38 魔術師の逆鱗
……武術なんてこれっぽっちも身につけていない。
でも、体育の成績はいい方だったし、社会人になっても趣味のバレーを続けていたから、基礎体力と瞬発力はある方だ。
それに、これは威嚇じゃない。
こんなところで殺されるくらいなら――私にできる形で、最後まで抵抗する。
私がナイフを突きつけると、鉈を手に迫ってきていたゲルトラウデさんがあとじさる。
やっぱり――さっきの男の人も言っていたように、ゲルトラウデさんは高名な魔術師だけど、魔術に頼りきりだから基礎体力はないし肉弾戦も不得意なんだ。
魔術なら遠距離から私を殺せるけど、ヴィルの守りがあるからそうもいかない。
そして平和ボケした世界で生まれ育った私は――魔力が存在せず、ある程度のことは自分の力でしなければならない生活を送ってきた私だからこそ、最低限の体力がある。
窮鼠猫は噛める。
体力勝負となれば、私にも十分勝機はあった。
「……来ないで。刺しますよ」
「……ふ、あはははは! ヴィルに守られるだけしかない女に何ができるの――」
ギン、と音がし、ゲルトラウデさんが持っていた鉈が弾かれ、落下する。
子どもの頃から魔術に頼りきりでまともに刃物すら持ったことのないらしい彼女は、鉈を持つ手も震えていたし、そもそも彼女の細腕では鉈を持つのも一苦労だったのだろう。
一気に間合いを詰めて手に持ったナイフを鉈の刃にたたきつけると、あっけないくらいあっさり持ち主の手を離れた。
相手が武器を持った大の男四人だと無様でしょうもない抵抗しかできなかったけれど、相手は接近戦慣れしていない細身の女一人だという、確かな勝機が私を強くした。
そう、いわゆる――火事場の馬鹿力だ!
日本人なめるな!
からん、と落下した鉈を、ブーツの先で蹴り飛ばして奥に押しやる。
それと同時に、私の左手を飾っていたブレスレットがひときわ強く光り――
ふわり、と風が巻き起こった。
そんなはずはないのに、舞い散るピンク色の花びら――桜の花が舞う幻想さえ見えた気がする。
柔らかな風を纏って現れたのは、私が待ちこがれた人。
髪紐が解けてしまったのか、括っていたはずの髪はふわふわと風に遊ばれていて、白いコートの裾が翻る。
とん、とその場に降り立った彼はいの一番、私を抱きしめてきた。
「冴香……駆けつけるのが遅れて、すまない……!」
「ヴィル……」
「こんなものを持たせてまで、君に辛い思いをさせてしまった……ごめん、冴香……!」
ヴィルは空いている方の手で、私が握りっぱなしだった物騒なナイフをぺいっと没収して廊下の奥にぶん投げた。
両手がフリーになった私は最初、おそるおそるヴィルの背中に両手を回し――気づけば、その胸元のアスコットタイに顔を埋めてぼろぼろ涙を零していた。
ゲルトラウデさんと対峙しているときはアドレナリンがどばどば出て強気でいられたけれど、ヴィルに抱きしめられ、その匂いに包まれたとたん、体中の器官という器官から力が抜けてしまう。
両足はもちろん、涙を抑える力も緩んでしまったみたいだ。
「ヴィル……ご、ごめん。発表会が――」
「そんなのどうにでもなる。それより……ゲルトラウデ」
私を抱えたまま、ヴィルは体を捻ったようだ。ゲルトラウデさんが息を呑む音がしたけれど、ヴィルにがっちりホールドされている私は彼女の方を見ることができなかった。
「なぜこのようなことをした? おまえは……俺の妻に何をした!」
「そ、その女が悪いのよ! ヴィル、あなたはその女に呪いを掛けられているのよ!」
ゲルトラウデさんが悲鳴を上げる。
紛れもない絶叫だけど――その声に、ヴィルに詰られた絶望と悲しみが織り込まれているように感じられた。
「ねえ、ヴィル、ヴィル。かつての高潔なあなたはどこに行ってしまったの!? 皆、あなたに期待していたのよ! それなのにあなたはそんなつまらない女の甘言に惑わされ、出世の道を手放した――皆、かつてのあなたを恋しがっていたの。もちろん、わたくしも――」
「ああ、そう。……それで?」
「えっ……」
「君たちが昔の俺の方を好ましく思っていることは分かった。……それで、冴香を誘拐したからどうにかなるとでも思ったのか?」
「えっ……だって、その女のせいであなたがおかしくなってしまったのだから、その女さえ死ねばあなたは正気に戻るはずじゃない?」
その表情は見えないけれど、語り方に――私はぞっとした。
さっきまでは怯えた様子だったゲルトラウデさんだったけど、今は落ち着いた様子で言葉を紡いでいる。
その口調は――「わたくしのどこが間違っているの?」と言わんばかりだった。
彼女は、自分の行いが間違っているとはまったく思っていない。
私が消えれば――死ねば、ヴィルが「元通りになる」と本気で思っていたんだ。
私が身を震わせたことを知るよしもなく、ゲルトラウデさんはどこか甘えるような口調でヴィルに語りかけていた。
「わたくしだけじゃないのよ。……覚えてる? カルロスとシュテファン、ロミルダ――みんなも、わたくしの計画に協力してくれたのよ」
「……あいつらもグルだったのか。道理で、ここに来るまでの間に妨害されたというわけだな」
低い声でヴィルが言っている。
つまり――ゲルトラウデさんだけじゃなくて、ヴィルの元級友の多くがこの計画に――私の誘拐・殺害に賛同し、協力していたというの――?
