雨待ち宿 或いは 晴れ待ち宿
「今から僕と旅行に行かない?」
僕の言葉に、じっと、その子は――岬曜子は、僕のことを黒い瞳で見つめた。それはそこに冗句の色が混じっているのか、その真意を探るように空白の時間だった。猫目がこちらを見透かすように、細められると、
「いいよ」とだけ返した。
僕たちは手を繋いだ。小さくてしなやかな手だった。何物にも触れていないようなその手は日に焼けていた。少し汗ばんだ二人の手は優しく、だけれどしっかりと握られた。
「これからどこに行こうか」歩き出しながら、僕が言うと、
「女の子にそういうこと訊くのはダメな男子なんだよ?」と僕に続いて歩きだしながら、非難の言葉を言って、僕を見上げた。ふと目が合って、少し僕の顔を見つめると小首をかしげて、不思議そうにした。
「なに?」我慢できなかったのか曜子は言った。
「ううん。何でもない」
「変なの」
「変なのはいつもなんだろ?」と僕が訊くと、
「いつもよりも変。なんか何もないのにニコニコされると、気味が悪い」
そうか僕は笑っているのか。確かに気味が悪いし、気持ちも悪い。だけれどそういう曜子も、機嫌が良いのが表情とその足取りとで感じられて、握る手に少しだけ力が入った。
「海の見える家に住みたいな」
僕が言うと、
「いいね」
と返された。
僕たちは歩いていく。生命は消滅に向かうが、僕たちは選んで破滅に向かう。
それはそう遠くないだろう。だから、二人は手を繋ぐ。その意味を、曜子はわかっているのだろうか。僕たちは一緒に歩きだした。初めて何かを自分で選んだというように。
電車に乗ってとりあえず日本海を目指した。金の心配はなかった。ずっと使わずにいた貯金があった。大学を出て新卒で入社して五年働いた。つまらない仕事だった。デスクワークがほとんどで、僕には何の権限もない。頭を下げることそれだけが仕事のような職場だった。日に日に頭を下げることに何も感じなくなったが、日常でも何も感じないようになっていることにふと気づいた。その代償は貯金通帳に溜まっていた。はした金だ。だけれどそれが自分のやってきたことの証明であり、これからの命綱なのだから、惨めだ。
誰もいない電車の中、ガタゴトと揺れる。ゆりかごのような牧歌がそこにあって、寝息も聞こえないほどの小さな息遣いで、曜子は僕にもたれかかり、寝入っている。その体重はとても軽く。疲れているのだろうな。と思った。そっとタンクトップから伸びる焼けた細い腕に触れる。汗ばんでもなくだけれど少ししっとりとしている。優しくその腕を撫でると、鎖骨辺りまで伸びた黒髪に触れ、起こさないように頭を撫でた。少し身じろぎをしたが、そのまま静かに眠っていた。曜子は確かにここにいた。
これは正しくはないのだろう。そんなことはわかっていた。わかっているがどうしようもなかった。
しんとしていた。心が凪いでいた。
ゆっくりと、ゆっくりと思考を落としていく。景色から色がひとつずつ消えていく。赤、青、緑。あとは輪郭だけ、真っ白な景色に輪郭が浮かぶ。落書きみたいな。
意識は、意識は、
「ねえ、ねえ」
控えめな力で、肩をゆすられて、僕は目を開けた。
「降りなくていいの?」
そう不安そうに、曜子が言ったのに、慌ててあたりを見回す。乗客のいない電車は停まっていて、駅のホームの柱にある駅名を見て、飛び起きて、二人で電車から出た。
「ごめん。寝てた?」と僕が訊くと、
曜子は呆れたように、
「寝てた」
それから、
「なんか、かわいかった」と続けた。
僕は身の置き所がない気持ちになり、どういっていいか分からずに「そういうのはよくないよ」と言った。
曜子は不思議そうな顔をした。僕だって自分の言っている意味は分からなかったので、当たり前の反応だった。
気を取り直して、電車が去った誰もいない駅のホームを見回す。
「誰もいないね」と曜子は不安そうに言った。気づけば曜子は街を発ってからずっと、少し不安そうにしている。無理もない。僕も不安だった。だけれどそれではいけない。
「ちょうどいいじゃないか」というと、
「さ、行こう」と当てもないのに曜子の手を取って歩き出した。
田舎に来たというつもりでいたが、屋根の低い家が多く並んではいるが、家々の間隔はそうでもないようで、どことなく祖父母の家のことを思い出した。曜子は都会の子なので、こういう景色が珍しいのか、先ほどよりも元気を取り戻していた。
「うみ、どこかな」と曜子が言った。
「どこだろうな。携帯置いてきたからな」
位置情報などを危惧し、携帯は捨ててきた。先ほど、駅で地図を確かめたところ、そう遠くないところに、海はあるはずだった。だけれど土地勘がないため、歩いていても不安が残る。本当にこちらで正しいのかという迷いがあるため、とても慎重になってしまう。駅前にバス停があったが、日曜で極端にバスの行き来が少ない時間帯のようで、次のバスまで、二時間とあり、歩いた方が早いのではないかと歩いているが、大人しくバスを待っていた方が利口だったかもしれないと今更になり後悔している。
ただ、歩いている曜子は機嫌が良かった。
「大丈夫疲れない? 足とか痛くない?」
「平気」とだけ言うと、僕よりも小さな歩幅で前へと進む。強がりではなさそうではあったが、その真摯な姿に胸が痛んだ。とりあえず次のバス停まで歩こうと思った。
東屋。朽ち果てたお粗末なあばら屋。いつ掛けたのかも分からない広告看板が雨のしずくのままの錆びを浮かべ、すべてが朽ちていた。その姿はこの町に不似合いだった。何かの観点からか毀されないまま残ったのだろうが、町並みから浮いていた。
ベンチに腰かけた。ハンカチでも曳いてやれれば良いのだが、そんなものは持っていなかったので、彼女が据わる場所を、気持ちの問題であるが手で払った。
時刻表を見たら、三十分後とあった。それに乗れば海に行けるようだった。
さすがに疲れたのか、やっと座れたことに、曜子は安堵の息をついた。
飲み物を買おうと、あばら家の横にあった自動販売機へと向かった。衛生面が気にかかる容姿であったが背に腹は代えられなかった。遠い昔に都会では姿を消したジュースのパッケージがあり、驚きと懐かしさと共に、より不安は増した。
一番に安全そうなオレンジジュースとお茶を買い、一応と賞味期限を確かめた。二年後とあり、安堵を得た。
ベンチに座る曜子にオレンジジュースを渡し、隣に腰かけた。
曜子は救いでも得たように、オレンジジュースで喉を潤した。
蝉の声がしていた。それでも静かな風が吹いて、暑さの中の心地よさを感じた。
煙草はもう長いこと前にやめていたが、こういう時はふとあの動作と苦みが恋しくなる。横を見ると、曜子がポケットから、くしゃくしゃになった煙草のソフトパッケージを取り出し、ジリっと百円ライターのスリントをこすると、一口煙を吸い込み、煙草に火をつけた。
煙草の匂いが僕に届く。曜子は親指と人差し指でフィルターをつまんで持つと、火種を上にして煙を空に返していく。
彼女は煙草を吸うが煙草を吸わない。肺に入れないで一口煙を口に含み火をつけ、煙を吐き出し、いつもこうやって煙を空に昇らせ、その様子をずっと見ている。どうしたのかと聞いたことがあった。さすがに小学生が煙草を取り出して火を付けたら、そう聞かずにはいられなかった。曜子は、
「これは祈りなの」と答えた。
煙草の煙に祈りをのせて空に返していると言った。僕は別に彼女が煙草を吸っていようが自由だと思うのでそれを咎めたことはない。
祈りの時間が終わり、曜子は、携帯灰皿に煙草を捨て、すべてを仕舞った。
「何を祈ったの?」僕がそう尋ねると、
「ん? いつもと同じ」
「そう」
そう言ってあばら屋の屋根を見上げた。色濃い木が組まれている。何もない場所などないのだろうか、いつだって僕たちは何かに囲まれている。物質。きっと盲目の人も、何かに囲まれている。何か得体のしれないもの。恐怖。恐怖というものは物質をもって、質量をもっているのだろうか、質量のないものにこれほどまでにとらわれて、いるのであれば、人間はどれほどに弱い物なのだろうか。
数字に安心している。これほどのものだと言われれば安心できる。だけれど、恐怖や不安は数字にならない。その数字がどれほど正しいのかも、確証はない。
