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1  午後九時の修羅場

 時刻は、夜の九時。

 私、寺井冴香てらいさえかは重い仕事用バッグを肩から提げ、駅への道を急いでいた。


 次の電車まで、あと十分。

 それに間に合えば、十時までには家に帰れるはずだ。


 駅に滑り込むと、ちょうど別方面からの電車が到着したようで改札口はどっと人で溢れていた。出る者優先だから、彼らの邪魔にならないよう券売機の脇まで移動し、バッグから定期入れとスマートフォンを取り出す。


 オレンジと緑色のストライプ模様の定期を上着のポケットに入れ、スマートフォンの機内モードを解除する。同時に、ぽんっと音を立てて無料通話アプリのメッセージが出てきた。


『そろそろ仕事終わった?』


 画面に浮かんできたのは、短い一文。

 ああ、そういえば今日、会社の飲み会があるからうちには寄れそうにない、って言ってたっけ。

 ずっと前から、今日は私の家に泊まってくれることになっていたんだけど。


 彼と付き合うようになって、初めてのお泊まり。

 ドキドキしながら今日を楽しみに待っていたけれど、会社の上司や取引先も参加するっていう大事な飲み会らしいから、欠席できないんだって。

 仕事なら、仕方ない。


『うん、もうすぐ家に帰る。疲れた』

孝夫たかおも、接待飲み会頑張ってね』


 メッセージを打つとすぐに、「がんばるー!」と書かれたプラカードを持つウサギのスタンプが返ってきた。


 人もはけたようなので、改札を通ってプラットホームに向かう。


 孝夫はいわゆる営業マンで、上司からも可愛がられている将来有望株らしい。

 そんな彼と平凡な私がどうして知り合い、付き合うようになったかというと、共通の友人がいたからだ。


 大学時代の友人は、「こいつ孝夫って言うんだけど、冴香ちゃんみたいな料理が得意なしっかり者がタイプらしいぜぇ」と孝夫を紹介してきたんだ。そのときの孝夫は恥ずかしそうにしていたけれど、私を見たら優しく微笑んでくれた。


 恋に落ちるまで、三秒。

 我ながらチョロい女だとは思うけれどそれだけ孝夫は魅力的だし、孝夫も私の手料理を食べて「君のような人を探していたんだよ」と言ってくれた。

 料理にはちょっとだけ自信があったから、そこを褒めてもらえて嬉しい。


 今日のおうちデートでは孝夫の好きなものをたくさん作ってあげようと思っていたんだけど、次はいつになるんだろうか。私も毎日十時帰宅とかだけど、朝は遅めでもいいからまだまし。孝夫はもっと忙しいみたいで、デートのドタキャンも何度もあった。


 それでも、「次には絶対埋め合わせをするから」の約束を破ったことはない。

 だから私は孝夫を信頼していた。


 ……していた、のだけれど。


 今、仕事の接待飲み会に出ているはずの孝夫。

 どうしてプラットホームで、見知らぬ女とイチャイチャしているんですかねぇ?









 階段を下りると、そこは修羅場でした。


「孝夫」


 ああ、我ながらドスの利いた声が出たな。

 プラットホームにはそこそこ人がいたけれど、彼らは私から放たれる無言のオーラに敏感に気づいたようで、瞬く間に姿を消していた。うん、賢い判断だと思う。


 名を呼ばれた孝夫は怪訝そうに振り返り――そして、わざとドスドス足音を鳴らせながら歩いてくる私を見、あからさまに怯えた顔になった。

 ……なんだよ、その顔。


「何、やってんの」


 今、飲み会じゃないの?

「がんばるー!」ってスタンプを返したの、ほんの一分前だよね?


 背広姿の孝夫は目を限界まで見開いていたけれど、彼の腕にしなだれかかっていた女の子がけだるげな感じで振り返った。あ、かなりの美人。そして巨乳。


「たかぴぃ……この人、だれー?」

「いや、その……」


 巨乳子に甘ったるい声で尋ねられた孝夫はしどろもどろだ。

 というか……たかぴぃ……たかぴぃって、何!? 新手のゆるキャラ!?


