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25 できることを、ひとつずつ

 陛下は寄り添う私たちを見て満足そうに頷くと、侍女が差し出した小さめのボウルで指先を洗い、お腹の上で両手を組んだ。


「いろいろあったようだが、仲よくしているようで何よりだ。……私も魔術師としてさまざまな研究を行っているのだが、奥方がヴィルフリートとの記憶を一切失っているということには今ひとつ要因が分からなくてな。……そもそも、君。二年前、当時の奥方に指輪を渡したとのことだが、それが原因なのではないか?」

「それは俺も考えました。しかし俺が冴香に贈った指輪にはあくまでも、『冴香を守ること』という願いを込めたにすぎません。他にも付加魔術はかなり掛けたのですが、記憶を失うような効果はないはずです」


 ヴィルが少しだけ怪訝そうな顔で言った。


 二年前――私たちが共に十八歳だったということだから、地球時間だと六年前――ヴィルは大学進学のために遠くへ行く私に指輪を贈った。彼は私に触れることができなかったけれど、この指輪だけは不思議と私たちを隔てる壁を越え、私の指に収まることができたらしい。

 ヴィルは当時の彼にできる限りの魔力を込め、「冴香を守る」効果を付けたという。たぶん、巨乳子ともみ合ってプラットホームに落ち、電車に轢かれた私を守るため、指輪の魔力が発動して私の魂をこっちの世界に引っ張り込んだんだろう。


 でも……それと記憶を失っていることは関係があるんだろうか? 「どのタイミングまで、ヴィルとの思い出を覚えていましたか?」なんて聞かれても返答に困るけれど、少なくとも轢死してこっちの世界に渡った瞬間に忘れた、ということはないはずだ。

 となると、私がヴィルとの時間を忘れたのはもっと前のことか……うーん。


 陛下は悩む私と黙って視線を床に落としているヴィルをしばし黙って見守っていたけれど、やがてぽんっと自分の膝を叩いた。


「もしシュタイン卿夫妻が望むなら、私たちにもできることをしよう。あまり表沙汰にはされていないのだが、人間の記憶に関する魔術も存在する」

「しかし陛下、それは門外不出の方法では――」


 珍しく、ヴィルがちょっと焦った様子で陛下に進言した。

 でも陛下は手を横に振り、侍女から受け取った茶で口内を潤してから口を開く。


「これくらい、どうってことない。……シュタイン卿夫人、あなたが来てからヴィルフリートは変わった。もちろん、よい方向にな」


 陛下はヴィルから私へと視線を動かし、カップでヴィルの方を示しながら続ける。


「ヴィルフリートは我がフローシュ王国の発展に欠かすことのできない人材だ。彼は自分の持てる力を国の発展に寄与したいと言ってくれた。私は彼の意思を尊重しているつもりだ――が、あなたと結婚するまではいろいろな意味で危なっかしいところが見られてな。それが新婚休暇が明けて初出勤したときには、別人かと見まごうほどの晴れ晴れとした表情をしていた」

「そう、なのですか?」


 陛下の言葉を疑っているわけではないのに思わず問い返してしまったけれど、陛下は嫌な顔一つせずゆっくり頷いた。


「奥方に記憶がないと聞いて少々ひやひやしたのだが……今日の様子を見る限り、大丈夫だろう。だが、もし夫人が自分の失った記憶を取り戻したいと思うのなら……我々は協力を惜しまない。いつもシュタイン卿には世話になっているし、彼は私の学友だ。たまには私にできることをさせてほしいのだよ」


 いくら年若いとはいえ、一国の王様にこれだけのことを言わせるなんて、ヴィルは――ヴィルの存在は、それだけ大きいんだ。








 私が目線だけヴィルに向けると、彼はちゃんと私の方を見、ブルーの目を優しく緩ませて頷いた。


「……俺も、たまには陛下の言葉に甘えてもよいかと考えている。でも、決めるのは君だ。君がこのままでもいいというのならそれでいい。……まあ、それに」

「うん」

「俺も……無理して記憶を取り戻さなくてもいいと思っている。なんというか……」


 そこでヴィルは一旦口を閉ざし、なぜか言葉を続けることなくお茶を飲み始めてしまった。


 なんでこのタイミングでお茶休憩……と思ったのもつかの間。

 私からちょっと顔を背けているけれど、ふわっとした茶色の髪の隙間から見える耳とその周辺の肌が、赤く染まっているじゃないか。

 つまり……照れている?