「バスあとどれくらい?」
曜子が訊いた。
時計を見ると、あと十分とあるが、
「あと少しくらいかな」
「早く来ないかな」
空になった缶をもてあそびながら曜子は言った。
不安だ。この旅を始めた時に喜びの方が勝ると思っていたが、結局はあそこにいた時とは違う種類の不安や恐怖にすり替わっただけで、本質は何も変わらない。
空は、青すぎるほどに青い。
僕は音楽プレイヤーを取り出して、
「聴く?」と尋ねた。
「うん」と言ったので、曜子にそれを渡した。
いつだって曜子は悲しい曲ばかりを聴いた。とりわけ彼女はそれを悲しい曲だとは思っていなくて、心地が良いから聴いているだけで、それが僕を悲しくさせた。
バスが来た。時間通りだった。
バスに乗り込むと、老父と老婆が、まばらに乗っているだけで、若者の姿はなかった。曜子は喜び勇んで、一番後ろに座り僕に笑いかけた。僕は苦笑いでその横に腰かけた。一番後ろに行くまでの間に何者か探るような嫌疑の目を向けられている気がして肝が冷えた。
ニュースを見ていないが、曜子がいなくなったこと、そして同時に居なくなった僕のことがニュースで流れているのではないかという、恐れが背骨を這った。
バスに揺られていた。特に何も話さなかったが、曜子は僕に寄りかかってきて、僕は曜子の手を取った。そうすると曜子は安心したように目を閉じた。彼女は今何を考えているのだろうか。
十五分ほどバスに揺られた。いかにも名前だったので、バスを降りることにした。その間バスを降りる者はいなかった。老人だけを乗せたバスが走り去ると、曜子は細い体を弓なりにして伸びをした。
「もう海?」と曜子は伸びに震える声で訊いた。
「たぶんこのあたりなんだけど……」確証はなかった。
地図があったので、現在地を確認する。
「こっちに行けばもうすぐみたい」と僕が言うと、
「行こう」と曜子は僕の手を取った。
僕たちは歩き出した。
地図の通りに進むと、嗅ぎ慣れない磯の香りがしてきた。
曜子が「臭いね」と言ったので、「うん」と言った。
坂になっている先に小さなトンネルがあり、その先に砂浜が見えた。
「うみだ!」と言って、曜子が手を放し、駆けていく。僕のことは見ていない。
トンネルのあたりまで行くと、振り返り、「早く!」と言った。
僕は少し速足でそちらに向かう。曜子に追いつくと、トンネルを抜けた。
「うみだ!」
と曜子はもう一度言って砂浜を海の方へと駆けた。
ここに来てやっと波の音が聞こえた。
夏であったが、浜辺には、人の姿はなかった。代わりに打ち捨てられたような漁船やボートが置かれていて、そこから磯の匂いが凝縮した濃い臭いがしていた。
「人いないね」と浜辺を見回して曜子は言った。
「たぶんここは遊泳とかの海じゃないのかな? 漁船とか漁師が使ってるのかな」
曜子は、ふーん、というと砂の感触を確かめるように靴で砂浜にとっとっと靴先を突き立てた。
とりあえず、海に来たので、波の方へと近づいた。
白色と灰色の砂の境目で、波がこちらに迫ってきて、ギリギリのところで波が引いていくのを見ていた。海は思いのほか澄んでいて、僕が昔行った由比ヶ浜のように、緑色をしていなかった。
綺麗な海だ。
「あっち行こう」と曜子が指した。岩場だった。
あんなところ行けるのかと思ったが、とりあえず見るだけ見るかとそちらに二人で向かった。
階段があり、どうにもそちらに行けるようというのが近づき分かり、岩場を上った。
岩場と言ってもたいそうなものではなく、上ってみるとこんなものかと思わずにはいられなかった。だけれど、岩場からはどこまでも続く海がよく見えた。
「広いね」と曜子はため息のように言った。
岩場の縁から波間に降りることが出来たので波に近づき、裾が濡れないように腕まくりしてから、海に触れた。冷たかった。横に曜子も来てシャバシャバと音を立てる波に指を入れ、ゆっくりと手首まで沈めた。曜子の手は歪んで見えた。「冷たいけど、気持ちいい」と曜子ははしゃいだ。
「泳ぐ?」
「ううん。いい」とそっけなく言った。
それになんだか拍子抜けしたが、水着もないし、水着が売っているところも分からないし、女の子と一緒に水着を買うというのも落ち着かないので、まあ、良しとした。
「おなかすいたね。何か食べようか」
曜子は立ち上がり、濡れた手を振って、水を飛ばすと残りを服で拭いた。
「うん」
適当に街のほうに歩いたら、ファミリーレストランがあったので、そこに入った。
中はがら空きで、奥の隅の席に二人で座った。
時刻は四時で、夕食と言った方が正しかった。朝に街を出て電車を乗り継ぎここに来たが、それまで食べたものは朝に駅で食べたおにぎりだけだった。曜子も同じで、ご飯を食べるというと急に空腹感を思い出したようだった。
がっり食べたいと思った。ステーキがあったので、それと白米。あとコーンスープとサラダを頼んだ。曜子もおなかが空いていた様で、ハンバーグとライス、それとサラダを頼んだ。ドリンクバーで、コーラとジンジャーエールを注いで戻ると、曜子は、トイレに行っているようで席にはいなかった。
僕は席に座り、店内を見回した。どこでも雰囲気は変わらない。嫌味のしない匂いにオレンジがかる照明、薄くクラシックの音楽がかかり、カチャカチャと食器が音を立てる。日常という気がして何故か安心した。
曜子がトコトコと、席に戻ってきたので、「コーラ」というと、「ありがとう」と返ってきた。
料理が届き、二人で黙々と食べた。会話らしい会話はない。ただ飢えを満たした。動物になった。鉄板の上のステーキは熱く、脂の多いその肉は値段にしてはよく出来ていた。
曜子はハンバーグを食べた。
食べ終えると、やっと一息ついた。すきっ腹に肉は充実感があった。曜子に合わせて、ゆっくりと食べたので食べ終わりはほぼ一緒だった。こういう時どうすればよいのかというのは悩みどころで、同じぐらいに食べ終えた方がスマートなのか、いい大人の男と、同じに食べ終わる方が女の子にとっては恥ずべきことなのか、正直分からない。
二杯目のジンジャーエール。コーンスープも飲んだので、飲み物ばかり飲んでいる気持になった。
「海の近くにホテルがあったんだけど、ホテルっても、豪勢なのじゃなくて、たぶん寝泊まりするだけみたいな簡素なものだろうけど、そこに行ってみる?」
「わかった」
曜子はそう言った。曜子にしてみれば、僕の言う通りにするしかどうしようもないわけで、まあその、返答に驚きはなかった。
「じゃあいこうか」
と訊くと曜子は頷いて、立ち上がった。
お金を払うとき曜子は、飴玉を一つもらいそれを口の中でころころと転がしていた。
手を繋いで歩いた。
目を付けていたホテルに着くと、中を窺う。五階建てで外観が少しくたびれている。見た目はそれほどでもないが、そう悪いホテルでもなさそうだと、中に入った。
フロントに行き、
「あの、急で申し訳ないのですが、二人なのですが、今日泊まれる部屋ってあったりしますか?」
「少々お待ちください」と言ってフロントは、台帳を調べだす、少しその様子を観察していた。曜子が僕の横に引っ付き、不安そうにこちらを見上げた。
「ダブルのお部屋でしたらご用意できますが、」
ダブル? どれくらいだと思いつつ、
「妹と二人なんですが、泊まれる感じですか?」
「そうですね。ご家族の方というのでしたら利用されていく方もいます」
曜子の方を見て、「一緒のベッドみたいだけど、寝れる?」と訊くと、
曜子は少し考えてから、頷いた。
「じゃあそこでお願いします」そこで気づき、
「あ、その部屋、海は見えますか?」
フロントは少し不思議そうな顔をしたが、「はい、ご覧になれますよ」と返したので、僕は曜子を見た。
宿泊申込書には適当な住所を書いた。鍵を受け取り、エレベーターに乗った。豪奢なホテルではないが、その内装はホテル以外にはない、廊下を歩きながら、そう思った。
部屋に着くなり、曜子はトトトと足早にベッドに向かうと、そのままの勢いでベッドに飛び込み、うつ伏せで動かなくなった。荷物を下ろし、電気を付け、部屋の中を確認する。それほどに広くはないが狭くもない。部屋にあるのは証明とテレビ。入ってすぐに扉がありその中は、ユニットバスになっていた。
