序章
長澤涼香は焦っていた。
「ああ……またダメだった」
苦い表情を浮かべながらこそこそと下を向いて大通りを通り抜けようとする。
身に纏っているリクルートスーツは、まだ4月だというのにずいぶんと使い込まれたように彼女に馴染んでいた。
日にあたるときらめく柔らかな地毛の茶髪のまとめ髪に比べて、その雰囲気はずいぶんと暗い。
彼女――長澤涼香は第二新卒の就活生である。
先程もとある中小企業の面接をして、上手く喋ることが出来ず面接官に苦笑されながら就職活動のアドバイスまで受けてしまったところだ。無論、この企業は落ちてしまうだろう。選考結果を待たなくてもわかる。
もうどこでもいいから就職したかった。同期の仲が良かった友人は皆それぞれ早々に内定を貰っていて、今頃新人研修を受けているのだろう。それに比べて涼香は未だに内定がゼロだった。何が悪いのか、自分ではよく分からなかったくらい上手くいったと思える面接もあったのに、届くのはお祈りのメッセージばかりであった。手当たり次第に受けていたわけでもない。彼女には事務職がしたいという確固たる信念があった。しかし彼女は詰めが甘かった。自己分析もいまだにあやふやで、事務をしたいのも何となく営業や理系の仕事が合わない根っからの文系脳だからという理由でしかなかった。すこしでも口が達者なら拾ってもらえたかもしれないが、そんなに口が回るほど器用ではなかった。つまり、企業にとって魅力がなかったのである。
売り手市場なんて嘘だ、と涼香は眉を寄せた。
とにかく次の面接にこぎつけないと……などと考えながら信号を渡り切った矢先、
「ん?」
足元の感触がアスファルトでないことに気付いた。なにか、落葉のような――。
普段はそんなもの気にせず歩いていた。だが目に飛び込んだのだ、自身の足で踏みつけているA4サイズのコピー用紙が。
それは、不可解な体験だった。落ち込んでずっと下方を向いて歩いていたのだから、その紙を見つけて回避することが彼女には出来るはずだった。
だが、その紙は「足を踏み込んだ瞬間」に現れたのである。まるで最初からそこにあったかのように。
気味は悪かったが、なんとなく気になってその紙を手に取る。手書きを印刷したのであろう文字を目に映した瞬間、涼香の表情は華やぎ、思わず大きな声を出してしまった。
「嘘っ、事務員募集!? 月給24万円!?」
行き交う人々の訝し気な視線に気づき、はっとして口元を手で覆う。そして、通行の邪魔にならない場所まで移動してからそのチラシを読み込んだ。
「『屋代探偵社、事務員募集。月給24万円から。経験不問。昇給、ボーナスあり。週休二日制』……」
なんて魅力的な募集だろう。
正直今すぐ行きたい、と涼香は思った。しかも住所は今いる大通りのものである。もうそのチラシの怪しさなどどうでもよかった。それほどに彼女は切羽詰まっていたのである。
せっかくこの通りに会社が存在しているのなら、帰らずそのまま行ってみたかった。帰ってアポイントを取って新しい履歴書を書いて……などしていたら誰かに先を越されるかもしれない。涼香の中にまた別の焦りが生まれた。しかしその焦りには、どこか浮足立つような明るい気持ちがあった。
「……あ」
涼香は親指で隠れていた小さな文字を見つけた。『飛び込み見学・面接大歓迎』の文字だった。
行くしかないと思った。
意を決したように顔を上げると少しだけ通りに出て、その探偵社が存在しているであろう雑居ビルの看板を探す。『交差ビル』という不思議な名前の雑居ビルは、彼女が立ち止まっていた曲がり角のビルから二軒先にあった。4階建てと思われる小さなビルだ。大通りといえど、大都会に比べれば田舎なこの都市では珍しくもない古いビルだった。
とりあえず、ビルの前まで行ってみる。
外壁はツタ植物が支配している部分も見られ、再開発の進むこの大通りには似合わない禍々しい雰囲気の漂う、薄汚れたビルだった。
少し足を踏み入れることがためらわれたが、それ以上に涼香の心は就職活動への危機感とこの非日常的な体験に惹かれていた。
キィ、とかすれた音の鳴るガラス扉を押して、涼香はビルに足を踏み入れる。
目指すは4階、ビルの最上階にあるオフィスだ。
息を切らしつつ階段を上り終えた先には、比較的小綺麗な如何にも事務所といったドアがあった。
マニュアル通りノックを3回、どうぞの声。
ドアを開け、中に入る。
そしてこの日を境に、彼女の人生は一変するのだった。
<続く>