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◆31.悲恋のはじまり

ノックをして暫くしても、返事は来なかった。


私は、不安に駆られながらも、今度は拳に少し力を入れ、強めにノックをする。


静まり返ったフロアに、ノックの音だけが聞こえる。


「はい」

部屋の奥のほうから、優しい声で返事が帰ってきた。


どんな人が出てくるのか、私は、少しの恐怖心を抱いていた。


「すみません。携帯を拾っていただいたものですが」

そう言うと

「ちょっと待ってて」

優しい声はドアを1枚挟んだすぐ側で聞こえたような気がした。


鍵が開く音がして、ドアが開く。


私は、俯いたままドアが開くのを待ち、深呼吸をして顔を上げようとした。


「忘れ物はこれかな?」

聞き覚えのある声。

あわてて顔を上げると、そこには彼が立っていた。

「どうして?」

そう言うと私は体中の力が一気に抜け、目からは大粒の涙がこぼれ落ちるのがわかった。


「ごめんね、意地悪するつもりはなかったんだよ」

フロアを見回し、私の肩をそっと押して部屋の中へと誘導される。

「こんなに泣いちゃって。中に入ろう」

彼の手の温もりが、昨日までの私の凍りついた心をそっと溶かしていくようだった。


「今日は来てくれてありがとう。嬉しかった。玲香ちゃんの姿見えてたよ」

彼はそういうと、奥の部屋へ私を導いた。


「そうだ、携帯」

彼はそう言って私に携帯を渡した。


「ありがとうございます」

涙はとめどなくあふれ出し、自分でもコントロールができなくなっていた。


「泣かないで。お願い」

そう言うと、彼は側にあった3人がけのソファーに座り、その隣の席をポンポンとたたいた。

「こっちにおいで」


私は言われるがままに、彼の隣に座った。


「悲しいことがあったの?辛いことがあったの?」

これまで我慢してきた辛いこと、彼の優しさ、彼を目の前にして、すべてが混ざり合い涙の理由が何なのかわからなくなっていた。


「僕じゃ、君の悲しみを減らすことはできないかな?少しでも」

そういって彼は私の顔を覗き込んだ。

「五十嵐さん、私なんかに優しくしないでください」

心にないことを口走る。


「今日の玲香ちゃんはどうしちゃったのかな?」

彼は少し不安そうな顔をしてまた覗き込む。

「ごめんね。迷惑だったよね。驚かせちゃったよね」

私は大きく左右に首を振った。


そんなはずがない。

彼に会いたかった。

彼と同じ時間を過ごしたかった。


「私、五十嵐さんに優しくされたら、五十嵐さんのこと・・・・」

そういいかけて自分が今言おうとしていることにハッとした。


「僕のこと?」

「ごめんなさい。頼ってしまうから、それじゃいけないと思うから」

そういって本心をはぐらかす。


「僕は、君に頼ってもらって、ぜんぜん構わないよ」

にっこりと笑う。

彼の目じりがくしゃくしゃとしわになる。


「正直、これまで、妻以外の女性に興味を請ったことなんてなかったんだ。でも、君の素直で一生懸命なところが愛しくて、可愛いと思う。それが僕に何かを与えてくれるんだ」

彼の目は真剣だった。

「だから、君の悲しい顔を見たくない。何か力になりたい」

私にはその優しさだけで十分だった。



「今日は、君の退院のお祝いをしたくて、沙希ちゃんに相談したんだ。そしたらこんなことになっちゃって・・・・」

彼は申し訳なさそうに少し俯いて頭を掻いた。


「ありがとうございます。すごく嬉しい」

私の言葉を聞いて、彼の表情がぱっと明るくなった。


彼は私の顔から視線をそらし、胸元に目をやった。

「これ、つけてくれたの。嬉しいな。すごく似合ってる」

「せっかくいただいたから、付けてきました」

「素敵だよ」

「とっても気に入りました。ありがとうございます」

「よかった」

彼はそう言うと


「じゃあ、準備するから待ってて」

そういってソファーから立ち上がろうとした。

「ダメ」

私は突然自分の気持ちが抑えられなくなり、彼の腕を掴んでいた。


「玲香ちゃん・・・・」

「暫く、こうして側にいてくれるだけでいいんです」

「それで君の心が晴れるなら」

彼はそう言うと、再び私の隣に座った。


「僕の胸貸すから、泣いていいよ」

彼はそう言うと、私の肩に手を回し、優しく抱きしめた。


涙は止まることはなかった。

彼は私を抱きしめながら、優しく頭をを何度も撫でてくれた。


どの位時間が過ぎたのだろう。

彼の温もりの中で過ごしたのだろう。

涙はようやく止まった。


「玲香ちゃん。もう、いいよね」

彼は抱きしめていた腕を離し、私の顔のすぐ側まで顔を近づけた。

「・・・・」

私は何がいいのかわからなかった。


「僕、君が好きだ。だから、この気持ちもう隠さなくてもいいよね」

止まっていたはずの涙がまたあふれ出す。


「私も、五十嵐さんのこと、好きです」

私はこの言葉で、悲恋への扉を開いてしまった。


決して結ばれることはない悲恋。

それは彼にもわかっている。

私たちには守るべきものが他にある。

たとえお互いが求め合ったとしても、愛し合っていたとしても、それはいけないことなのだ。


犯してしまった罪の重さを確認しているかのように、しばらく二人は黙り込んだ。


そして、二人はお互いの気持ちを確かめ合うように一つになった。


彼の優しい言葉も、熱い吐息も今はすべてが私だけのものだ。

心も体も、彼の優しさで満たされていく。


「愛してる」

彼が私の耳もとで、そっと呟いた。

「わたしも」

彼の大きな胸にしがみつき、わたしはそう答えた。

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