33 遠くない未来の約束
あまーい
……でも、ゲルトラウデさんが私にねちねち言ってきたのは、きっとそれだけが理由じゃないだろう。
随分前に仲違いしてお互いの考えが交わらないままなのに、ゲルトラウデさんはヴィルのことを「ヴィル」と呼ぶ。
しかも、その名を呼ぶときだけ口調が柔らかくなっていた。
「……好き、なんじゃないかな」
「何が?」
「ゲートラーデさんが、ヴィルのことを」
「ん? そうなの?」
思いきって言ったのに、まさかの反応だ。多少なりとも動揺するかと思いきや。
ヴィルは私の言葉に心底驚いたように目を丸くして、さっきから握ったままの私の手に込める力を強めた。
「ゲルトラウデが俺を? うーん……それ、初めて知った」
「ええっ……私は初めてゲートラウデさんと会ったときから、そんな感じがしていたのに」
「そう言われても……俺、彼女のことを異性として意識したことがないし」
「それくらいは意識してあげようよ……」
まさかあんなに豊満で女らしい体つきの美人なのに、ヴィルからはこれっぽっちも異性として意識されていなかったのか。
これはヴィルが鈍感だからなのか……いや、私を好きになるくらいだから、ちょっとヴィルの嗜好が変わっているからなのかもしれない。うん、きっとそうだ。
なおもヴィルは解せぬようで、首をひねって難しい顔をしている。
「と言われても、今さらどうとも思わない。それに俺には冴香がいるんだから、他の女性は全員同じに見えてしまうよ」
「そりゃあまあ、私の容姿はいかにも異世界人だし、私と比較すればこの世界の女性はみんな同じに見えるかもしれないけど……」
「そういうわけじゃないよ。俺には君一人だけで十分だってことだよ。たとえゲルトラウデに何か言われたとしても、冴香だけが俺の大切な人、愛する奥さんだってことは絶対に揺らがない」
そう言ったとたん、しばらくの間存在を隠していた炎がヴィルの瞳に宿った。
真面目な話をしている間は感じられなかった熱が、今は嫌というほど感じられる。
「冴香……愛している」
「ヴィル!?」
「ねえ、冴香」
「ひぁっ!?」
私の方に身を寄せてきたヴィルが、ふっと耳の穴に息を吹き込んできた。
耳はこれといって弱点じゃないけれど、いきなり息を吹き込まれたものだから思わず悲鳴を上げてしまった。
「今はまだちょっとバタバタしているけど……発表会が無事に終わって俺たちの研究成果が認められたら、お願いしたいことがあるんだ」
「なっ、内容にもヨリマス」
思わずカタコトになってしまった私を見つめるヴィルの目は三日月型に細められていて、優しい。
優しいんだけど……ちろっと覗いた彼の舌が唇の端を舐める様とか、ほんのり上気した頬とか、私の手の甲に浮き出た血管をなぞるかのようにうごめく指先とかからは、あんまり優しさが感じられないどころか、身の危険さえ感じられる。
「……そうだね。……冴香、今の企画が落ち着いたら……君を、ちょうだい」
最後の一言は、甘く湿っぽく囁かれた。
耳から心臓、脳みそ、そして体中へと染み渡っていく心地よい痺れに、私は全身をぶるっと震わせる。
『君を、ちょうだい』
えー? 私の何をあげればいいのー? というボケを噛ますほど私はウブではない。
人生二十四年。そういった知識もばっちり持ち合わせている。
彼が、心だけでなく身も結ばれたいと願っていることに、気づいてしまう。
ヴィルと私は夫婦の関係だ。だから、体を求められるのも何らおかしいことじゃないし――もう私は、彼の申し出を断る必要がなくなっていた。
彼が両手でも抱えきれないほど大きな愛情を与えてくれるのだから、それに応えたいと思うようになっていた。
だから。
「……わ、分かった」
「冴香……!」
「あ、あの! 発表会って、いつだっけ!?」
ヴィルが歓喜に満ちた声を上げるものだから間髪入れず尋ねると、彼は日数を数えるようにしばし視線を泳がせたあと、「九日後だね」と答えた。
「もちろん発表会には冴香も招待するつもりだけど……もしかして、九日じゃ心の準備ができそうにない?」
「ううん、そうじゃないの」
男は度胸、女も度胸。とにかく度胸。
高校の頃の先生も、「一度まわしを締めて土俵に上がったのなら、逃げずに戦い切れ」って言っていた。なんで相撲にたとえたのかは分からないけれど、今なら先生の言葉の意味が理解できる気がする。
「分かった」と一度言ったなら、前言撤回しない。それがヴィルに対する礼儀であり、誠意でもあるから。
さらに言うと、土俵で見事な戦い――決して隠語ではない――をするには、念入りな準備が必要だ。
「私、ヴィルの前ではいい女でいたいから……発表会までの間に、体の手入れをしたいな、って思って」
この世界にエステとかマッサージとかがあるかは分からないけれど、フローラあたりに聞けばいいだろう。もしかしたらリリズの町にそういったお店があるかもしれないし。
ありのままの自分を見せるのも大事だけど、やっぱり好きな人には一番輝いている自分を見てほしい。孝夫のときにはそこまで思わなかったけれど、今では心からそう願えた。
