ハッピーエンドからはじめよう
“このネタ、温めますか?”という短編集においていた作品です。
ジャンル変更にともない、短編として投稿することにしました。
―――ハッピーエンド迎えてから思い出すとか…………最悪。
◇◇◇
屋上には二人の生徒がいた。
もう昼休みも終わる時間だからか、他に人はいない。あと10分もすれば学校中にチャイムが鳴り響くだろう。
「三春」
生徒の一人――水無月慧は、食べ終わった弁当を片付けていた少女の名前を呼んだ。
「何ですか、先輩?」
その呼び掛けに応えた少女は、三春弥生。
学校でも指折りの美人であり、水無月の恋人だ。
「お前、そろそろ名前で呼べよ」
二人が付き合いだしてから1か月が経つ。
水無月の言う通り、“そろそろ”名前で呼んでも良い時期なのかもしれない。
「…………先輩だって、私のこと、苗字で呼んでるじゃないですか」
どうやら、三春は名前で呼ぶのが恥ずかしいらしい。
名前呼びを要求する恋人に素っ気なく答え、ツンとそっぽを向く。水無月から反らされた顔は、頬が少しだけ赤く染まっていた。
「弥生」
「………っ」
突然名前を呼ばれて驚いたのか、三春は咄嗟に水無月の方を向いてしまう。
そして、思いの外真剣な表情をしていた水無月と目が合うと、もともと赤くなっていた彼女の顔が、さらに赤く染まっていった。……耳まで真っ赤だ。
三春の反応に気を良くした水無月は、顔を近付けて彼女の耳元で囁く。
「なあ、弥生。……俺のこと名前で呼べよ」
先程と変わらない要求。しかし、言葉に含まれる甘さが全く違った。
「…………ひゃっ」
ギュッと目を閉じて黙っていると、熱を持った耳にフッと息を吹きかけられた。
三春は慌てて耳を押さえて逃げようとしたが、それに気付いた水無月が抱き竦める。
恥ずかしがった三春が暴れると、“名前で呼ぶまで逃がさない”というように彼女を拘束する腕の力が強まった。
「弥生?」
もう一度、耳元で名前を呼ばれる。……唇が耳に触れそうなくらい近くで。
「……け、けい?」
「………っ。……もう一回」
「……慧」
照れたように、けれど嬉しそうに笑う水無月に見惚れるのと同時に、三春は謎の既視感に襲われた。
まるで、この光景をどこかで見たことがあるような……そう、画面越しに――青空が広がる屋上で、照れたように笑う攻略対象の姿を。
◇◇◇
私には前世の記憶がある。
別に、“前世で受けた傷が~”とか“前世からの敵に狙われて~”とか、そういう話ではない。……また、遅めの中二病でもない。
私の前世は………この世界を乙女ゲームとしてプレイしていた。
いや、正しく表現するなら、“私は前世でプレイしていた乙女ゲームの中に転生した”……だろう。しかも、エンド迎えてから思い出すというオマケ付き。
“もっと、早く思い出してれば……っ!”と思わずにはいられない。
私の前世の記憶はあまり鮮明なものではないので、そこまで詳しいことは分からないが、ここはヒロインのバイト先である喫茶店を舞台にした乙女ゲームらしい。……私のバイト先ですよね。温和で優しそうな喫茶店のマスターも攻略対象の一人だったんですよね、分かります。
攻略対象の人数とか、各キャラクターの詳細まで覚えていないが、最近の乙女ゲーらしくダミーヘッドマイクが使われていたことはよく覚えている。……だから先輩、あんなに吐息が多かったのか。危うく膝が生まれたての小鹿みたいになるとこだったわ。
私の恋人であり、学校でもバイト先でも先輩な水無月慧は、攻略対象だ。
そして今の私をゲームでいうと、その水無月慧のルートのハッピ-エンドを迎えたヒロインといったところか。
……私、本当に先輩が好きなのかな?
もしかして、ゲームのヒロインだから彼に惹かれているのだろうか。……非現実的な考えだが、自分が生きている世界が乙女ゲームの世界だった、という以上の非現実はないだろう。
今の私の気持ちとしては、彼のことが好き……なのだと思う。
でも、じゃあ、先輩は?
