27 結婚から始まった、もうひとつの恋
私は、よく嘘をつく。
仕事で上司に理不尽に叱られたとき。
同僚に「大丈夫?」って聞かれたら絶対に、「大丈夫」って答える。本当は、今すぐにでもあの窓ガラスを開けてアイキャンフライしたいくらいだったけれど。あと、上司の髪を毟ってやりたいって思ったけれど。
たかぴぃとかいう生物とご飯を食べに行ったとき。
「女の子はこういうのが好きだよね」とピンク色のカクテルを頼まれたら、「うん、ありがとう」と礼を言う。本当は、ガッツリ焼酎を飲みたかったけれど。
「ごめんねー、母親が危篤で」と言う同僚に仕事を押しつけられたとき。
笑顔で「気にしないでください」と言う。本当は、「ふざけんな貴様の母親は何度危篤になれば済むんだどうせ不倫デートだろ」とわめきたかったけれど。
本当は、本音じゃない行動を取るたびに胸が苦しくなっていた。たかぴぃ関連はともかく、仕事なら少々我慢はするものだろう。でも、周りからいい子に見られたいがために嘘をつくのは虚しいな、と思ってはいた。
とはいえ、「それって嘘でしょ?」と指摘されたことは一度もない。我ながら嘘がうまいのか、それとも誰も私に関心を持たなかったからか、それは分からない。
だから今回もまあ、うまく行くだろうなと思っていたんだけれど。
「冴香、何か悩み事でもあるの?」
夕食のあと。
子どもたちはお風呂を終えて勉強部屋に向かったので、同じく風呂上がりの私はリビングのソファにヴィルと並んで座り、飲み物片手にまったりとしたお喋りの時間を過ごしていた。
今日はお城に行ったね、陛下若かったね、ヴィルって陛下と学友だったんだね、と今日一日の出来事を挙げながらとりとめもない話をしていたら、藪から棒、真剣な眼差しでヴィルに尋ねられてしまった。
ルシルという、見た目と色はサクランボ、味はオレンジという果物のジュースを飲んでいた私は、思わず噎せそうになった。たわいもない話をしている最中に放り込まれたから、心の準備ができていなかった。
「んっ……え、えっと……そう見える?」
「見えるね。というか、今日城で何かあった? 一旦別れてから合流したときの君、笑顔が引きつっていたから」
……ああ、なんだ。ヴィルにはお見通しだったんだ。
私たちと同じく風呂上がりのため部屋着姿の彼はソファの上で体の向きを変え、私の方を向いてきた。ドライヤーは掛けているけれど洗髪したばかりだからかヴィルのふわふわの髪はいつもよりしっとりぺったりとしていて、雰囲気がちょっと異なって見える。
「もしかして、ツィラが何かした? 冴香に失礼のないように、とは言い聞かせていたんだけれど」
「ううん、あの子はよく気を利かせてくれたし、何も言うことはないよ」
ツィラ、というのは庭園散策する際に同行してくれた女の子魔術研究者の名前だ。「何かあれば呼んでくださいね」ということで名前を教えてもらったんだ。相変わらず発音は難しそうだけれど、まあそれはいいとして……。
ヴィルの真っ直ぐな眼差しを見ているのが辛く、私はごく自然に見える風を装ってテーブルの上のつまみを見やった。バイロンさんが夜食用に出してくれた今日のつまみは、小魚とナッツをからっと揚げたもの。夜寝る前だからということでカロリーは控えめにしてくれている。……あ、いい感じに焦げ目の付いたナッツ、発見。
ナッツに向かって伸ばそうとした手は――目標に到達することなく、脇から伸びてきたヴィルの手に掴まれてしまった。じゃあもう片方の手で――なんて食い意地の張ったことはせず、私は早々に観念して隣のヴィルを見る。
「どうしたの? ヴィルもナッツ食べたい?」
「食べたいけど、今はいいかな。……あのさ、冴香。あのあとの君の様子がおかしいから実はさっき君がお風呂に入っている間に、ツィラに連絡を取ったんだ。冴香に何かあったのか、って」