それを聞いたヴィルはかくんと顎を落とし、そして中途半端に開いた口元を隠すようにさっと顔を手で覆ってしまった。大きな手のひらでも隠しきれない唇の端が嬉しそうな笑みを浮かべているのが、丸わかりだ。
「……なんなの、それ。すっごく嬉しいんだけど」
「う、うん。だからその……ヴィルもお仕事頑張ってね?」
「頑張る! すっごく頑張る! ……どうしよう。俺、明日からちゃんと表情を引き締めて仕事に行けるかなぁ……」
「マキシさんあたりは鋭いから、いろいろ感づかれそうで心配だな……」
「分かる」
マキシさんがキツネ目をさらに細くして、「何浮かれているんですか」と呆れた声で言う姿が容易に想像でき――私たちは思わず同時に噴き出してしまった。
その日、私はヴィルに抱きしめられてベッドに横になった。
彼はやっぱり疲れていたみたいで、さっきまではしゃいでいたのが嘘のようにあっという間に寝てしまった。昼間のときも思ったけれど、まつげ長いし、寝顔は可愛い。
ちょんちょんとヴィルの頬を何度か指先で突いてみる。すっごく柔らかくてしっとりしている。不摂生な生活を送っていたはずなのにきれいな肌で、なんだか悔しい。
「……おやすみ、ヴィル」
私は少し体を起こしてヴィルの左頬にキスをし、彼ののど元に擦り寄った。
その日の夢の中で私は高校生くらいの姿になり、今より少しだけ若いヴィルと手を取り微笑みあっていた。
ヴィルは発表会当日まで、一日の大半を城の研究所で過ごすことになるらしい。
そんな彼とは、「どんなに忙しくても食事を取り、最低でも一日四時間は睡眠休憩する」と約束した。ヴィル一人との口約束だったら不安要素も多いので、マキシさんも捕まえて同じ忠告をしておいた。
ヴィルのスケジュール管理も担っているマキシさんだけど、思ったよりもルーズなところがあるらしく、「マキシさんも同じで、ちゃんと休んでください」と言うと、「私は大丈夫ですよ」と答えつつふいっと視線を逸らされた。どうも心当たりがありそうだ……まったく。
午前中、子どもたちが訓練を受けている間は屋敷の中で手紙の整理を行った。
発表会が近いからかヴィルに届く手紙の量も増えていて、中には返信を急ぎそうなものもあった。そういうものはまとめて紙に一覧表を作り、城に仕事に行く人に託した。ほぼ城に常駐のヴィルとマキシさん以外は城と屋敷を行き来することになっているんだ。
「それじゃあこれ、ヴィルにお願いします。リストもあるので、それを基に返信の判断をするように伝えてください」
「分かりました。……サエカ様はこれから、町にお出かけでしたっけ?」
ちょうど午後から城に行く予定のバイロンさんに手紙の束を入れたバッグを渡すと、そう尋ねられた。
確かに、午後からフローラとアンネを連れてリリズの町に行くことは皆に伝えていた。
……ただし、その理由は極秘である。
私は微笑みながら頷いた。
「はい。フローラたちと一緒にお出かけしようと思うのです」
「フローラが付いているならヴィルフリートも安心ですね。分かりました。では、行ってきます」
「はい、お気を付けて」
私は玄関口でバイロンさんを見送り、うーん、と伸びをした。
今日はいい天気。
絶好の洗濯日和でなおかつ、お出かけ日和だ。
間もなく支度を終えたフローラとアンネが降りてきたので、私は二人に案内される形でリリズの町に向かった。
最近では子どもたちと一緒に町を散策したり買い出しに行ったりすることも増えてきたので、町の人も私がヴィルと一緒じゃなくても驚いたり心配したりしなくなってきた。私にはヴィルからプレゼントされたブレスレットがあるしフローラたちもいるし、大丈夫だよね。
「ごめんね、フローラ、アンネ。せっかくのお休みなのに」
「とんでもないです。サエカ様のためですから」
「うーんときれいになって、ヴィルフリート様をメロメロにしちゃいましょうね!」
私の詫びに、フローラは落ち着いた様子で、アンネははしゃいだ様子で答えた。
そう、なぜ年長の女子二人をお供に町に降りたかというと、昨日の夜にヴィルに宣言した「体の手入れをする」作戦を実行するためなのだった。
日本で言うと中学生くらいだけど精神年齢はずっと大人なフローラとアンネは、「体磨きとかができるお店を知らない?」と尋ねただけで九割方のことを悟ったらしい。そこまでは言っていないのに「ヴィルフリート様のためですね!」「確かに、好きな人には一番きれいな体を見せたいですものね」と訳知り顔で頷いていた。本当に……この世界の子どもはいろいろと発育が早い……。
さすがにフローラたちがそういったお店の厄介になることはなかったようだけど、よく顔を見せに来てくれる町の女性陣なら知っているはずだ、と教えてくれたんだ。
圧倒的に男の方が多い屋敷で女の子たちの世話を見てくれていた女性陣は皆既婚者ばかりで、「若奥様であるサエカ様の相談にも乗ってくれるはずです」とのことだ。
そういうわけで、私の本日のお出かけの理由を知るのはフローラとアンネ、そしてそれとなく事情を察した女の子たちだけだった。