彼は“ゲームヒロイン”に惹かれたのかもしれない。
……でも、それはきっと“私”じゃない。
――もっと早く思い出していれば………彼を好きにはならなかったのに。
◇◇◇
ハッピーエンドから1日目。
下校時刻、下駄箱の前で先輩に会った。
「あ」
ばっちり目が合ったので、こっそり逃げる訳にもいかない。無視して帰るのも不自然だろう。
二年の私と三年の先輩では使用しているフロアが違うから、先輩を避けようと思えば簡単に避けられる。“委員会の仕事があるから……”と昼食を別にしたので、今日先輩と顔を合わせるのはこれが初めてだ。
……ここで会っちゃったのは誤算だったけど。
まだ避け始めて1日目だ。今日くらいは一度も先輩に会わないだろうと思ったのに……これも、私がゲームヒロインで先輩が攻略対象だからなんだろうか。
「弥生」
自分から避けていたくせに先輩から声を掛けられて嬉しいと思う、この気持ちは嘘じゃない。嘘であって欲しかったけど、彼に会えて嬉しいという気持ちは否定できないくらい大きい。自分でも勝手だと思うが、先輩が声を掛けてくれなかったら、家に帰ってどんより落ち込んでいただろう。
ごめんなさい、先輩。…………ごめんなさい。
心の中で謝りながら、俯く。
「すみません、先輩。私、今日は用事があるので……」
そう言って、先輩が何か答える前に私はそそくさとその場から立ち去った。
会ってしまっているのだからそんなに急いで帰る必要もないだろうと自分でも思うが、今は先輩と一緒にいたくない。だって、彼が口を開く度に怯えてしまう。
私は――先輩に振られるのが怖い。
ハッピーエンドから3日目。
放課後、私が帰る用意を整えていると教室内が少しざわついた。何かあったのかと、何気なく教室の入口の方へ視線を向ける。
……なんで。
もう、今日会うことはないだろうと思っていた人が教室の前に立っていた。
クラスメイト達が騒いでいたのは三年が二年の教室に来ることが珍しいからだろう。私と先輩の関係を知っているクラスの女子数名はニヤニヤと楽しそうにこちらに目を向けている。……放課後で人が少なかったことに心の底から感謝した。
正直、窓から逃げ出したいくらいだったが、人目もあるし物理的に無理だ。第一、先輩を無視して教室を出る訳にはいかない。
仕方なく、教室の前で待っている先輩の方へ足を向けた。
「弥生、ちょっと良いか?」
そう尋ねてきた先輩の顔を見て、なんとなく昨日のメールの話だと悟る。メール嫌いの先輩なら詳しく理由を聞いてこないだろうと、メールで“しばらく昼食は一人でとります”と送ったのだが、裏目に出たようだ。まさか教室まで来ると思わなかった。
……心配、してくれたのかな。
申し訳なさと嬉しさでいっぱいになった心を押し隠し、私は足元に視線を落とす。
「すみません、先生に呼ばれてるので……」
担任からはいつでも良いと言われている用だったが、それを引き合いに出して断った。
先輩は一言“そうか”とだけ言って答えたが、俯いている私には彼がどんな表情をしているのか確かめる勇気はない。
その後少しだけ続く沈黙に気まずさを感じていると、そっと頭に手を置かれた。
「何かあったなら俺に言えよ」
頭の上で苦笑されているような気配を感じたが、そう言う先輩の声はハッとするほど真剣だ。
そういえば、バイトで失敗して落ち込んでいたときもこうしてくれたなと思い出す。……それと同時に、私が先輩を意識し出したきっかけでもあるそれがゲームのイベントだったことも思い出した。
なんで……なんで、こんなに優しいんだろう――もうゲームは終わっているのに。
ハッピーエンドから10日目。
廊下で先輩を見かけたので、気付かれる前に踵を返して立ち去ろうとしたのだが、バッチリ目が合ってしまった。
先輩は足早に私の方へと向かってくる。
ここ最近、私が彼を避けていることに勘付いたのだろう。いつもより少し表情が硬い。
「おい、弥生!」
背を向けて駆け出すと、後ろから私を呼ぶ声が聞こえる。
どこか焦ったような声に後ろ髪を引かれながらも、私は振り向かなかった。
ハッピーエンドから20日目。
6限が移動教室だったので、クラスに戻る前に借りた本を返そうと図書室に寄る。図書委員の友達と雑談し、少し遅くなったなと思いながら自分のクラスへ向かうと、いつかのように教室の前に先輩が立っていた。
……っ、まだ気付かれてないよね?