そこまで多くの人に死を望まれたことはなかった。
日本でも罵倒を受けたことはあるけど、あの巨乳子でさえ、私が電車に轢かれそうになったときには焦った声を上げていた。
他人から寄せられていた悪意と殺意。
それに気づいた私の体が、止めようもなく震えてくる。
そのことに気づいたヴィルは私を強く抱きしめると、つむじにそっと唇を押し当ててきた。
「大丈夫だよ、冴香。……連中が何を言おうと気にしなくていい。俺たちは、君に生きてほしいと思っている。だから、大丈夫」
「ヴィル……」
「ちょっと、ヴィル――」
「おまえが俺の名を呼ぶな」
「でも! わたくしはあなたのためを思ってその女を殺し――」
彼女が最後まで言葉を紡ぐことはできなかった。
私を抱きしめていたヴィルの片方の腕が持ち上がり、ひゅん、と風を切る音が耳に届いた。
直後、耳を覆いたくなるような甲高い悲鳴が廊下に満ちる。
「ヴィ――」
「どうか顔を上げないで、冴香」
静かな、祈るような声。
もう片方の手が私の後頭部をやや強引に押さえてきたので、それ以上頭を動かすことができない。
でも――分かっていた。
ヴィルが魔術を使って、ゲルトラウデさんを攻撃しているんだ。
絶叫と、何かを掻きむしる音。
それもやがて小さくなり、やがてどさっと重いものが倒れ伏す音がした。
何が起きたのか、想像してしまう。
そうするとヴィルの服を掴む手が凍えるように冷たくなり、震えてくる。
まさか――
「……ヴィル」
「死んではいない。殺してしまったら、事情聴取も裁判に掛けることもできなくなる。死ぬのは洗いざらい吐き出してからだ」
死んでない、の一言にほっとしたのもつかの間、ヴィルの告げた言葉に私はきゅっと唇を引き結んだ。
私が何か言える立場じゃない。ヴィルには人の命を左右できるだけの力と権限があることを、私は知っている。
ヴィルは冷静な人だから、今のもこの世界の常識と国の法律を考慮した上での発言に決まっている。私の目の前でヴィルが人殺しをしなかったことだけでも、感謝しなければならないだろう。
するり、とヴィルの手が滑り、私の左腕に触れる。
いやらしさのまったく感じられないその指先はブレスレットの紐を軽く引っ張り、連ねられた宝石をそっと撫でた。
「……本当はもっと早く助けに行きたかったのに、遅れて本当にごめん」
「ん……んん、いいの。だって、私が連れ込まれた部屋は魔術結界が張られていて、私の位置が把握しにくかったんでしょう?」
「それはそうだけど……どうして知っているんだ?」
「それは……」
話を続けようと思ったのに、ぐらり、と体が揺れ、頭が重くなった。
あ、これ、体育の授業で跳び箱に失敗して、スタントマンよろしく跳び箱に突っこんでしまったときの感覚に似ている。
目の前をチカチカと星が飛び、もうすぐ気を失うかも、って体が警告を発している。
でも……倒れる前に、これだけは。
「……あの、ヴィル。クスの町に、そこにいる人たちの家族が――人質で、殺されるかもしれないから、保護を――」
「クス? ……分かった。必ず、陛下に報告する」
力強く言ってくれたので、ほっとした。
ほっとすると、それまでなんとか意識を繋ぎ止めようとしていた力も緩んでしまう。
「……こんなときまで人の心配を――でも冴香。俺は、そんな君を愛している」
ちゅっ、と額に優しい感覚。
私を包み込むヴィルの鼓動がまるで子守歌のようで、体温は柔らかい毛布のようで、私の意識はふわふわとした世界にゆっくり沈み込んでいった。