「えっ」
まさか、そこまで行動を起こしていたとは。
でもヴィルは私が何か言う前に首を横に振り、掴んだままだった私の手をそっと解放してくれた。ごく弱い力で握られていたので、痛くはなかったし腕に痣も残っていなかった。
「ツィラは何も言わなかったよ。……たぶん、君とそういう約束をしていたんじゃないかな? だから俺は君がなにやら悩んでいる様子なのは察しているけれど、どうして悩んでいるのかは知らない。ツィラを責めないであげてね」
「う、うん。分かった」
私は頷き、白旗を揚げることにした。
これ以上のらりくらりかわすのは難しそうだし、ツィラの名を出された時点で私の負けは決まっているようなものだ。
私はちょっとだけ汗ばむ手のひらを部屋着のスカートで拭い、数秒掛けて頭の中で話す内容を整理してから口を開いた。
「……実は庭園を散策しているときに、女の人に会ったの。名前はゲルなんとかさん」
「もしかしてゲルトラウデ?」
「よく分かったね」
「俺の顔見知りでゲルなんとかというのは彼女しかいない。……それで? ゲルトラウデが君に何か失礼なことでも言ったの?」
ほんの少し距離を詰め、語調も強くしてヴィルが重ねて問うてきた。
その眼差しは少しだけ厳しくて――それを見て、私はほっとした。
ヴィルは、ゲルトラウデさんの名前を聞いて、「君に何か失礼なことでも言ったの」かと問うてきた。
そのことで、ああ、この人はきっと私の話をちゃんと聞いてくれる、という確信を持てたんだ。彼は既に、私が悩んでいるのはゲルトラウデさんが原因だと分かっているんだろう。
「うん……というか、ううんというか……。あの、悪口を言われたってわけじゃないよ。ただあちらから挨拶をしてきたけれど、私はゲルタロードさんの名前が分からないから挨拶に手間取ってしまって、チラに教えてもらってなんとか切り抜けられたんだ」
「名前に関していろいろ突っこみたいところはあるけれど、今はまあいいや。それで、ゲルトラウデはその後どうしたの?」
「私を……こう、睨んできてすぐ去っていかれた。きっと私がヴィルの奥さんなのに礼儀に欠けているから、機嫌を損ねさせてしまったんだよ」
「いや、それは違うだろう」
ヴィルは眉をぎゅっと寄せ、ソファの背もたれに左肩を預け首を傾げた。
「あちらから挨拶をしてきたということは、ゲルトラウデは君が俺の奥さんだと分かって近づいてきたんだろう。ゲルトラウデは城仕えの魔術師だ。君がこの世界に来て間もないってことは知っているし、君がゲルトラウデの名前を知っているはずがないのも分かっているはずだ」
「……睨まれたのは、私が無礼だったからではないということ?」
不安になってきて、私は尋ねた。
本当は……「無礼だったから睨まれた」が正解であってほしかった。
なぜなら私には――ゲルトラウデさんが私を睨んだ理由が、なんとなく分かってしまっていたから。
彼女の眼差しは、どこかの巨乳子を彷彿させたから。
胸囲以外にも二人は似ている、と気づいてしまったから。
「ゲルトラウデは俺と同い年で元学友だけれど、今は一切交流がない。どうやら俺が研究部署に就職したのが気に入らなかったらしく、俺のことをずっと目の敵にしているんだ。彼女は女性でありながら前線戦闘部署に所属していて、実力も高い。ただ研究所への当たりが強いし、低魔力者をあからさまに嫌っている。だから低魔力者たちを集めて一緒に暮らしたり仕事をしたりしている俺のことも、当然嫌っているみたいなんだ。そんなゲルトラウデだから、俺が君と結婚したと聞いてちょっかいを出しに来たんだろう。昔からそういうところはあったし、君に非はないよ」
力強い口調で言い切られたら、私の胸の奥で芽生えていた不安も、ふっと消えていった。
ゲルトラウデさんはヴィルのことが嫌い……なの?