咄嗟に廊下の壁の陰に隠れる。
ジッと息を潜めていたが、誰かが近付いて来る気配はない。ドクドクと脈打つ胸を押さえ、私はゆっくりと息を吐き出した。
……先輩、…………慧。
目を瞑り、心の中で彼の名を呼ぶ。
会いたい。会って、話したい。
好きだと告げたい。抱きつきたいし、抱き締められたい。
先輩と会ってしまえば、私は自分の気持ちを押さえ切れない。
ゲームはもうとっくに終わっている。“私”に好かれても、先輩は困るだけだろう。
だから、私はこのまま先輩と会わないで、彼との関係が自然消滅するのを待てば良い。彼の口から、決定的な言葉なんて聞きたくない。
でも……もう一度だけ、名前を呼んで欲しい。
初めて私を“弥生”と呼んでくれたときの先輩の顔が頭に浮かぶ。
「弥生」
だから、幻聴だと思ったのだ。
「…………っ、なんで……?」
目を開けると驚くほど近くにあった先輩の顔を呆然と見上げながら、私は絞り出すような声で問い掛けた。
なぜ目の前にいるのか。……私の心の声が聞こえた訳ではないだろうに。
「制服の裾が見えてたんだよ。ずっとそこにいるから、何となく弥生だと思った」
先輩の言葉にハッとして、制服のスカートを見下ろす。
慌てていたせいか、壁に隠れきれていない。確かに、先輩がさっきまでいた場所からならスカートの裾が見えるだろう。
「……ご、ごめんなさいっ」
それだけ言って、すり抜けて逃げようとすると腕を掴まれた。逃がさないとばかりに掴まれた腕が少しだけ痛い。
「待て。俺から逃げるな」
「………………」
「弥生」
黙ったまま顔を俯けていると、先輩が私の顔を強引に上向かせる。
「なぜ俺を避ける?」
久しぶりに見た先輩の顔は、思わず息を飲んでしまうほど真剣で。
――私は全てを打ち明ける覚悟を決めた。
◇◇◇
「お前はバカだな」
全ての事情を話した私に、先輩は一言そう言った。
「……だって」
「俺が好きなのは“お前”だ。会ったこともないゲームヒロインなんかじゃなく、今、俺の目の前にいる――三春弥生が好きなんだよ」
「…………っ」
「真面目なところも努力家なところも……変に抜けてるところも」
「………………」
「どうでもいいことを気にするところも、一人でぐるぐる考えて空回るところも」
「…………ひどい」
「事実だろうが」
「……そうかもしれませんけど」
「そういうとこ、全部ひっくるめて好きなんだ。……分かれ」
“私も好きです”と涙声で言った私の言葉が先輩の耳に届いたのかどうかは分からない。
けれど。
―――彼は……慧は、あのときのように照れたように笑ってくれた。
私にしては登場人物が少ない。
《簡易人物紹介》
ヒロイン:三春 弥生
この世界と似た乙女ゲーをしていた前世を思い出した高校二年生。前世の記憶は曖昧。作者のポリシーにより、彼女は転生ヒロインではなくあくまで前世を思い出したヒロインである。
叔父に頼まれ、喫茶店で短期アルバイトをしていた。喫茶店のマスターは叔父の親友。
ヒーロー:水無月 慧
乙女ゲーの攻略対象だというのに随分マトモな奴。作者的にこんなキャラがゲームに出てても美味しくない。←オイ
ヒロインと同じ喫茶店でバイトをしている。高校に入ってからずっと続けているので結構長い。