◆11.ちょっとした有名人
私は、浮かれた気分でお店に戻った。
東京に出てきてから、いい事など殆んどないと思っていたが、今日はとってもいい気分だ。
お店に戻ると、店長が私の帰りを待っていたかのように
「玲香ちゃん。まだまだ仕事はたくさんあるからよろしくね!!」
そう言っていくつかの仕事を任された。
「わかんないことがあったら、何でも聞いてね」
そう言うと、店長は店のレジの前に座った。
程なくして電話の呼び出し音が鳴った。
「はい、ペットショップ「プチ」です」
店長は変な裏声を出して、電話を受けた。
「はい。わかりました。お待ちしています」
そう言うと、私のほうを見て静かに受話器を下ろした。
「噂をすれば何とやらだね。さっき言ってた有名人が来るんだって」
「え?」
五十嵐雅弘のことなんだろうか。
私は少しとぼけて
「有名人って誰なんですか?」
と聞いてみた。
「あれれ?さっきは興味ないって感じだったのに、やっぱり気になるの?」
店長は私の顔をジロッと見ながら、少し意地悪な顔をした。
「あの、私、散歩の途中で五十嵐雅弘さんに会っちゃいまして」
「あらら・・・・」
店長は罰の悪い顔をした。
「もう会っちゃったの。その五十嵐雅弘が、今日来るんだって!!」
そう言うと、奥から小さなトイプードルの子犬を連れてきた。
「この子をお買い上げの予定なんだけど、気に入ってくれるかな?」
店長の腕の中の仔犬は、小さな瞳で私を見上げていた。
「かわいいですね。こんなかわいい子、気に入らない筈ないですよ」
「そうだよね。でも、なかなか難しい注文があってね」
店長は仔犬を自分の顔の前まで持ってき
「かわいいでちゅねぇ」
そう言うと、子犬の鼻と、店長の鼻とをこすり合わせた。
子供をあやすような優しい目だった。
電話から10分も過ぎただろうか。
お店のドアが開き、ドアの外には五十嵐雅弘がぽつんと立っていた。
「さっき会ったばっかりなのに、また会っちゃったね」
そう言うと、
「店長さんいる?」
彼は奥のほうを覗き込んでこう言った。
「今呼んできますね。お待ちください」
「よろしくね」
彼は小さく頭を下げて、私に手を振った。
「店長。五十嵐さんがいらっしゃいました」
店長は私の声を聞くと、仔犬をもって走ってきた。
「どうですか?」
店長は彼の様子を伺うように仔犬を差し出した。
「かわいいなぁ。この仔」
仔犬はほんとうに小さくて、彼の両手の掌の上でチョコンと抱かれていた。
「ウチ来る?」
彼は仔犬に小さな声で問いかけた。
暫くの沈黙・・・。
「決めた。この仔でお願いします」
そう言うと、仔犬の顔を見つめて
「ウチのやんちゃ坊主に踏んづけられないようにしないとね」
そう言いながら、仔犬の頭を優しく撫でた。
その様子を見ながら
「今日から新人さんがきてくれることになりまして」
店長は突然私の紹介をはじめた。
「うん。さっき会ったよね」
彼は私のほうを向いてウインクをした。
「はい」
「松本 玲香ちゃんです。またよろしくお願いします」
店長が私を紹介した。
「玲香ちゃんか。かわいい名前だね」
彼はそう言うと、仔犬を自分の目の高さまで、ゆっくりと持ち上げ、
「かのん?れおん?どっちがいい?」
と私の方を向いて訊ねてきた。
「どっちもかわいいですよ」
そう言うと
「れいかちゃんは漢字でどうかくの?」
私は聞かれたとおりに
「おうへんのれいに、かおるです」
さっと答えた。
「じゃあ、香る音で、カノンに決定!!」
彼はそう言うと、子供を高い高いするように、仔犬を持ち上げた。
「カノン。五十嵐カノン。いいんじゃない?」
そう言うと私の方を見て、にっこりと笑った。
目尻に出来る、いくつもの皺が、彼の優しさを強調しているようだった。
私はそんな彼の顔をうっとりと見つめている自分に気付き、慌てて気持ちを切り替えた。
「でも、私なんかの名前を取っちゃったら、変な子に育ちますよ」
「そうなの?平気だよ。今日君に会って、一生懸命な姿を見て、なんだか胸を打たれんだ」
「この仔も、玲香ちゃんみたいな女の子になってくれたらって思ったから・・・」
私は内容も理解できないまま、今ここにいることすら、夢のように感じていた。
「五十嵐さん。ナンパはいけませんよ」
店長は彼の顔を覗き込んでそういった。
「ちがうよ。僕は妻子持ちですから」
と、彼は白い歯を見せて笑った。
「でも、一生懸命な人って、見ていてすごく気持ちよくて、応援したくなっちゃうでしょう?」
「そうですね。本当に玲香ちゃんは一生懸命がんばってくれてます。今日来てくれたばかりとは思えません」
店長はそう言うと、私を見て頷いた。
夢のような時間はあっという間に過ぎた。
彼は店長と引渡しの日などを話し合い、家へと帰って行った。