「こっちこそ聞きたいね。孝夫、今日は接待飲み会でしょ?」

「あ、ああ」

「一分前に返信くれたでしょ?」

「う、うん」

「……なんでここで、女の子とイチャイチャしてんの?」


 おい、黙るな孝夫。これからあんたのことをたかぴぃって呼ぶぞ。あんたの会社に、「吉原たかぴぃ様はいらっしゃいますか」って電話を掛けてやるぞ。


 冷や汗だらだらで足もガクガクの孝夫。百年の恋も冷めるような体たらくだ。

 でも、孝夫よりも巨乳子の方が強気だった。彼女はばっちりメイクの顔をしかめ、私を指先してきた。こら、人を指さしちゃいけませんって教わらなかったの?


「なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないのー? あんた、たかぴぃの何?」

「彼女ですが」

「ぶっは、妄想ババアマジウケル」


 ……妄想ババアって、私のこと?

 私、まだ二十四歳ですけど?

 あんたの隣のたかぴぃより四つも年下ですけど?


 巨乳子はげらげら笑ったあと、ふっと真面目な顔になって孝夫の腕を胸の谷間に挟み込んだ。おいこら孝夫、こんなシーンで鼻の下伸ばしてんじゃないぞ。その鼻へし折られたいのか。


「かっわいそー。あんたがたかぴぃの言っていた、家政婦ババアね! いつもいつもおいしいご飯ご苦労様! あんたのおかげであたし、たかぴぃ自慢の料理上手の彼女って大人気なのよぉ」

「……ほぅ」


 人間、感情が限界突破すると無になるんだな。

 悲しいとか、腹立たしいとか、そんな感情、全て夜空に吸い込まれていってしまった。


 ……つまり。


「孝夫、あんた浮気――いや、二股してたのね」

「そ、そうじゃない! おまえとは遊びだったんだ!」

「あ?」

「あっ」


 しまった、と言いたそうな顔をされても遅い。

 普通なら、「こいつとは遊びだったんだ」なんだろうけれど、ついつい本音が出たんだろうね。


 既に無の境地に達していた私の孝夫に対する愛情度が、ゴリゴリと削られていった。


「あはははは! たかぴぃったら正直者ぉ! そうだよね! こんな色気も乳もないババアよりあたしの方がいいに決まってるもんね!」

「私がババアなら孝夫はジジイだけど、あなたジジイ趣味だったのね」

「……は?」


 あ、私も本音を言ってしまった。ごっめーん!

 とたん、巨乳子はアイメイクばっちりの目尻をつり上げ、孝夫の腕を離れて私に歩み寄ってきた。そういえばこの子、なんていう名前で何歳なんだろう。ひょっとしたら高卒の十代かもしれない。


「あんた、誰にものを言っているつもり?」

「言われた分を返しただけですが」


 巨乳子は私の前方五メートルほどのところで立ち往生しているけれど、こんな往来のある場所で喧嘩はしたくない。そもそも、もう孝夫に対する愛情はきれいさっぱりなくなっている。あれほど好きだったのに、私は熱しやすく冷めやすい女だったのかもしれないな。


 構内アナウンスが流れる。もうすぐ私の乗る予定の電車が来るみたいだ。

 私はバッグを抱え直し、二人にひらひらと手を振ってみせた。


「……お二人でイチャイチャしたいなら、ご自由に。孝夫、今までありがとう。若い子とどうぞ末永く仲よくね」

「お、おい、冴香――」

「はぁ!? ちょっと待ちなさいよ、この貧乳!」


 まごまごする孝夫とは対照的に、巨乳子はやっぱり行動的だった。

 ネイルばっちりの手を伸ばされたから、ひらっと身をかわす。それでも執拗に追いかけてくるから、振り返ろうとして――


 すかっと、左足が空を踏んだ。


「え?」


 体ががくっと仰向けになり、巨乳子の驚いたような顔が瞬時に視界から消え去る。

 すぐに私はお尻をしたたかにぶつけ、あんまり女性らしくない悲鳴を上げてしまった。何このごつごつした硬いもの! すごく痛いんだけど!


「いったぁ……」

「ちょっと、あんた!」


 巨乳子が悲鳴を上げている。

 そして近づく、警笛の音。


 私は目を開いた。

 音のする方を振り返ると、轟音をたてて近づく鉄の塊が。

 真っ白なライトがきらめいていて、鋭い警笛が耳をつんざく。


 ああ。


 私、死ぬのかな。


 ……まだ、死にたくないのに。

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