◆19.緊急事態
私は優生と手をつなぎ、並木道を歩いていた。
「この間までは、桜が綺麗だったのにね」
優生は緑の木々を見上げて、黙って頷いた。
きらきら輝く優生の瞳。
私は、優生の姿を見つめながら、彼への思いは優生への裏切りにあたると、自分を嗜めた。
その日の夜、いつものように優生との時間を過ごした。
9時前には優生を寝かしつけ、聡の帰りをリビングのソファーの上で待つ。
ただ、頭に思い浮かぶのは、今日の彼の笑顔・仕草・声・・・・。
(・・・何を考えているんだろう?)
彼への想いが、自分の力では止めることができないものに変わりつつあることに、私はまだ気付かずにいた。
ただ、彼を想うと、胸の鼓動は大きく高鳴り、その音で私の中に隠れてた『女の扉』が開いてしまうのではないかと、不安になった。
鳩時計が10時を知らせる。
聡はまだ帰ってこない。
ウトウトしていた私は、このままでは眠ってしまうと思い、キッチンでコーヒーを入れようと立ち上がった。
すると突然、私の体の中に激痛が走った。
その激痛は、私の下腹部から、大きなドリルで押し込むように、体の中に襲ってきている様だった。
あまりの痛みで、息をすることがやっとだった。
私は、すぐ側にある携帯に、やっとの思いで手を伸ばし、聡へ電話をした。
何度かけただろう。
聡は電話に出ることは無かった。
こうしている間にも、痛みはますます激しくなり、このまま私は死んでしまうのではないかと怖くなってきた。
私は携帯のアドレスを開き、番号をダイヤルする。
「はい!!」
私は、痛みで意識が遠のきそうになりながら、電話の向こうの相手に向かって話し出す。
「沙希ちゃん」
「玲香ちゃん?」
「助けて欲しいの」
その後、私は何を話したのか覚えていない。
気が付くと、私は病院のベッドの上で横になっていた。
朝の日差しがカーテンを通して、壁紙にオーロラの光りのような動きを映し出す。
ぼんやりと揺れる光が、綺麗な映像のように、私の目の中に送られる。
周りを見回すと、心配そうに私の顔を覗き込む母と、少し離れた場所で、無表情に立っている優生の姿が見えた。
母は目に涙を溜めて、私の手を握った。
「目、覚めたんやね。心配かけて!!」
そんな母の顔を見て、私の目にも涙がこみ上げてきた。
「ごめんね。お母さんにまで・・・。心配かけちゃったみたいだね」
母はこっくりと頷く。
優生は私の顔をただ遠くからじっと見ている。
「優生ちゃん。ほら。ママもう大丈夫やからね」
そう言って優生の手を引き私の元に連れてきた。
優生の目には大粒の涙が光り、1粒こぼれ落ちた。
「私、昨日のこと、覚えてなくて。どうなっちゃってる?」
私の言葉に驚いたように
「昨日じゃなくて、一昨日やよ」
「一昨日?」
私の驚いた顔を見て、母はゆっくりと話し始めた。
「昨日の朝早くに聡さんから電話があって『玲香が緊急手術をせんなん』て言われてね」
私は起き上がろうとしたが、お腹の痛みで起き上がれなかった。
「玲香、あんた、手術したんやから、暫く動けんよ」
何がなんだか分からないが、どうやら大変なことになっている。
私の病名は《絞扼性腸閉塞》というものだった。
母は私に起きたことを順を追って話してくれた。
私が沙希に電話をかけ、マンションまで来てくれたこと。
沙希が救急車を呼んでくれたこと。
病院についてからも沙希が色々としてくれたこと。
聡が病院に着いたのは、朝になってからだということ。
母は肝心なときに、聡が居なかったことをしきりに気にしていた。
慣れない東京に出てきて、頼る人もいない。
そればかりか、一番頼りにしたい夫が頼りにならない。
娘の私が不憫に思えたのだろう。
「玲香。戻ってきたらどう?聡さん、忙しくてあんたのことまで手が回らんじゃない。こんなことになって!!」
母はそっと口元を押さえて、声を殺して泣いた。
「お母さん。そんな、泣かんといて・・・」
「だって、玲香・・・」
そう言うと、母はさっと背中を向けた。
「お母さんには言ってなかったけど、私、ペットショップで仕事させてもらっとるよ」
母の背中は小刻みに震えていた。
「店長さんもいい人で、沙希ちゃんもいい人で」
そう言うと、母は、両手で目を覆いながら振り返った。
「ほんとに、その沙希ちゃんには、感謝せんな」
「うん」
「昨日もお見舞いに来てくれて」
小さなワゴンの上には、かわいく飾られたフラワーアレンジメントが置いてあった。
「沙希ちゃんが預かってきたって」
少し背の高いピンクのガーベラが、私を見て、微笑んでいるようだった。
「店長かな?」
「でも本当に良くしてもらってるし、お母さんに心配かけたけど、もう大丈夫やから」
私には母の気持ちがありがたいほどよくわかっていた。
優生が私と同じ状況になれば、私だって母と同じ気持ちになるだろう。
「お母さんね。あんたが退院するまでは東京におるから。優生の幼稚園のこともあるやろうから」
母の優しさが、私の胸の奥まで染み渡った。
「お父さんが、私に、玲香がよくなるまで帰ってこんでいいって」
真っ赤な目をして母は笑った。
「ありがとうね。いつもお母さん達に迷惑ばっかりかけとるね」
「本当やね。でもどれだけ体が大きくなっても、私は玲香の母親に変わりないからね」
と言って、母は側にいた優生の頭を撫でた。
「玲香も、優生の母親なんやから、ちゃんと治さんと」
私は、ただただ頷いて優生に手を伸ばしていた。