ユニットバスを確かめて部屋に戻っても、曜子は先ほどと微動だに変わらず、ベッドにうつぶせていた。
僕は部屋を横切り、カーテンを開けた。
「曜子ちゃん、見て!」
僕が振り向いてそう声を掛けると、うつぶせのまま顔だけ上げてこちらを見た。
それから起き上がり、僕の横まで来て、
「うみだ」と感嘆のように言った。
海町という景色だった。海は先ほども行ったが、こうして少し高いところから俯瞰してみる海はより海に来たという実感を与えた。
窓を開けると、生ぬるい風が吹き込んだ。
「暑いね」と曜子は言った。
だけれど、先ほどよりも強く潮風というものを感じた。
少し眺めていて、気が済んだようなので窓を閉めて、
「エアコンは嫌い?」と僕が尋ねると、
「嫌いな人いるの?」と返ってきた。
「うん。たまにね」と返して、エアコンをつけた。
それからテレビをつけて、夕方のニュースをチェックした。一通りチェックして、案の定というか、僕たちのことはニュースになってはいなかった。一応の安堵をして、曜子にテレビを見るか尋ねたら、首を横に振られたのでテレビは消した。
曜子はベッドに寝転がってずっと天井を見ていた。僕も一脚だけ置いてあった椅子に座って、ぼんやりとしていた。ふいに仕事のことが頭に浮かんだ。明日にはもう僕はいない。携帯にも連絡は届かない。あいつらは困るだろうか? 案外僕がいようがいなかろうが、物事は簡単に回っていくだろうことが予想できた。空しくもあったが清々もしていた。
「お風呂入る?」と曜子に尋ねた。
「入る」と曜子が答えた。
ユニットバスなので基本はシャワーなのだろうが、ちゃんと蛇口がついていたので、湯を貯めても問題はないのだろう。衛生面が気にかかったので、アメニティの石鹸で浴槽を手で洗い、お湯を貯めた。ビジネスホテルよりは浴槽が広いので、窮屈ではなさそうだった。それに曜子は小さいので、問題はないだろう。
そこそこに湯船にお湯が満たされたことを確認すると、
「お湯入ったよ」と声を掛けた。ずっと天井を見続けていた曜子はむくりと起き上がると、「ありがとう」と言った。
「あ、入り終わったらお湯落としておいてね」と声を掛けると、「わかった」と返した。それから浴室に消えていった。
浴室の扉が閉まるとやけにしんとした気がした。そこで着替えがないことに思い当たった。だからと言って、僕が買いに行くわけにもいかない。どうしたものか。日中歩き回った服をまた着るというのも気持ちが悪いのも察せられた。曜子は荷物らしい荷物を持っていない。着替えはない。
部屋を探したが着替えらしきものは置いていないようだった。
どうしたものかと悩んでいるうちに時間が過ぎ、浴室の扉が開いた。
濡れた髪を拭きながら、曜子が出てきた。曜子は元着ていた服を着ていた。何だか申し訳ない気持ちになり、「お風呂上りに悪いんだけど、服買いに行こう。時間は……まだ大丈夫だろうけど、近くにショッピングモールでもあればいいんだけど」というと、曜子はすぐにドライヤーで髪を乾かし始めた。
フロントでショッピングモールがないかと尋ねると、歩いてすぐのところにあると教えてもらいそこに向かった。
閉店は十時半で、まだ二時間近くあり安堵した。
暗くなった道に難儀しながら、教えられた通りに道を進むと、すぐにそれらしき建物が目に入った。
店の中に入る。エスカレーターに乗りながら一階のスーパーマーケットの様子を見たら人はそれなりにいたが、二階の服売り場には人の姿はまばらだった。僕としては、都合が良かった。
「僕も自分の服を選んでくるから、曜子ちゃんも、選んどいて、あ、値段は気にしなくていいから」
そういうと曜子は、こちらを見上げ少し寂しそうな顔をした気がした。
「わかった」
僕は紳士服売り場に行き、下着と、パジャマ、それとサイズが合いそうな服を、かごに入れていった。時間はかからなかった。十分もないだろう。それから婦人服売り場を通り、曜子を探した。程なく曜子がいるのを見つけた。
「どう?」そう言って近づくと、曜子は小脇に下着類だけ抱えていた。
「あとはパジャマと、服だな、あ、それここに入れて」と僕が言うと、曜子は持っていた服をかごに入れた。僕は、下着が目について僕の選んだ服をかぶせてそれを隠した。
「あ、靴下もいるよ」と言って靴下をえらび、
それから曜子と服を選んだ。
女の子はおしゃれだというのをよく聞くが、曜子も多分に漏れず服には彼女なりのこだわりがあるようだった。良いというものを見定め、サイズを確認し戻し、先ほどのものとのコーディネートをかんがえ戻しを繰り返した。
それから、「一回着てみていい?」と尋ねるので、時間を確認して、
「いいよ」と答えた。
試着室に入り、しばらくすると彼女はカーテンを開けた。
彼女は少し恥ずかしそうに身を縮こめて、窺うようにこちらを見ていた。
「かわいいよ」と返すと、曜子は「これにする」とだけ言ったので、「うん。いいと思うよ」と返した。
カーテンが閉まり、しばらくするとまた違う服で出てくる。
そのたびに僕は彼女に感想を言った。彼女に似合った服だった。彼女はちゃんと自分をわかっていることに、女の子という感想が浮かんだ。彼女は家での待遇はよくなかったが、ちゃんと女の子で、こういうことに興味がない女の子はいないのだろう。
「あとはパジャマだね」と言ってパジャマ売り場に行き、曜子が二着えらんで、「どっちがいい?」と訊いてきた。
正直どちらも曜子に似合いそうだった。可愛げのある小さな花のちりばめられた薄ピンクのものを、「こっちかな」と指すと、少し不満そうな顔をしたが、「じゃあ、こっち」と僕が指した方を、かごに入れた。水着売り場が目に入ったが、海での曜子の言い方が蘇り、水着も買おうかとは言えなくて、水着を買うなら今度で良いかと思った。
会計額は、服は高いなという感想を抱かせた。
それから曜子の分と僕の分のキャリーバッグを買い。それに双方の服を詰めて、ゴロゴロと曳いてホテルに向かった。
ホテルに帰る間曜子は機嫌が良かった。
「好きな歌があるの」と言って、小さな声で歌ってくれた。だけれどその歌はやっぱり悲しい歌で、僕は、彼女の手を握った。曜子は不思議な顔をしたが、すぐに笑顔に戻り歌の続きを歌ってくれた。
部屋に戻ると、曜子はさすがに疲れたのか、ベッドで天井を見上げていた。十時半で、昨今の子が寝るには少し早い。
だけれど僕は、曜子の横に寝転がり一緒に天井を見上げていた。曜子が手を握ってと言った。僕たちはベッドに入り、手を握り合った。
そこに会話はなかった。ただ二人静に天井を見上げていた。しばらくそうしていると、曜子は寝息を立てだした。僕はそれでもずっと手を握っていた。
それから起きだして、曜子の頭をなでると、ベッドから静かに抜け出し、シャワーを浴びた。熱いシャワーに痛みが溶け出し、流れ出し、浴槽の排水口に流れていく。許されている気がした。だけれどすぐにアパシー、健康の不健康。もうどうでもいい。
パジャマに着替え、電気を落とした部屋で、テレビをつけた。曜子のニュースはなかった。それを苛立たしく思った。髪を乾かし、シーツの間に身体を滑り込ませ、曜子の横顔を見た。静かだった。子供はいつだって眠っているときに純化する。守るもの。守られる者、どちらでもいい。どちらである必要もないのだから。僕は目を閉じた。
翌日になり、ホテルが用意した朝食を取った。それからフロントに行き、四日ほどここに居を置けないかと尋ねた。フロントは、調べると、出来るらしいので、そういう風にお願いした。それからこのあたりの観光で何かないかと尋ねた。港町で、観光というには何もないが、静かな環境だと言われた。確かにと思った。ここで静かに四日ほどいるのは、とても有意義な気がした。
海産物が有名であるらしく。それを食べに行ってはどうかと言われ、ありがとう。と返した。
部屋に戻ってすることもなくて、ぼうっと過ごした。曜子はテレビを見ていた。朝のアニメを見て、それからワイドショーを見ていた。僕はそれをつまらないなと思いながら見ていた。ワイドショーの中でも、僕たちに関することは出てこなかった。そこまで来ると逆に心配になった。
