4 記憶にない幼馴染み
いろいろ聞きたいことはあるけれどひとまず、私たちは身支度を調えて食事を取ることになった。
ヴィルに呼ばれてやってきたのは、高校生くらいの年の女の子だった。ヴィルが彼女に何かを言付けると、彼女は少し驚いたような顔をしながらもしっかり頷いて、私の身支度を手伝ってくれた。
顔は洗面台で洗ったのだけど、この家は不思議な装置を備えているようで、ボタンみたいなのをぽちっと押すと洗面台からお湯が噴き出て、いい感じに私の顔を洗ってくれた。そう、手を使って洗わなくても勝手にお湯の量や向きを調節してくれるんだ。すごい設備だな。
「サエカ様のために、ヴィルフリート様が準備なさったのです」
そう言って女の子が私に着せてきたのは、しっとりと柔らかいローブのような部屋着だった。どんな服を着せられるのかと内心びくびくしていたけれど、思ったより普通そうで安心だ。
ヴィルフリート様――ってのはたぶん、ヴィルのことだよね。というか、私まで様付けされていいんだろうか。
支度を調えると、私は女の子に連れられて別の部屋に入った。さっき寝室から移動する際に通ったところだけど、いつの間にか朝食の準備が整えられていて、既にヴィルが待っていた。
彼は白いシャツに黒いズボンという、わりと普通の格好をしていた。よかった。寝るときに上を脱ぐだけで、半裸族じゃなかったんだね。
「お、おまたせしました」
「気にしなくていいよ。……ああ、よく似合っている」
お茶を飲んでいたらしいヴィルが顔を上げ、私の姿をじっくり見つめて嬉しそうに微笑んだ。そういえばさっきの子曰く、この服もヴィルが用意してくれたんだっけ。
「何から何までお世話になります」
「……夫が妻のために尽くすのは当たり前だろう」
ヴィルのつぶやきに、私は思わず動きを止めてしまう。
女の子に急かされてぎくしゃくしつつ席に着いたけれど――夫って……妻って……。
女の子が一礼し、部屋を出て行く。
残っているのは、私たち二人とおいしそうな朝食だけ。
「……あの」
「食べながら話そうか。マナーとかは気にしなくていいけれど、冴香の舌に合うかは分からないから、食事の感想だけは正直に教えてくれると嬉しい」
「わ、分かりました」
ヴィルに促され、私はぎこちなくナイフとフォークを手に取った。
この家では、料理ごとに皿を分けたりしないみたいだ。
大皿が一枚据えられていて、そこにパンやサラダ、何かのソテーみたいなものやソーセージもどき、スクランブルエッグのようなものが全部載っていた。私たちの前にはそれぞれ取り皿があるから、ほしいものを取り皿にとって食べる形式みたいだ。
ヴィルは、私がどれを一番に食べるか見守っているようで、先んじて取り分けようとしない。とりあえず……卵からいこうか。
「……! あ、甘すぎる……!」
スクランブルエッグ、激甘だった。というかこれ、味も食感も卵じゃないや。どっちかというと……芋系?
「それは、ホルボという野菜だ。冴香には甘すぎたみたいだね」
「は、はい。……あ、これはおいしい」
「サラダは口に合うようだね。よかった」
ヴィルは私の感想一つ一つに丁寧に反応してくれた。聞いたことのない名前の食材ばかりだけど、外国の食材なのかな。
大皿に載った料理にあれこれ感想を述べつつ食べていると、だんだんとお腹も膨れてきた。
お腹が満足すると、人間はちょっとだけ前向きになれる。
「……それで。これはいったい、どういうことなんでしょうか」
ジュースを飲みつつ私は問う。ちなみにこれも数種類ポットが用意されていて、そのうちいくつかは私には飲める代物じゃなかった。今飲んでいるのは、オレンジのように甘酸っぱい果実のジュースだった。
私にはゲテモノの味がしたため一口で遠慮したお茶を飲んでいたヴィルは、真面目な顔になって頷く。
「……そうだな。何から説明すればいいのか――まず、ここは冴香が住んでいた地球とはまったく違う世界。いわゆる異世界というものだ」
「……異世界」
そういえば、さっきそんなことも言っていたっけ。
異世界……異世界……うーん……にわかには信じがたいけれど。
難しい顔をする私を見つめ、ヴィルはふっと微笑んだ。
「……その顔、四年前の君と同じだね」
「……あ、そういえばヴィルは、私のことを知っているのですよね?」