「……その、なんだろう。俺は、こうして君との仲を少しずつ構築していく日々も――悪くないと思っている」

「え……ぅ?」

「その、だからね……俺、こうして君の隣に座ったり、一緒に食事をしたり、手を繋いだり、お喋りをしたり……そういう小さな出来事を積み重ねながら君と仲よくなっていく今に、結構満足しているんだ」

「ほー……マクシミリアンからは、奥方が目覚めるまでは同じ寝台で抱き合って眠ったくらい激しい愛情を注いでいたと聞いているのだが。少しずつ仲よくなる、で本当に我慢できるのか?」

「なっ……! 冴香の前で下世話なことを言わないでください! 俺にだって分別はあります!」


 ニヤニヤしながらちょっとなアレことをぶちこんできた陛下をじろっと横目で見やるとヴィルは一つ咳払いし、膝の上で重ねていた私の手の甲に遠慮がちに触れてきた。

 さっきは結構スマートな仕草で腰を抱いてきたのに、今の彼の手はちょっと震えているみたいだし、汗のせいか少しひんやりしている。


「俺は、冴香が嫌がることは絶対にしないと誓っている。だから……安心して、冴香。少しずつでいいから。四年前はどうやっても触れられなかった温もりに、こうして今は何の隔たりもなく触れることができるのだから……これ以上の我が儘なんて言えないよ」


 私は弾かれたように、自分の手元を見やる。

 重ねられた、二人分の手。ヴィルの手は骨張っていて大きく、私の手は肉付きがよくてヴィルのそれよりずっと小さい。


 この手を重ねることを、ヴィルはどれほど願っていたのだろうか。


 私は顔を上げた。そこには、頬をほんのりと赤らめつつも真剣な眼差しでこっちを見つめるヴィルの顔があった。


 ……私が失っている、ヴィルと桜の木の下で過ごした思い出。

 思い出せるなら思い出したいと思っているけれど……。


「……あのね、ヴィル。私も同じ」


 柔く重ねられたままだった二人の手。

 私は自分の手をすっと引き抜いて彼の手の甲の上に重ね直し、少し力を込めて握った。


「無理して記憶を取り戻さなくてもいいかな、って思っているんだ。私も、こうしていろいろなことをヴィルと一緒に経験して、ヴィルにいろいろなことを教えてもらって、毎日少しずつ前進していくのが……楽しいと思っているから」


 さっきヴィルは、思っていることを吐露してくれた。

 だったら、今度は私の番だ。ヴィルは告白したのに私はなあなあで済ませるなんて、フェアじゃないもんね。


 ぎゅっと握った手は、やっぱり私の手よりずっと大きくてごつい。ヴィルは屋敷の男の人たちと比べると華奢な方だと思うけれど、手を握ると彼が成人した男の人だってことを否応にでも実感させられた。


 ヴィルの瞳が軽く見開かれる。宝石のようにきれいなブルーの湖面が一瞬だけ揺らいだように感じられたけれど、すぐに幸せそうに細められた。


「……そっか。ありがとう、冴香。俺たちにできることを、ちょっとずつ重ねていこうね」

「うん……その、待たせることになってしまって、ごめん」

「何を言うんだ。冴香から今の言葉を聞けただけで俺は十分だよ。……ということで、陛下。ありがたいお言葉だけれど、今しばらく夫婦で考える時間を持ちたいと思っております」


 あ、そうだ。ここは国王陛下の御前だった。

 陛下だけじゃなくて侍女たちの目もある中で二人だけの空間を作ってしまったことが申し訳なく、私はぱっと手を離そうとした――けれど、驚くべき速さで伸びてきたヴィルの手が私の手を掴み、そのまま自分の方に引き寄せてきた。当然、私の体はぐらりと傾き、彼の胸に中にすっぽり収まってしまう。


 ……優しい匂い。

 ヴィルの匂い。


「……もうちょっと、このままで。陛下、そういうことでよろしいですか」

「あー、はいはい。もちろんだとも、まったく」


 陛下はははは、と快活に笑い、少し崩した姿勢の状態で手にした棒――たぶん、ピック代わりなんだろうけれど菜箸レベルに柄が長い――を皿の上のマカロンもどきに刺した。


「シュタイン卿夫妻がそう言うのなら、私から言うことはない。ゆっくり考え、夫婦で語らうとよい。……まったく、私も早く嫁がほしい」

「見合い書ならいくらでも来ているのでは」

「それがね、なかなか王妃に迎えたい者が現れなくて……もしマクシミリアンがサクラの木とやらをヴィルフリートの部屋ではなく私のところに持ってきてくれていたのなら、夫人と結婚したのは私だったかもしれないなぁ」

「よからぬことをほざく舌を引っこ抜かれたいのですか、陛下」

「冗談だ。だからそんな顔をするな。それとまだ殺さないでくれ。あと五十年は生きたい」


 ヴィルに抱き寄せられている私には見えなかったけれど、ヴィルはおそらくすごく凶悪な顔をして陛下を脅したんだろう。

 これまで余裕の態度を崩さなかった陛下が初めて焦ったようにマカロン付きの棒を振っているけれど――ヴィルって、王様にこういう態度を取ってもいい人間なんだ……そして私はそんなヴィルの奥さんなんだ……うわぁ。

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