テレビを見終えた曜子は、何をしようか悩んでいたので、
「もう一回海行く?」
と尋ねると、
「行こうか」と言ったので、二人で海に行くことになった。
ホテルを出るときに、フロントに「すみませんが、今から出かけますので、その間に掃除などしていていただけるとありがたいです」
と声を掛けると、フロントは快く応じてくれた。
海に着くと、浜辺に座って寄せては返す波を二人でみた。
三角座りする曜子に、
「これでよかったんかな」と言うと、
「私は嬉しいよ」とこちらを見つめて、言った。
僕が不安そうにしているのに気づいたのだろう。曜子はそっと頭を僕にもたせ掛けた。僕も少しだけ、曜子の方に身体を傾けた。そうして波の音を聴きながら、海と空を見ていた。晴れていたが日差しは強くなく、それでも湿度のたかい暑さが、風が吹き抜けた後に夏を感じさせた。
曜子が僕から預けていた頭を離し、砂でピラミッドを作った。小さなもので、ただ砂を寄せ集めただけだった。
「ここに家を建てたい。そして二人で住むの。誰もいなくて、だけど、直くんだけがいるの。朝に直くんはコーヒーを飲んで、部屋にコーヒーの匂いがしてて、私がトーストと目玉焼きを焼いて、二人で話しながら食べるの。そしたら直くんが、いじわるして、私に『コーヒー飲む?』っていって、私悔しいから、『飲む』っていって、無理やり飲むの。だけどミルクも砂糖もないコーヒーは苦いから、泥水みたいで吐き出したら、直くん笑うの。そして、『曜子ちゃんは子供だな』っていうの、そしたら私は、」曜子はそれだけをとてもゆっくり話して、
「ねえ? こういうの変だと思う?」と恥ずかしくなったのか僕に訊ねた。
「変じゃないんじゃないかな」と僕が言うと、
「直くんは優しいね」と言った。それが妙に大人びていて、僕は目をそらした。
それから時計を見た。まだ昼には遠かった。
「水着、欲しい?」
「どうして?」と曜子は言った。
「海に来てるから、泳ぎたくないかなって」
「私うみ嫌いなの」
「そうなの?」
「うん。うみ嫌い。べたべたするから」
「そうなんだ」
「でもうみを見るのは好きなの。うみの音を聞いて、砂の感触を感じて、ずっとただぼうっとしてたい。だから、海の見える家に住みたいって直くんが言ったとき嬉しかった」
それから、曜子は、こちらを見つめた。
「ねえ、」とだけ言って、そのあとに何も続かなかった。
少し何か言おうとしているのが感じられたが、唇がかすかに震え、だけれどやはり言葉は無く、曜子は目をそらして、
「何でもない」と言った。そして、砂のピラミッドを手で払って平らにした。
僕は何も訊かなかった。訊けなかったのかもしれない。訊かない方がいいような気がした。だから僕は、何も言わなかった。
「お昼食べに行こうか」立ち上がり、砂を払う。
曜子も立ち上がり、昨日買ったスカートの砂を払った。
ホテルのフロントで教えてもらった店を探してさ迷いだした。暑さはあった。だけれど、二人で見知らぬ街を歩くのは楽しかった。海沿いの景観を眺めながらなので、気分もよかった。それは曜子も同じようで、風に帽子を押さえながら、僕に機嫌よく話しかけた。
「学校は嫌いなの」
「知ってるよ」
「じゃあクイズ」
曜子は声を弾ませる。
「なぜ私は学校が嫌いなのでしょう」
そう言われて、僕は息をのんだ。これは言っていいことなのだろうか。彼女は傷つかないだろうか。だけれど、知っていると言った手前、答えないのもおかしくなる。
彼女は学校でいじめられていた。無視をされ、都合のいい時だけ彼女は存在した。誰かが誰かを傷つけたいと思った時だけ、彼女は誰かに視認される。教師もそれを無視した。そして家でも。
そんなことを言っていいのだろうか。
「泳げないから?」僕は、やはり言えなかった。
「ぶー、ちがいまーす」と声高に言った後、曜子はこちらを見上げむっとした。
「全然違います」と強調するように力を込めてもう一度言い切った。
「朝起きるのが苦手だから」
「違いまーす」
冗談めかした顔で、
「回答権はあと一回です」
と言った。
僕はどうしようか悩んだ。
彼女はチッチッチッと時計の音を真似でカウントダウンを始めた。
「テストがあるから」
「ざんねーん。直くん全然わかってないじゃん」
曜子はむすっとして、手を後ろにして、
「正解聞きたい?」と上目使いに言う。
「ま、まあ、」
と答えると、曜子は少しじらすようなタメを作ると、
「正解は、直くんがいないからです」
いたずらのように言って上目使いに僕がどういう反応を示すか見つめた。
僕はどこか安心していた。
曜子の頭を帽子の上から撫でた。
曜子は驚いたように頭を下げた。
それからこちらを見た。
「嬉しいけど、そういうのはよくないよ」
と僕は言った。
「なんで?」
「勘違いするからだよ」
曜子は唇をチロリと舐めると、
「勘違いしてもいいんだよ? 勘違いじゃないから」
そこに女を感じて少し怖くなった。
僕は黙って店を探した。曜子もそれから黙ってしまい。叱られた子供のように静かだった。
海沿いから坂道へ入り、坂を上り、それから入り組んだ町の中を進んだ。町に活気はなかった。とても静かで、落ち着いている。鄙びているとも言えたが、その印象よりも静謐と言う方がしっくり来た。その静謐さに夏の暑さが混じり、眩暈を起こすような錯覚を呼ぶ。
それほど暑いと感じないが朦朧とした意識に霞んでいると、
「ここじゃない?」曜子が口を開いて立ち止まった。
僕も立ち止まって、曜子が見上げている建物を見た。普通に家だった。
「ここじゃないんじゃないか?」僕はそういった。
「でも……ほら、名前も一緒だし、それにお店って感じがするじゃない?」
正直、お店という感じはしなかった。古民家という佇まいで、看板も幟も、海鮮を示す、目印は一つもなかった。
「ね、訊いてみようよ。違っても道を訊けばいいじゃない」
そう促され、インターホンに指を伸ばす、そこで指が止まる。ボタンの前で止まった人差し指を、曜子は興味深い物でも見るように見つめた。
少しの逡巡のもと、ままよと、指を前に押し出した。
聞き慣れた電子音で、呼び出しのベルが二度鳴った。
少しの沈黙があり、曜子と目を見合わせる。もう一度押す勇気はなかった。
帰ろうかと思ったときに、
『はい、』とインターホンから声がした。女性の声で、声色だけで、四十よりも上であると知れた。
若干の焦りを覚えながらも、
「あ、すみません。この辺りにxxという、海鮮を食べれるお店があると伺ってきたのですが、ご存じないでしょうか?」
「あうちで間違いないですよ」と返ってきて、驚きに曜子と目を合わせた。
「今から食事って大丈夫ですか?」
少しの間があり、
「はい、ご用意できますよ」
「あ、じゃあお願いできますか?」
「はい、大丈夫ですよ」
「あ、分かりました。このお店? の中に入っていっていいんですか?」
「はい、大丈夫ですよ」
「よろしくお願いします」と言ってインターホンが切れた。
僕は曜子を見た。曜子は誇らしげに鼻を鳴らした。
僕たちは恐る恐る小さな庭を抜けて、家に入っていく。ただの古民家で今のやりとりがあったとしても、にわかにはお店とは信じられなかった。
玄関に着くとインターホンがなく、どうしようか悩んで、ドアを引いて、
「ごめんください」と声を掛けた。
すると、思った通りの五十がらみの女性が僕たちを出迎えた。
女性が案内するままに、民家の中を進むと、畳敷きの和室に通された。
知らない人の家に来た時のような居心地の悪さを感じた。曜子はこちらを見ると、
「ここだったでしょ?」とでもいうように誇らしげな顔をしていた。
「よくわかったね」
と僕が言うと、なお嬉しそうに目を細めた。
ここの料理は海鮮丼だけのようで、注文は取られなかった。グラスと氷の浮かんだ水差しをもってきて、店員の女性は、「ごゆっくりどうぞ」と言って部屋を出ていった。
それから海鮮丼が運ばれてきて、僕たちは舌鼓を打った。
一目見ただけで新鮮であるマグロやイカは、僕たちの味覚を大変に楽しませた。
曜子も、「こんな美味しいお魚食べたことない」と喜んでいて、僕はその姿を見てうれしくなった。