それにしては「ヴィル」と愛称で呼んでいたけれど……。
もしかしたら、ゲルトラウデさんはヴィルのことが好きなんじゃないか。だから私にちょっかいを掛けに来たんじゃないか。私の女の勘がそう言っていた。
でもヴィル本人はゲルトラウデさんに好かれているとはミジンコ一匹分も思っていないみたいだし、よけいなことは言わない方がよさそうだ。
大きく息を吸ったあと、すとんと肩を落とす。
そして、私はヴィルに笑みを向けた。
「……そっか。私、ヴィルの足を引っ張ってしまったのかと思ってひやひやしていたんだ」
「足を引っ張るって……。陛下も言っていただろう? 君は俺の足を引っ張るどころか、俺の生活を満たしてくれている。君は今日の謁見でも自然にかつ礼儀正しく振る舞ってくれたから陛下の反応も良かったし、研究所でも君のことを慎ましくて上品な奥方だ、と言われたんだ。夫婦で初めての仕事だったけれど、大成功だったと思うよ」
夫婦で初めての……そ、そっか。ヴィルは貴族ではないけど「シュタイン卿」って呼ばれるくらいの人だし、国王陛下に挨拶に行くというのは遊びではなくて仕事の一環になるんだよね。
ヴィルの妻として恥ずかしくない行動を取れた。
そう言われると一気に体の力が抜け、笑みもついついふにゃっとだらしないものになってしまう。
「……分かった。あの、変に意地張ってごめん」
「気にしないで。これも君の思いやりなんだろうし。……でも、君が心を痛めるのは俺も辛いから、これから何か気になることや心配なことがあれば、ちゃんと言ってね。俺に言いにくいことならマックスやフローラ、ツィラでもいいから、君の胸の奥だけで押し込めないでほしい。……それだけはいいかな?」
ヴィルのお願いは、「隠し事をするな」じゃない。
気になることや不安になることがあれば、自分の心を傷つける前に誰にでもいいから相談してくれ、というもの。
「……うん、分かった。ありがとう、ヴィル」
「……。……あのさ、冴香」
ふいに改まった様子で名を呼ばれたので、私はどきっとしつつ顔を上げた。
――これから、何かが起こる。
こういうときの女の勘ほど鋭く、そして憎らしいものはない。
ヴィルは双眸にほんの少しの熱を灯していた。
暗いところだとどこまでが瞳孔でどこから光彩なのか分からない私の漆黒の目と違い、ヴィルの目は瞳とブルーの光彩がはっきりしていて、じっと見つめていると、沖縄の海を思い出させるその色に吸い込まれてしまいそうな錯覚がする。
「……冴香は、俺の奥さんとして立派に振る舞ってくれるよね。でも、冴香だけ頑張って俺は手をこまねいて傍観するだけなんてフェアじゃない。……俺、冴香に俺のことを好きになってもらえるよう、頑張るよ。君が俺と結婚してよかったって思ってもらえるよう、頑張る」
だから、とヴィルは手を伸ばし、私の両手をそっと握った。
指と指を重ね、絡め、互いの手をしっかりと握り合う。
ヴィルだけが一方的に握っているんじゃなくて、私の方も握っているからこそ、「握り合」える。
「……今日陛下の前でも言ったけれど、無理に過去を思い出さなくていい。幼なじみだったってことも忘れたままでいい。俺の願いは叶った。あとは、俺にできる限りで君を幸せにするだけなんだ」
「……う、うん」
「好きだよ、冴香」
そうっと、大切な宝物を差し出すように。
何重にも何重にも布でくるんだ陶器をそっと受け渡すときのように慎重に丁寧に、ヴィルはその言葉を紡いだ。
