31 例のあの人来襲
屋敷を出る前にヴィレムさんから渡されていた時計が七時を指すちょっと前に、約束通りヴィルを起こした。
ヴィルはまだ寝足りないみたいだけれど「かなり頭がすっきりしている」とのことだった。
今日もいつ帰れるか分からないけれどなるべく早くに帰宅するとのことで、私たちは一度ぎゅっと抱きしめ合ってから別れた。「冴香のおかげで午後からも頑張れるよ」とおどけたように言うヴィルの顔は、すごく晴れ晴れとしていた。
もうすぐ引き継ぎを終えたモーゼスさんが来るはずなので、私はヴィルを見送ってから東屋で待つことにした。テーブルには空っぽになった水筒と弁当箱入りの籠があり、それを見ると胸の奥からじわじわと歓喜と達成感が沸き上がってくる。
ミッションクリア! 約一時間ヴィルが寝ていたからちょっとだけ足はだるいけれど、それを上回るほどの達成感と幸福感が得られたので結果オーライだ!
「……あら、また来ていたのね」
早くモーゼスさん来ないかな、と思いながらベンチに腰掛け足をぶらぶらさせていた私は、後ろから聞こえてきた声にはっと振り返った。
この声には聞き覚えがあった。
そこにははたして、金髪をなびかせた女性魔術師の姿があった。腕を組んでいるから、メロンのようにでっかい胸が腕に乗っている。すごい。
「ごきげんよう、サエカ・シュタイン様。わたくしの名は覚えているかしら?」
「も、もちろんです、ゲータロード様」
……あ、まずった。
慣れない名前を精一杯発音したつもりだったけど、相手の表情からその結果がすぐに分かった。いやだって、すごく発音しにくいし……ちゃんと覚えていてすぐ答えられただけ褒めてほしいけれど……。
私が固有名詞を呼ぶときの発音がめちゃくちゃなのは、屋敷の皆なら知っていること。
でも、この人――ゲルトラウデさんはそうもいかなかった。彼女は片方の手を顎にあてがい、私をじとっとした目で睨んでくる。
「……人の名前一つもまともに呼べないなんて。ヴィルが結婚したというものだからどれほどの人物だと思いきや、幼児のような発音しかできない無礼者だったとはね」
「も、申し訳ありません」
発音が難しくて……という言葉を続けそうになったけれど、グッと堪えた。
私にとって「ゲルトラウデ」が呼びにくいというのは事実なのだけど、それを言っても何の解決にもならないと思ったからだ。正当な理由を述べても、きっとこの人は納得しない――私の本能がそう告げていた。それくらいなら、無難に返した方がいい。
態度では誠意を尽くし、内心では今でもぶっ倒れそうなほどビビりながら詫びを入れると、ゲルトラウデさんは一歩歩み寄ってきた。
私は三段ほどの階段を上がった先にある東屋、相手は芝生の上なので、今は小柄な私の方が彼女を見下ろす形になっている。
「……あのヴィルが結婚するのだから、きっと高名な魔術師だろうと思っていた。それなのに蓋を開けてみれば……ヴィルが選んだのは、魔力を欠片も持たない異世界の女。……ねえ、あなた、恥ずかしくないの?」
「えっ」
「ああ、いえ。あなたが魔力を持たないことを詰るつもりはないわ。でも……低魔力者なのにヴィルの妻になるなんて普通、おこがましいと思うでしょう? それなのにどうしてあなたは一ヶ月も経つのに、まだヴィルの側にいるの?」
ゲルトラウデさんの言葉には本人の言うとおり、詰るような響きはない。
それどころか訝しむような眼差しで、心底不思議そうに私を見つめてそう言った。
――その目に見つめられ、ずくん、と胸が痛んだ。
……恥ずかしい?
魔力を持たない私がヴィルの隣にいるのは……おこがましいことなの?