食事を終えると、ほかの仕事をしていた先ほどの女性に声を掛け、今食べたものの感想と、少しの世間話をした。料理店としては副業で、本当は漁師の家らしく。それのついでと言う具合に料理を出しているそうだ。なのでこの店を知ってる人の方が珍しく、本当にただの趣味程度のものらしい。
お金を払った。都会で食べたら、高いはずの味だったが、その味にしては割安で、本当に大丈夫なのかと心配になった。
「おいしかったね」と曜子は笑った。
道を歩きながら、ホテルのフロントが言っていた通り、ここは観光地としては遊興に乏しく。何があるというわけではなかった。駅前に出ると大きな本屋が目についたので、入った。
曜子と二人で、欲しい本を見て周った。曜子は小説を読んだ。漫画よりも小説の方が好きだ。二人で、好きな作家の話をしながら本を見て周った。
「あ、新作出てる」と曜子は、文庫本を手に取った。
あらすじに目を通し、冒頭部を読んだ。それからこちらを子犬のような目で見つめた。
「いいよ」と言うと曜子は笑顔を華やかせ「ありがとう」と言った。
本は結構な値段になる。曜子と僕は欲しい本を数冊ずつ買った。
本の袋を下げて、ホテルに戻った。
部屋に戻るとベットメイキングがなされていた。
「あ、綺麗になってる」と言って、初めて来た時と同じ様に、曜子はベッドに飛び込んでうつぶせになったまま動かなくなった。
ゴミ箱の中のごみもなくなっていた。
僕はベッドに腰かけて、テレビをつけた。曜子が顔を上げたのがわかった。テレビのチャンネルを回し、ニュースにすると、ぼんやりと、映像を見た。不穏なニュースばかりだ。それも大きな暴力が付きまとうものから、大きな金の絡まったもの、すべてが僕にしてみれば大きすぎるもので、どうしようもない事柄ばかりだった。
先ほど買った小説を曜子に渡した。曜子は嬉しそうにして、起き上がり、ベッドに腰かけて、本を読み始めた。僕も自分の買った本を読むことにした。
生命がないかのような静かな空間だった。窓を開けて風を入れた。
外からは車のエンジン音がたまに聞こえた。それ以外は風の音だけだった。
波の音はここまでは届かないようだった。
一時間ほど二人で静かに本を読んだ。
「あー疲れた」と曜子が声を上げて、僕は本から目を上げた。
曜子は、本を横に置いた。
「ねえ、これからどうするの? ずっとここにいるわけにもいかないんでしょ?」
曜子が言ったことに、少し驚いたが、
「一応あと二日くらいは、ここに居ようと思う。海も近いし、今は静かな場所にいたいんだ」
僕がそう言うと、曜子は「二日か……」とつぶやくと、
「それくらいならいいかな。ここなんにもないじゃない? 静かな時はいいけど、急に退屈なのかどうなのか分からなくなるの」
「それはわかるよ」
と言った。
「一回ここで、気持ちを純化してから、違うところに行こう」
曜子は僕が言ったことをよくわかっていなかったが、ここから去ることを考えて、納得したようだった。どうにも曜子にとってここはベストな海の見える場所ではないのかもしれない。
それからずっと本を読んだ。曜子は一冊読み終えた。それから僕に本の内容を教えてくれた。主人公が、駄目な奴なの。と何度も言った。それを聞きながら僕もだな、と思った。
陽が落ちて薄暗い街を歩いて、店を探し、インド人がやっているカレー屋に入った。
僕はカツカレーを、曜子はカレーうどんを頼んだ。
辛かった。それはただ単に辛いのではなく、香辛料の複雑な辛さで、安っぽさはなかった。曜子は何度も水をお代わりした。
部屋に戻り、曜子はシャワーを浴びた。先ほど買った薄桃色の花柄のパジャマをぎこちなさそうに着て、髪を乾かした彼女は、テレビのバラエティーを見て笑っていた。
初めて会ったとき彼女は笑わなかったし、口も効いてくれなかった。そこが僕と同じだと思った。だから何度も声を掛けた。
そのころに比べると自分の意見を言うようになったし、笑うようになった。
曜子はテレビに区切りがついたのか、急に立ち上がり、窓辺に行くと、煙草に火をつけた。
そしてそれが燃えるのをぼんやりとみていた。
祈り。
それが終わるとまた、ベッドに戻ってきた。
「もう煙草ないんじゃないの?」
「うん、今ので最後」
「じゃあ、買わなきゃね」
「銘柄は? 今から買ってくるよ」
曜子は銘柄を言った。きつい煙草だった。
僕はホテルの売店に行き、コーラとオレンジジュース。それから缶酎ハイと、曜子の煙草を買った。
部屋に戻って、曜子にオレンジジュースを飲むかと訊いたら、いいと言われたので、冷蔵庫に、飲み物を全部入れた。
それから煙草を渡した。彼女は煙草を枕元に置いた。することはなかった。今更、昔話や身の上話も尽きている身だった。二人はただ小さな呼吸が横にあることを感じることで存在を確かめ合った。曜子が急に、ベッドを横切りこちらに近づいてきた。シーツが彼女の動いた軌跡に波を残した。ただ近づき、唐突に僕の腋の下に指を入れ、くすぐってきた。
唐突な行為にくすぐったいのかもわからず悶えた。ベッドに横臥した僕を良いことに、曜子は嬉しそうにマウントを取ると、また執拗に脇をくすぐった。次にはもう意識はそちらに向いているので、純粋なくすぐったさに、息が上がった。「ちょっと……何――やめて」上がる息の中で、僕が何とか抗議の言葉を紡ぐと、聞こえてはいるが彼女の行為に拍車を掛けさせた。曜子は嬉しそうにくすぐりを続ける。僕は苦しさに曜子をベッドに投げ出すと、彼女は猫が鳴くよう小さな悲鳴を上げた。
僕は彼女がしたように曜子にマウントを取ると、お返しとばかりに、彼女の脇に指を入れ、くすぐった。曜子は足をバタバタとさせながら、それから逃れようとするのか、それとも強制的な笑いに悶えているのか、そのどちらか、身をよじって笑った。
パジャマ越しに彼女の脇の下のしわを感じ骨の硬さ、生き物を感じる。「やめて!……」といき絶え絶えに彼女が言った。僕はそれに従い指の動きを止めた。
彼女はおなかを上下させて荒い息をついて、涙の溜まった潤んだ眼でこちらを見ていた。二人の息遣いがやけに大きく響いた。
僕は曜子に覆いかぶさった姿勢のまま見つめ合った。なぜだか動くことが出来なかった。
彼女の黒い髪の毛が艶やかに見えた。
「ねえ直くん」と言った。
息使いと熱を帯びて艶やかだった。
「やっと笑ってくれたね」と曜子はつづけた。
「いつも笑ってるじゃないか」
彼女は小さく首を横に振ると、
「わかるよ? 私馬鹿だけど、バカじゃないから、本当に笑ってるかどうか、いつだって直くんは笑ってるけど、暗いこと考えてたでしょ?」
「どうして……」
「わかるよ。私、直くんのこと本当に好きだから」
僕は言葉を飲み込んだ。それと同時に乾いた唾を飲み込んだ。その時に喉が奇妙な音を立てた。それが妙に気まずかった。
僕ははたと気づき、曜子の上から退こうとした。すると曜子は僕のズボンを強く握った。
僕は力が抜けた。
「ありがとう。確かに、よく笑えたよ」
そう僕が笑うと、「よかった」と言った。だけれどその目は悲しそうだった。
それから僕たちは乱れたベッドのシーツを適当に直すと、何事もないように、ベッドに腰かけ少し話をした。僕たちは過去を振り切るために、未来の話をした。
時間だけが静かに過ぎた。
曜子と二人ベッドに寝転がり手を繋いだ。曜子はすぐに静かな寝息を立てだした。その眠っている姿を見て安心と不安が同時に僕に訪れた。
しばらくじっとしていた。眠りは訪れなかった。
僕はつないだ手をゆっくり離し、ベッドから抜け出た。
窓を開けて、海を見た。遠くの方で船が光を発していた。
大きく夜の空気を吸い込んで、吐き出した。
僕は缶酎ハイをもって、浴室へ向かった。
シャワーを浴びた。酒を飲んだ。
熱いシャワーに、痛みが溶け出し、また排水溝へ流れていく。一瞬だけ人間に戻り、すぐにアパシー、僕は何にもない。
物音がして、ガチャと、扉が開いた。暗がりの中に、寝ぼけた曜子が立っていた。僕は驚いて、浴槽の縁に置いていた酎ハイの缶を落とした。乾いた硬質な音がして、残りが床に、流れて広がった。その音で目を覚ました曜子が、半分開いたビニールカーテンのなかの裸の僕を見て、一瞬ぎょっとし、それから僕の腕に目をやって、
