◆9.新しい自分
お店の前に来ると、店長が店の掃除を始めていた。
真剣なのだろう・・・。
私がいることに気付きもせず、黙々と掃除をしている。
「あの・・・」
「はい?」
そう言うと、あの無精髭の顔が私のほうを見た。
「えぇっっっ!!」
店長は目玉が飛び出しそうな顔をして驚いている。
「もしかして、ウチに来てくれるんですか」
「はい、そのつもりで今日伺いました」
「ありがとうございます。ありがとうございます!!」
店長は私を見て深く何度もお辞儀をした。
「じつは、沙希ちゃんが急にお休みになったので困ってたんです」
店長はそう言うと、額の汗を上着の袖でさっと拭って、私を見た。
「あの、沙希ちゃんって?」
「はい。昨日いた子なんですけどね。実家のおじいさんが危篤だそうで、急に実家に戻らなくちゃならなくなって」
「そうだったんですか・・・」
「なのでね。わたし一人でお店をやってかなくちゃいけないって正直焦ってましてね・・・」
無精髭をかきながら、安堵の表情を見せる店長に、私もつられて嬉しくなった。
「今日からよろしくお願いします」
「こちらこそですよ。お願いします」
そう言って、私が頭を下げると、店長もまた深く頭を下げた。
「こんなお店なんですけどね、わたしには、大事なお店でしてね」
「こんなお店だなんて。立派です」
あまりに謙遜した言い方だったので、思わず立派だなんて口走ってしまった。
「いいんですよ。決して立派なお店じゃないですから。でも、わたしにとっては大切な城です」
店長はそう言うと、感慨深そうに店の中を見渡した。
「思い出って消えないんですよ。ウチから動物を迎えてくれたお客さんが、本当に嬉しそうに迎えに来てくれるんですよ。そのお客さんの笑顔がたくさん詰まってるんですね・・・」
「わかるような気がします」
「そうですか。わかっていただけますか!!」
「はい」
店長の外見とは違う、柔らかい気持ちが私にも伝わっていた。
「あなたのような人に来ていただけて、本当によかったです!!」
「そんな。足引っ張っちゃうと思いますがよろしくお願いします」
店長はニコニコしながら
「最初は誰でもそうなんです。直に慣れますよ」
そう言うと店の奥に入っていった。
「あの・・・。私、名前も聞いてませんでしたね」
「そうですね。私言ってませんでした」
そう言うと二人で声を出して笑った。
「私は店長の森田一道といいます。沙希ちゃんからは店長といわれてるんですが、影では『かずぼー』といわれているようですけどね」
そういってにやりと笑った。
私も慌てて
「松本 玲香と申します」
「まつもと れいかちゃんね」
「ちゃんだなんて・・・」
恥ずかしさのあまり、顔が熱くなるのを感じた。
「いけませんでしたか?玲香さんのほうがいいですか?」
「お任せします」
私の返事を待って店長は
「じゃあ、玲香ちゃんでいいじゃないですか?まだまだ、若いですよ」
そう言って手に持っていたものを私に差し出した。
「これ、エプロンです。お店にいるときや散歩に出かけるときはこれをつけてくださいね」
「わかりました」
わたしは、可愛い犬のプリントが入ったピンクのエプロンを受けとった。
「それから、ここだけの話ですよ。このお店に、ちょっとした有名人が来るんです」
「そうなんですか」
あまり興味の無い私は、軽く受け流した。
「あれ?玲香ちゃんはそういうのは、興味なしですか?」
「そんなこと無いんですけど、お客様だったら、キャーキャーいえないでしょうし・・・」
私の答えを聞くと
「素晴らしいです。完璧ですね」
そう言って店長は両手を高く上げ、2回手を鳴らした。
その後、仕事の内容を店長から詳しく説明してもらった。
私の仕事は、お店にいる犬の世話がメインだ。
トイレの始末から、掃除、散歩などなどやることは山のようにある。
「色々あるんですが、徐々に覚えていってください」
そう言うと、店長はまた奥に入っていった。
しばらくして3頭の犬達を連れてやってきた。
これはトイプードルとチワワだろう。
「まず、この子達のお散歩お願いできますか?」
「わかりました。どの位行けばいいですか?」
店長は天井を見上げ
「そうですね。30分程でしょうか?」
そう言うとわたしに手綱を渡した。
「気をつけて行って来て下さいよ」
「わかりました。行ってきます」
私は店のドアを開け、犬たちを連れて歩き出した。
(・・・30分なら、結構な距離を歩くことになる。それなら、さっきの桜並木をゆっくりと眺めながら歩こう)
春の風が心地よく私の頬を通り過ぎた。
(・・・ほんとうに春なんだなぁ)
私は空を見上げ、心の中にも春の風が通り過ぎるのを感じた。