「そんなかしこまった言葉遣いはしなくていいよ。見た感じ、いつの間にか君の方が俺よりも年上になってしまったようだからね」
「どういうことです……どういうこと、なの?」
尋ねると、ヴィルはテーブルの上に「16」と書いた。
「……俺が初めて君と出会ったのは、四年前、十六歳のときだ。俺は魔術師で、当時は魔術学院に通っていた」
「まじゅつ」
「うんうん、昔の君もそんな顔をしていたね。そう、君の世界では物語の中にしか出てこない魔法と同じようなものだよ」
そ、それはなんというファンタジー。
異世界に来たっていうのでも信じがたいのに、目の前にいるイケメンが魔術師なんて――
「ちなみにこの世界の人間なら、差はあるけれど必ず魔力を持って生まれる。今この世界で魔力を持たない人間は、君だけだろうね」
「まじかぁ」
「まじだぁ。……まあとにかく、学院生だった俺は当時の先輩に、魔術がらみの植木鉢をもらったんだ」
そうしてヴィルが話したことによると。
十六歳だったヴィルは、謎の植物が植えられている木に関心を持ち、個人的に研究することにした。
植木鉢に生えているのは、こっちの世界では見たことのない種類の小さな木。
いわゆる魔術オタクだったヴィルはあれこれ植木鉢を調べてみたけれど――その日、不思議な夢を見たという。
「その夢の中で、俺は植木鉢の木の下で座り込んでいた。俺は、木の周りしか移動できなかった」
当時を懐かしむかのように目を細め、ヴィルは語る。
「とても、興味深かった。木が生えているのは、俺のまったく知らない世界。あたりには緑が溢れ、かと思えば頑丈そうな道がすぐ脇を通っている。山の向こうには不思議な形の家屋が建ち並んで、俺のすぐ脇を鋼鉄の塊――自動車が通っていく」
そうしてヴィルがわくわくしながらその世界を観察していると、道の向こうから一人の子どもが走ってきた。
短い黒髪に、くりくりとよく動く黒い目。手足がすらりと細く、腕と足が丸出しの格好をしているので、最初は男の子かと思ったそうだ。
その子はヴィルの存在に気づくことなく、木を見上げた。その視線の先の木の枝にはハンカチが引っかかっていたので、あれが取りたいんだろう、と気づいたヴィルは木に登り、ハンカチを取ってあげようとした。でも、ヴィルはハンカチに触れられない。伸ばした手は、ハンカチをすり抜けてしまうのだ。
自分は夢の存在だから、仕方ない。
そう思って諦めたヴィルだが――ふと、木の下で自分を見上げる子どもと視線がぶつかった。
「とたん、俺は自室で目を覚ました」
目覚めたヴィルは、あの鉢植えをいじくり回してから寝たからこそ、不思議な夢を見たのだろうと確信した。
そして翌日、同じように植木鉢を抱えて寝た彼は、またしてもあの世界に飛んでいたのだった。
木の下で座っていると、例の子どもがやってきた。それまで、自動車に乗っている人も通りがかった人も誰もヴィルの存在に気づかなかったのに、その子どもだけはなぜか、ヴィルの姿を見ることができていたという。
「それが冴香、君だよ」
「私……?」
「男の子みたいな格好をしていたから少年、と呼びかけたら、殴られた」
もちろん俺の体をすり抜けて桜の幹を殴っただけだったけどね、とヴィルは寂しそうに微笑んだ。
ヴィルはじきに、寺井冴香と名乗った少女――私と話をするようになった。
当時の少女冴香は十一歳で、もうじき小学六年生になること。今は春休みで授業がないので、両親と一緒に祖母の家に帰省しているということ。家に帰ってヴィルの話をしたら、「花粉症が頭にまで回ってしまったか」と笑われてしまったこと――と教えてくれたという。
そして私が祖母の家に帰省している間、私たちは毎日桜の木の下で待ち合わせをした。
どうやら、ヴィルの世界で一日が経過する間に、私の世界ではだいたい三日が経過していたようだ。
春休みは短かったけれど、その間たくさんの話をした。
「冴香が好きだっていうアーティストの話も聞いたし、君が持ってきたお菓子もマンガという絵本も見させてもらった。君が好きだっていっていたキャラクターも、何度も練習したら書けるようになったよ」
ほら、とヴィルはテーブルに指で絵を描いた。それはまさに……私が小学生のときに好きだったキャラクターだ。おまけに彼が口にしたのは、当時流行っていたスラングやアニメの主題歌。
私はまったく記憶にないけれど、私と彼が交流していたというのは、本当みたいだ……。