
最初から王子様なんていなかったかのように、痕跡一つ残さず。
彼が土足で踏んでいたはずの枝の分かれ目をよく見たけれど、泥一つ付いていなかった。
家に帰って、お母さんやおばあちゃんたちに王子様のことを報告した。そうしたら、「花粉症が頭にまで回った?」と言われてしまった。酷くない?
絶対そんなことない、今日は彼の姿をばっちり写真に収めてやる、と私はおばあちゃんからインスタントカメラを借り、意気揚々と桜並木へ向かった。
そこにははたして、あの王子様の姿があった。
「見つけた!」
私が声を上げて駆け寄ると、桜の幹に寄り掛かってぼんやりしていた王子様ははっとしてこちらを見た。
そして自分の喉に触れたり頬に触れたりと不思議な動作をしばし行ったあと、口を開いた。
「少年。君は……この世界の人間か?」
その声を耳にし、バッグに入れていたカメラを取り出そうとしていた私は動きを止めた。
理由は二つ。
一つ、王子様の声がとてもきれいで、耳に心地が良かったから。
そして二つ目。
「……少年じゃない! 少女と呼べーっ!」
喧嘩っ早かった私は、王子様の顔面に向けて右ストレートを放った。
私渾身の正拳突きは王子様の頭を貫通し、桜の幹に命中した。
桜吹雪が舞った。
とても痛かった。
そうして私は王子様の隣に座り、自己紹介を行うことにした。
「私は寺井冴香。冴香って呼んで。十一歳」
「十一? てっきり七つかそこらだと思った」
「むかつく」
「ムカツク……がどういう意味なのかは分からないが、まあいい。俺はヴィルフリート・シュタイン」
「ビルブリー・ドスタイン」
「ヴィルフリートだ」
「ビリュフルート」
「下手くそ」
「発音しやすい名前じゃないそっちが悪い」
王子様は、思ったよりも口が悪いし、性格も捻くれていた。
王子様イコール優しくて紳士的、なんて固定観念を少女たちに植え付けた絵本、許すまじ。
せっかくお話をする気になっていたのに、自己紹介の時点で私たちは衝突してしまった。
いちいち腹の立つ言い方をしてくる、この人がいけないんだ!
「ばーかばーか! 花粉症でくたばってしまえー!」
「はっ、七歳のお子様はさっさと帰ってネンネしてなよ」
「うざーっ!」
結局その日は喧嘩別れ状態で、私はおばあちゃんの家に帰った。
帰ってから、写真を撮ればよかったと後悔した。
明日こそリベンジだ!
次の日も、私は県道に向かった。
お母さんはいきなりどこかにフラフラするようになった娘を心配しつつ、「行き倒れるのと車に轢かれるのだけはよしてよ」とだけ言い、お父さんは「まあ、無事に帰ってくるならそれでいい」と言い、おばあちゃんは「これでも持って行きなさい」とお弁当を持たせてくれた。準備万端である。
その日も、彼は木の下にいた。
彼は私を見ると、「うわぁ」と言いたそうな顔になったから、こっちも「うわぁ」と言ってやった。
「また君か」
「またあんたか」
「……で? 今日もカフンショーとやらで頭がいかれてしまったのかな?」
「ぷぷっ、花粉症さえまともに発音できないなんて、だっさー」
「……は?」
本日も元気に喧嘩開始である。
そんな日を繰り返せば、だんだんと距離も縮まってきた。
ヴィルフリートって名前はどうにも発音しにくいので、「ヴィル」と呼ぶことになった。最初は「ビール」って呼んでしまい、すごく嫌そうな顔をされた。
最初は喧嘩腰だったヴィルは私と話をするうちに冷静になり、私もすぐキレずに落ち着いてヴィルと話をすることができるようになっていった。
そうして分かったのは、ヴィルは異世界の人間で、なぜかこの桜の木の周りにしか姿を現せないということ。
そしてなぜか、私以外の人間には姿が見えないらしいこと。
そして、桜の木以外のものに触れられないこと。
私の目にはヴィルの姿がこんなにくっきり映るし、声も聞き取れるのに。変なの。
「俺、魔術を習っているんだ」
「魔術……って、小説に出てくる、あの、炎を出したりとか……?」
「それくらいなら子どもの頃からできる」
「じゃあやってみてよ」
「俺もそうしたいのは山々だけど、なぜかできない」
「はっはー、さてはデマだなぁ?」
「……デマじゃない。それより、この世界には魔術がないんだろう? 君たちはどうやって生活しているんだ? というか、あの物体は何だ?」
あの物体、とヴィルが示したのは、ちょうど私たちの前方を通り過ぎていった自動車、それからバイク。どうやらヴィルの世界には、自動車もバイクもないようだ。
「さっきの大きいのは自動車。その次の小さかったのはバイク。知らない?」
「知らない。馬車はあるけれど、あんなの見たことがない」
「ふーん……冷蔵庫もパソコンもケータイもないの?」
「どれも聞いたことのないものばかりだ」
「そっか。……あ、そうだ。触れないと思うけど、見るだけでも見てみる?」
「見たい!」
とたん、ヴィルはこれまでで最高レベルの弾んだ声を上げた。
呆れた声で「君は馬鹿か」とか、怒った声で「年上を馬鹿にするな」と言われたことはあるけれど……ヴィルもこんなにはしゃいだ声を上げられるんだ。
そういうことで私は翌日、家電製品のチラシや携帯ゲーム機などを持ってくる約束をした。
ヴィルの顔はむちゃくちゃ輝いていた。