「どうしたの!」と声を上げて、僕が裸なのもかまわず、近づいてきた。
僕は何も言えず、曜子に腕を取られた。
僕の腕からは血が流れていた。これは僕の秘密だった。
僕の腕には幾本もの赤い線と茶色の線、それから薄い白い線が入り乱れていた。その一本が流血を引いていた。
曜子は僕の腕を取り、痛ましいものを見るようにした。僕の醜い部分。誰にも言わない。
「どうしよう」とおろおろしていたので、
「大丈夫だよ。薄くしか切ってないから、すぐ止まるんだ」と言った。
曜子は悲しい顔をして、
「自分でしたの?」と訊いた。
僕は何も言わなかった。
曜子は何かを察したのだろう。
自分が濡れるのもかまわずに、僕を抱きしめた。浴槽に入り一段低い僕の頭は曜子の胸の位置にあり、曜子は優しく僕の頭を胸に抱きよせると、そっと頭を撫でた。優しく、しかし確かにゆっくりと頭を撫でた。
それから、「大丈夫だよ」と言った。それが何なのか分からなかった。彼女は何を理解したのかもわからなかった。だけれど僕は涙が流れてきた。僕は。
彼女は僕を胸に抱きしめ、ずっと頭を撫でた。そして、大丈夫だよ、と言い続けた。
僕の涙が止まった時、腕の血も乾いていた。
それから二人で、湯船に湯を張った。それが正しいことのように思えた。それから静かに小さな湯船に水が溜まっていくのを見て、湯を張った湯船に入った。
狭かった。裸の体が密着した。だけれど性的な機微は起こらなかった。
二人で狭い湯船に身体を縮めて入った。
僕は曜子に自傷行為の話をした。
中学二年のころからしていること、だから夏でも長袖を着ていること、ここ最近は毎日していること、そしてこれは痛みを降らせることで自分に罰を与えているということ。彼女にわかるかは分からなかったが、僕は話した。ずっと隠していたことを話すと少し楽になった。
「ねえ、罰を与えてるの?」
と訊いた。
僕は頷いた。
彼女はカッターナイフを手に取った。
「腕だして?」
と言うので僕は腕を出した。
その醜い線にまみれた腕を見る。
さっきまで血を流していた新しい線の横に曜子は刃先を当てた。それから優しく線を引いた。
僕が切るよりも全然深くない弱弱しい線が、引かれ、玉になるまでもない微量の血液がその線にゆっくりと滲んだ。
「痛い?」
「そんなに」
「よかった」と曜子は笑った。
そして自分のつけた線を指先でなぞった。微量の血が口紅のように滲む。
「私が、これは私が直くんに、与えた罰なの。だから独りで悲しまないで? これは私が引いたの。ね? 私の所為にしていいんだよ?」
僕は胸に何かがこみ上げるのを感じた。
僕は曜子を抱きしめた。裸で抱きしめた曜子は骨ばっていて、だけど温かかった。
「ありがとう」そういうとまた涙が出てきた。
それから体を離すと、曜子が蠱惑的な笑みを浮かべ、唇を重ねた。優しいキスだった。
「初めてだよ」と曜子は言った。
「ごめん」
「いいよ」と言った。
そこで急に曜子の体に目がいった。小さいが胸は膨らんでいた。そしてまだ生えたてだろうが、恥部に生えた薄い陰毛が湯に揺れていた。
曜子がいそいそと湯船から上がると、バスタオルで体を隠した。
こちらに潤んだ目線を送ると、何も言わず、急に恥じらいが芽生えたように、少し濡れたパジャマをもって、浴室を出て行ってしまった。
僕は一人取り残されて、天井を見上げた。狭い天井。
転がった酎ハイの缶を取り上げて、ほんの少し残った液体を飲んだ。
風呂から出ると、髪を乾かした。その間、曜子はベッドに寝転がり何も言わなかった。僕も何も言わずただ無心に髪を乾かした。
それから、ベッドにもぐりこんだ。
「寝れないの」と曜子は言った。先ほど少しの間でも眠っていたからだろうかとも思ったが、原因は僕にあるような気がした。
「手、繋いで?」言われるままに、僕は曜子の手をシーツの中で探して繋いだ。
その手の先から、心臓の音が聞こえるようだった。曜子の指は決まりのいい場所を求め、何度か僕の手を掴みなおすと、すぐに落ち着いた。
「直くん」とだけ、曜子は言った。
僕は何も言わずに天井を見上げていた。ここ二日で見慣れた天井には、浴室と同じように、もはや目新しい発見はなかった。ただ暗いだけのありふれたものだ。
小さな、何かを言おうとしているが言葉にならない息使いが聞こえていた。
「私ね……」
そう言ったきりまた何も言わなくなった。
「私、直くんのこと好きなの。最初変な人だと思ったの。だけど、やっぱりずっと変な人だったの。だけど、それはちょっと変な人で、それ以外は普通だったの。私とね、仲良くなれるのは、やっぱり変な人なんだと思う。だけどね、私直くんが好きなの。本当に好きなの。何があってもやっぱり好きなの。全部かわいいって思うの。……これ言わないようにしてたけど、初恋なの。だから嬉しいの。全部嬉しいの。ねえ、直くん? 直くんは私のこと好き?」それだけを、途切れ途切れにだけれど丁寧に、言うと曜子は顔をこちらに向けて訊いた。
僕は。
「僕は曜子ちゃんのこと好きだよ。ずっと好きだよ。僕も一緒だよ。ずっと曜子ちゃんは、僕と同じだと思っていた。だから、救うと言えば大げさだけど、何とかしたいと思ってたんだ。だから、」
僕はそこで何も言えなくなった。
曜子が薄く笑うのがわかった。
「ねえ、本当を聞かせてよ」
その声音は、何よりもすっと耳に流れ込んだ。だけれど、僕は、
「僕の好きはたぶん。君の為にならない好きなんだよ。だから、曜子ちゃんのことは好きなんだ。だけど、ごめん。よくわからない」
情けなかった。言葉が、自分にはもうわからなかった。自分がどう思っているのか、自分が言う言葉が、嘘なのか本当なのか、それすらももうわからなかった。
「直くんは優しいね。優しいって、優しさって、与えられた人にとって全部優しいわけじゃないんだね。なんだろう。でも、ありがとう」
曜子はそんな僕の言葉の本当を感じ取ったのだろうか。握った手がより強く握り直された。
僕は眠れなかった。曜子もきっと同じだろう。しばらくずっとそうしていた。天井の闇が迫ってきて僕たちを飲み込んだ。どちらが先に寝たのか、分からない間に、僕は暗いくらい意識の淵へと落ちていた。
夢を見た。夢だった。明晰夢。夢だとわかった。夢なんだ。これは夢なんだよ。そう夢なんだ。夢のような日々だった。暖かくて、二人だけの国。盲目と理想の瞑目におぼれて、誰もいない。これは夢なんだ。目を開きながら見た夢は僕たちの日常と地続きで、そしてどこまでも破綻していた。
明晰夢。壮大な明晰の中で、思い通りにならないことの、不自由を感じていた。
十時半ごろに目を覚ますと、部屋は薄暗く静かな雨の気配を感じた。開かれたカーテンの向こうはどんよりと暗くやっぱり雨が降っているようだった。
曜子は僕よりも前に起き、昨日買った本から顔を上げると「おはよう」と言った。
僕もそれに一言返すと、「雨だね」と言うと「雨だよ」と言われた。
テレビをつけて、天気を確認すると、今日は一日雨であるらしい。降水確率は百パーセントで、余程があったとしても止むことはないだろう。
昨日までの湿度の高さとは違う質の湿り気の多い空気が、部屋に満たされていた。曜子と二人でただ黙々と本を読んだ。昨日本を買っておいてよかったとその偶然を喜んだ。
ページを捲るたびに、昨日よりもそのページが水を少し含んだしっとりとした重みがあるような錯覚を味わった。
曜子がページを捲る手を止めると、
「私雨好きなの」と唐突に言った。
「前も言ってたね」
「なんでか覚えてる?」と試すようなことを言う。
何だったかを考えてたけれど、何も答えらしい答えが浮かばなかった。
僕はもう少し考えると、
「体育のプールの時間が休みになるから」
曜子は立てた人差し指を唇に当て意味深に目を細めてこちらをじっと見た。
それに何の意味があるのかは僕には測り兼ねた。
それから、
「ぶー、外れです」と言った。どうやら今のは彼女なりの焦らしだったらしい。
「答えは?」
「私だけが、どんよりと嫌な思いじゃないって思えるからです。……」
どう返していいか分からなくて、
妙な間が生まれた。
「暗いかな?」と心配そうに尋ねる。それがいじらしくて、
「そんなこともあるよ」と返した。