彼から好意を示す言葉を贈られたのは――私の記憶のある限りでは、結婚して初めて私が目を覚ました朝が最初で最後だ。あのときのヴィルは私が記憶を保っていると思っていたから、「愛している」と熱烈に囁いてキスしようとしてきた。
でも、私に記憶がないと知ってから、ヴィルはそういった言葉を言うことがないし、キスだってしてこなかった。そして私の希望に合わせ、ゆっくりゆっくり一緒に歩いてくれている。
そんな彼が約二十日ぶりに差し出してきた好意の言葉を受け――ふわり、と胸の奥が温かくなり、熱いスープを無理して飲んだかのようにじわじわとその熱が内側から体中へ広がっていく。
最初の印象は、きれいな顔をした優しそうな男の人、だった。
いきなりキスされかけたときはさすがに黄金の右手を繰り出し変態扱いしてしまったけれど、この十数日で彼の優しさと思いやりに触れ、隣にいるときの居心地のよさを知り、手を握り合うことで幸福感を感じることを学んだ。
激しい愛情、とか燃えるような恋、とかそんなものじゃない。
むしろ、胸の奥でいつまでも燃えて優しく私を包み、心を温め、世界を美しいと感じさせてくれる存在。
この感情に、名前を付けたい。
そして名前を付けたこの感情を、ヴィルに見せたい。
きっとヴィルは、受け止めてくれる。
「……私、も」
思いきって口を開くと、「えっ」というヴィルのちょっと焦ったような声が聞こえてきた。
なんだ、私が前向きな反応をするとは思っていなかったのだろうか。
目線の先には、きょとんと目を見開いたヴィルの顔が。唇がほんの少し開いてきれいな前歯が控えめにコンニチハしている姿は、なんだか可愛らしいとさえ思われてくる。
「記憶はないけれど……でも、結婚から始まった恋として、あなたのことを好きになりたい。好きになっても……いい?」
「冴香……!」
ぎゅっ――と一瞬だけすごい力で手が握られたけれどすぐに気づいたようでヴィルは私の手をそっと離し、大きく腕を広げて私の体を抱き寄せてきた。
これまでみたいに腰を抱くとか肩を抱くとかじゃない。背中に腕を回して引き寄せるので、自然と私の両手は彼の胸元に添えられ、彼の首筋に額を押し当てる形になった。
ヴィルの匂いで胸がいっぱいになり、無性に泣きたくなってしまう。
おかしいな、別に悲しくはないのに。
「もちろん……もちろんだよ! 冴香……俺のことを好きになってくれるの? 本当にいいの?」
「わ、私の方が尋ねているのに、質問を質問で返すのはスマートじゃないと思う!」
「うん、それもそうだね。……ありがとう、冴香。俺も、君のことが好き……大好きだよ」
「記憶がなくても?」
「うん。君は昔も昔で可愛らしかったけれど、再会して結婚してから知った君もとっても素敵だね。……好きだよ、冴香。これからよろしくね」
今日謁見の間で食べたお菓子のようにとろりと甘い声で耳元で囁かれ、思わずびくっとしてしまった。
お返し、とばかりに「私も、よろしくね」と背中をちょっと伸ばして耳元で囁いてやると、ヴィルの体もびくっと震えた。
そんな様がおかしくて抱き合ったままくすくす笑い合ったあと、どちらからともなく自然に顔が近づいた。
「顔、真っ赤」
「……意地悪」
「冴香限定だけどね」
ふふっと笑う吐息が唇を湿らせる。
甘えるように互いの鼻先をすり合わせ、「目を閉じて」と熱っぽい声で囁かれて、抗えるはずがない。
……結婚式以来のキスは冷たくて、ちょっとだけ苦いお茶の味がした。
でもそれはきっと、お互いが相手に向ける感情の暖かさや甘さと反比例していると、私は信じている。
その日の夜。
冴香用の枕や寝間着セットを入れる籠などがなくなった部屋を見回し、フローラたちはにっと笑ったのだった。