私が言葉を失ったのをどう思ったのか、ゲルトラウデさんはさっきより早口で続けた。
「低魔力者なら分相応の振る舞いをすればいいでしょう? せっかくわたくしたちがあなたたちの人権を認めてやっているというのに、わざわざ目立ちに来る必要が分からないわ。ヴィルに恩があるのか何か知らないけれど、これ以上ヴィルの邪魔をするくらいならさっさと引っ込んでほしいのよ。それがあなたたち、魔力を持たない者たちの責務でしょう?」
人権を認めてやっている?
責務?
なにそれ?
フローラやリリズの町の人たち低魔力で生まれた人は、魔術師たちの許可を得て人権を手にしているの?
彼らに許されなければ、生きることもできないの?
持たない者は暗がりに引っ込むというのが責務なの?
「……私、別にあなたに人権を認められた覚えはないんですけど」
気づけば、そう言っていた。
私自身の問題じゃない。私のように魔力ゼロとまではいかずとも、低魔力であるために苦しんできた人たちがいることを考えると……黙ってはいられなかった。
案の定、ゲルトラウデさんは不快そうに眉根を寄せた。
「あなたにその自覚はなくても、低魔力者がわたくしたちに遠く及ばない存在であるのは当然でしょう? 異世界人のあなたでは理解が及ばないのかもしれないけれど、それがこの世界の、国の形なの」
「そんなのヴィルは一言も言っていません。それにヴィルは、私のような人間でも扱える魔法器具を開発しているんです」
ヴィルは、私との出会いで変わったという。
今の彼は低魔力で悩む人たちでも満足に暮らせるよう、魔法器具の開発に努めている。彼が今、寝食を犠牲にするほどの気持ちで発表会の準備に取り組んでいるのもきっと、その信念があるからだ。
――私がそう言ったとたん、さっとゲルトラウデさんの顔色が変わった。
……いや、変わったのは顔色だけじゃない。
唇の端が曲がり、不快感を隠そうともせず眦がつり上がり、目は苛立ちと怒りに燃えている。
「……あなたのせいよ」
「……何が、ですか」
「あなたがいるから、ヴィルは崇高な夢を諦めなければならなくなった。あなたは大義名分を背負っているようだけれど、ヴィルがあなたと出会わなければ、彼はきっと私と同じ前線戦闘部署に所属していた。そうすれば……ヴィルが戦地に行けば助かる命があったかもしれないのに」
ゲルトラウデさんの言葉は、強気になっていた私の胸をぐっさりと貫いてきた。
この世にも戦争が起きているのは知っている。昔はフローシュ王国も城下町まで攻め込まれるほどの劣勢に見舞われたこともあるし、今現在もどこかの国では人々が魔術を使って殺し合いをしているということも知っている。
もしヴィルが私と出会わなかったら。
もし彼が前線戦闘部署に就職していたら。
フローシュ王国が攻め込まれてしまっても、もし彼が前線に立てば――犠牲者数を抑え、国を勝利に導けるかもしれない。
でもヴィルは、戦うことを望まない。いざとなったら戦地に赴くつもりみたいだけど、今の彼は生活に便利な魔法器具を開発し、田舎の町で仲間や子どもたちと一緒に生活する日々に意味を見出している。
それは……歓迎されないことだったの?
私と出会わないままだった方が、彼の――ひいてはこの国のためになったの?
私が反撃しないと分かったからか、ゲルトラウデさんは数度肩で息をしたあとふんっと鼻を鳴らして、マントを翻した。
「……もしこの先、戦が起きたとして。死人が出たらそれは、あなたのせいなのよ」
「そっ……んなこと……」
「絶対ない、と言い切れないでしょう? ……これだから低魔力者は嫌なのよ。これからはせいぜい、身分相応の振る舞いをなさい。ヴィルと結婚できたからといって舞い上がるのではないことね」
ゲルトラウデさんは最後にそう言うと、足早に芝生広場から立ち去ってしまった。
彼女がいなくなっても……引き継ぎを終えたモーゼスさんが来るまで、私はその場から動けなかった。