今の話がなかったように、各々読書に戻った。僕が読んでいた本は、フランスの作家の小説で、現代を揶揄したり風刺したり、セックスをしたり、と忙しい小説だった。なぜ人間はこういう本を面白いと思えるのだろう? こんなものはっきり言ってつまらない。だけれど僕はそれを興味深く読んでいる。人間は馬鹿なんだと思う。
「曜子ちゃん」
僕が呼ぶと曜子はこちらに顔を向けた。「なに?」
「曜子ちゃんなに読んでるの?」
曜子は本の装丁を見せてくれた。有名な日本の作家だった。それの新作が文庫になったもので、僕は読んでいなかった。
曜子の歳で読むには、早いのか遅いのか微妙な本だった。
「面白い?」
「うん、やっぱりこの人の本好き」と幸せそうに笑ったので、
「よかったね」と返してまた二人は読書に戻った。
エアコンが室内を冷やす音だけが流れる時間が過ぎた。
時刻を見ると、昼の十二時を少し過ぎていた。朝は遅かったのでホテルの食事を食べ損ねた。その為におなかが空いていた。
「曜子ちゃん、ご飯食べに行こうか」と声を掛けると、
「あ、あと少しで読み終わるからあとちょっと待って」と言われたので、
「うん、分かった。ゆっくり読んでよ」
曜子は、頷くと、本の世界に戻った。僕は部屋を出てフロントに向かった。
フロントに洗濯できる場所がないかと訊くと、ホテル内にランドリーがあると教えてもらい、場所を確認してから、売店で水を買って、部屋に戻った。
曜子はもう本を読み終えていて、僕が戻ると「おかえり」と言った。
曜子に水を一本渡し、それを飲みながら何が食べたいか話した。
別に何でも良いということになり、前に行ったファミレスで済ませることに決まった。
ファミレスは、前に来た時と変わらず、あまり人はいなく、前と同じ席に座った。
曜子はカレードリアを、僕はサラダとサンドイッチとコーンスープを頼んだ。
味はそれなりで、値段よりもおいしい程度だった。
「曜子ちゃん、カレーばかり食べてない?」
と訊くと、そこで気づいたように、
「本当だ」と笑い合った。
町をビニール傘で雨を遮りながら歩いたが、取り立てた変化は感じず、すぐにホテルに戻った。ホテルのフロントは僕たちが昔からの顔見知りのような、笑顔を向けて、曜子に手を振っても見せた。曜子は無視した。
冷たいのではないかと思うかもしれないが、仕様のないことであった。
見飽きた部屋に戻ると、ホテルを出るときに言っておいたようにベッドは綺麗になっていた。だけれど曜子は、今度はベッドに飛び込むことはせず、縁に座ると、綺麗に伸ばされたシーツを細い指先でなぞった。
「飽きた?」
「ううん。そういうのじゃないの」と言った切り口を閉ざした。明らかに塞ぎ込んだ顔をしていた。
それから朝を繰り返しているように二人は本を読んだ。それも三十分もすると、やめて、二人でテレビを見た。テレビはつまらなくてすぐに消した。
「ねえ、直くん」と曜子は言った。
「なに?」
曜子はこちらに近づいてきて、
「ギュってして」と両手を広げた。窓の外で静かな雨の音を感じた。
僕は曜子を抱きしめた。曜子も僕に縋りつくように腕に力を込めて、僕たちはベッドの上で強く抱き合った。曜子の髪から湿った匂いがして、雨とシャンプーと彼女の汗と頭皮の匂いが混ざった複雑な匂いで、とても、いい匂いとは言えなかったけれど、生きているという気がして、僕は好きだった。
曜子が顔だけを離し、僕たちはとても近い位置で見つめ合った。曜子の呼吸が僕の唇をくすぐった。
何も言わなかったが、何をしてほしいかが分かった。だけれど僕はそれをしなかった。僕はもう一度強く抱きしめると、自分はいかなる時も、曜子を拒絶することはないと思っていたが、自分が毀れて、相手を毀すかもしれない恐怖に、拒絶がした。正しさに、人の行いのすべてに正しさがあるのなら、僕は正しさに毀されそうだった。
「よくないと思うよ」
僕が言うと、
「どうして?」と小首をかしげた。
「人間がその人と一緒になるには、ある意味で、一緒の存在でなければならない。血液だって拒絶する。ある程度の互換性がなければ毀し合うんだ。なぜ大人が子どもたちに手を出してはいけないかは簡単で、子どもは純粋で、大人は不純で醜悪だ。だから駄目なんだ。君の純粋を僕の醜悪が汚すのはよくないし、僕は耐えられない」
曜子は何も言わずに、僕の頬に頬を擦りつけた。一瞬キスされるのかとどきりとした。
「私はもう純粋じゃないよ」
と耳元でささやいた。
「子供がみんな純粋なら、大人になるうちに不純になっていくなら、もう私はそちら側だよ。私はそんなに綺麗じゃない。さっき互換性って言ったけど、私は人間には相互性の方が大切だと思うの」
曜子は僕の目を見つめた。
「難しいこと言うね」
「直くんの所為だよ?」蠱惑的な笑み。
僕の所為か……。
「ねえきっと、直くんは他の大人よりも純粋だと思うの、私が子供で純粋なんだとして、私はほかの子よりも不純だと思うの。ねえ、私たちは一緒くらいだと思わない?」
曜子はこちらをただ見つめる。目をそらすことが出来なかった。真っすぐな目。澄んだ黒い瞳孔には僕が反転して映っているのだろう。原理だけが頭を回った。
相互性。僕たちは補い合って、ここまで来た気がする。彼女を補いたかった。彼女の笑顔を補いたかったんだと思う。僕に似ていたから。子どもが僕みたいな顔をしているのを見るのが辛かったから。根源を辿ればそれは僕のエゴで自分の為だったのだろうか。だけれど相互性。僕たちは足りない部分を足りる部分で補い合っただけなのか、それはきっと正しいことなんだと思う。また正しさが僕を毀そうとする。
その後どうなったかは、純粋性、不純性によるところが多く。秘匿の美学とでも言えばいいだろう。その後との出来事が純粋か不純か、知るには自分の胸に訊けばいい。
ドラム式の洗濯機をぼんやりとみていた。
家庭式よりも大きなドラム式洗濯機が二台置かれたランドリー場には人の姿はなく。僕が動かした一台しか回っていなかった。僕は置かれたベンチに腰かけて、ぼんやりとその様子を見ていた。雨とは違う湿った匂いがしていた。ベンチが置かれているところに思うに、こうやって洗濯を待つ人はままいるのだろう。そこで思い立ち、
部屋に戻った。部屋では曜子が退屈そうにテレビのチャンネルを回していた。部屋の中は少しだけ煙草の匂いがした。僕に気づくと笑顔になり、
「洗濯終わった?」と訊いた。
「もう終わると思うけど、干すものがない。ハンガー買いに行くけど、来る?」
「行く」
二人でショッピングモールに行き、ハンガーを買った。プラスティックの折り畳んで小さくなる便利ハンガーを発見し、これなら嵩張らないとそれを買った。
それからショッピングモールを回っていると、曜子が、
「お金ちょうだい?」と急に言い出だして少し驚いた。
「何か欲しいの?」と訊くと、静かにうなずいた。
「別に一緒に買いに行こうよ」
曜子は気まずそうに俯いてもじもじとした。
「いくら?」と言うと曜子は顔を上げて、
「うーん千五百円くらいあれば足りると思う」と言った。
僕は財布から千五百円を渡した。曜子は、「ありがとう。ちょっと待っててね」と言ってスーパーマーケットに消えていった。
僕はその場に残されて、あたりを見ながら、曜子が戻ってくるのを待った。
しばらくすると曜子は白いビニール袋を提げて戻ってきた。それほど大きくない大小四角いものが二つ入っている感じだが、まあいいやと思った。曜子はお釣りを返してくれた。何買ったのとは聞かなかった。知られたくないから僕にお金をもらって一人で行ったわけだし、必要ないものは買わないだろうという信頼があった。それほど興味もなかった。
ホテルに戻ると洗濯は終わっていて、二人で洗濯物をもって、部屋に戻った。
それから洗濯物を部屋のいたるところに吊るした。ハンガーは足りなかったが何とかした。部屋の湿度が高かった。エアコンに頑張ってもらうしかなかった。
曜子が風呂に入り、僕もすぐにシャワーを浴びた。今日は腕を切る気にはならなかった。
シャワーを浴びながら、昨日曜子が僕の腕に引いた線を見た。薄いその傷は他のものよりも弱弱しく、僕の腕で今も確かに存在していた。それを指でなぞる。彼女が僕に与えた罰。何に対しての罰だろうか。心当たりがあり過ぎて、どれかはわからない。
髪を乾かして、町に出て、またいつものファミレスで、どこにいても変わらない食べ物を食べた。町は静かだった。雨はもう上がっていて、確かに雨が降ったその言いも言われぬ気配だけを残していた。車が通っていく。その姿も濡れていた。
部屋に戻り、
「明日の朝にはここから発つから」と僕は言った。
「そうなんだ」部屋を見回して、
「洗濯物乾くかな?」頓狂なようなことを言う。
「乾くと思うよ。もう結構乾いてきてるのもあるし」
「それならいいけど」と曜子は言った。
ただ静かな時間が過ぎた。
二人は眠った。シーツの中でつないだ手は、僕たちが無意識になると離れてしまう。僕たちは意識して繋ぎ合っていなければ散り散りに離れてしまう脆い存在だ。だから、僕たちは。
朝七時に目覚め、乾いた服を丁寧に畳み、キャリーバッグに詰めた。読み終わった本はどうするか迷ったが、どこかで捨てることにした。全てを詰めてもキャリーバッグはまだ少しの余裕があった。
このホテルで食べる最後の朝食を食べた。バイキング形式で、曜子に栄養の偏りがないように注意しながらの食事は、楽しくもあった。
部屋に戻り、時間が来るまでくつろいだ。時間が近づき、カーテンを引いて、窓を開けて、二人で海を眺めた。窓の外は暑そうだった。薄い潮の匂いが届いた。もう二度と見ることのない景色に僕たちはいたことを考えた。
ホテルを出る手続きをして、キーを返したとき、ホテルのフロントは昔からの親友のような笑顔を浮かべて、「良い旅を」といった。「いいホテルでしたよ。また機会があれば、よろしくお願いします」と言っておいた。それは本心だったが妙に嘘くさく響いた。
キャリーバッグをゴロゴロ引きながら、二人で海沿いを歩いた。
「次はどこに行こうか?」と曜子に訊いた。
曜子は「うみが見える家でしょ」と当然のことというように答えた。
「それにしても暑いね」と曜子は目を眇めた。
昨日の雨が暑さを持ってきたように、太陽は暑さを降らせていた。
「あ、犬!」と曜子が声を上げた。
前方に、ゴールデンレトリーバーがいた。散歩中の休憩なのか、ベンチに座ったおじさんと炎天下の中で座っていた。リードを持っていたが、犬はおとなしく舌を出して荒い息で座っていた。
犬にだんだんと近づいていく。通り過ぎるとき曜子は首をひねりながらもずっと犬を見ていた。その様子をおじさんが目線だけで見ていた。
僕は立ち止まり、曜子も止まった。僕は戻ると、
「あの、すみません、撫でさせてもらっていいですか?」
おじさんは不思議そうな顔をしたが、「あ、いいですよ」と快く応じてくれた。
離れたところからこちらを見ていた曜子を呼んだ。曜子はこちらに来て、犬の前で、手を振った。犬は、何も見ていないかのように反応しなかった。曜子がこちらを見たので目線だけで促した。
曜子は最初少し怯えながら、頭の毛だけを撫でると、
「大人しいから大丈夫だよ」とおじさんが優しく声を掛けた。それでようやく犬の前にしゃがみこんで頭を触りだした。
「あったかい」と笑顔を見せた。
犬はわれ関せずという感じで舌をだして荒い息をついていた。
「娘さんですか?」
とおじさんが訊いたので、
「いえ、妹なんです」と嘘を答えた。
「可愛い妹さんですね」と犬を撫でる曜子を見た。
「はい、僕には似てないですけどね」困ったように頭を掻いた。
「離れた歳の妹さんは可愛いでしょう。僕にもいましてね。年子だったら、喧嘩もしようものですが、あんまり離れてると、それもないですし」そう言って、過去を反芻していた。
「このわんちゃん、お名前なんですか?」と曜子がおじさんに訊ねた。
「あんこです。図体はデカいけどメスなんです」
「あんこー」名前を呼びながら、曜子は先ほどよりも大胆に頭から背中を撫でた。あんこは、やはり舌を出して荒い息をついていた。気持ちがいいとか煩わしいといったものすら感じてないかのように見えた。
ひとしきりスキンシップを取っていたのを見て、
「もう行こうか」と声を掛けた。曜子はこちらを見あげ、「うん」といって立ち上がった。
「すみません。ありがとうございました」と会釈をすると、
「いえ、こちらこそ、あんこも喜んでます」といった。あんこを見たが、ずっと先ほどと変わりはなく、喜んでいるようには見えなかった。
僕たちはキャリーバッグを引きながら、歩き出した。曜子が後ろを振り返り、あんこを確認していた。
「犬かわいいなー」と雲を見上げて曜子は言った。
「犬好きだっけ?」
「犬っていうか、動物好きなの、犬とか猫とか、綺麗なお魚とか、レッサーパンダとか」
「じゃあ、海の見える家には、犬か猫を飼いたいね」
「いいね」と歯を覗かせた。
二人は当てもなく海沿いを歩いた。
「腕痛くない?」僕はキャリーバッグをぎゅっと握る手を見て言った。
「ううん、平気」
強がりかどうなのかは分からなかったが、彼女が疲れたら曳いていこうと思った。
「次はどこがいいかな。反対側の海でも目指そうか」
「反対?」「うん、反対、着いたら何しよう」
「私、映画観たい」
「映画? 海じゃなくても出来るじゃん」
「映画観たいだけ」
「わかった、映画も観よう」「やった」
「キャラメルポップコーン食べながらさ」「やった」
「それより」曜子は、こちらを太陽に細めるのとは違う細め方で見ると、
「私かわいい妹なの?」と意地悪そうに訊いた。僕は少し何を言われたのか分からずに、何も言わずに歩いた。曜子はにやにやとこちらを見ていた。
「しょうがないだろ。そういうことにしてるんだから」
「かわいい、の?」
僕は急に恥ずかしくなったが、
「可愛いでしょ」
「ふーん、可愛いんだ、私」と機嫌よさげに笑った。
そんな話をしながら二人は歩いた。半袖から覗く彼女の腕や首筋は太陽に焼けて、健康的だったが、肌のことを考えれば、あとで日焼け止めを買おうと思った。
空は真っ青で大きな雲が色を添えていた。鳥が飛んでいた。この辺りにもカモメやトンビはいるのだろうか。あの鳥は、大きいのだろうか。それさえも僕にはわからなかった。
いつ終わるかも分からない旅が続く。すぐ終わる気もするし、永遠のような気もする。
無目的な旅では味気はない。
海の見える家に住もう。僕はビールを飲みながら、ベランダで波の音を聴いてる。潮風に錆びた自転車を漕いで、曜子が買い物から帰ってくる。僕に気づいて「直くん!」と声を掛けて、手を振る。僕はそれに小さく手を振り返す。年中が心地のいい夏みたいで、彼女には冬の寂しさと悲しさ、虚しさを感じさせない。いつも笑っていて、たまに喧嘩して、そしてまた仲直りして、笑っていたい。
昔に見た憧憬の続き、夢の続き、人生は明晰夢。起きながら夢を見よう。いつまでもいつまでも夢物語を描いていよう。
いつかそれが予知夢でもなんでも何かになるかもしれないから。
風が吹いた。曜子の髪の毛が揺れた。彼女が被っていた帽子を押さえた。幸せは過ぎ去った後にしか気づけないという。それでは僕たちはいつ幸せになれるのだろう?
風は吹いている。いつも吹いている。それは心地良いものか嵐のようにすべてを毀すものか、そんなこと風が吹いてみないと分からない。それが選べればいいのだが、やっぱり僕には選ばせてはくれない。だけど、せめて曜子が笑っていれるように、煙草の煙に乗せてでも空に届けてみようと思う。
(つづく?)
あとがき。初めてここに投稿する。本来ならば大幅な推敲が必要であるが、気力も起きず、とりあえずこのままであげてみる。もはや何を書いたかは覚えていない。ただ酷く気持ちの悪いものになったのだけは自覚している。私はロードノベルや、ロードムービーがとりわけ好きで、これはその影響がある。ただ旅というよりも、宿泊していう停留地での話である。私にとって、少女と寄る辺のない男の交流というものが最高に文学的だという認識があり、今後も飽きずにこのような話を書くのだろうと思う。いろいろ書きたい話はあるが、書ける気はしない。ある時この小説は大幅に推敲がなされるかもしれず、これがベータ版と言ったところである。最後まで読んでいただけたのなら幸いです。とりあえず。さようなら。