【2】幼なじみの牛(後)
目をわずかに見開き、誠の顔に反応した幼なじみの首。口を小さく動かしている。何か言っているようだ。しかし、声は聞こえない。
誠は、思わず目を背けた。つらい。しかし、その視線の先には、横置きにされた透明のカプセルがあった。その中に彼女の体が見える。
滑らかにくぼんだ腹、小さくふくらんだ胸、細くてしなやかな鎖骨……。そしてその先には、およそ〈ヒト〉とは似ても似つかない、突起物のような頭が載っていた。黒目だけの目、単なる穴のような鼻、横に切れ込みを入れただけのような小さな口……。頸部らしいものはない。胴体に頭部が直接載っているように見える。動画で見たとおりだ。
うつむく誠。呼吸が荒い。肩と背中が大きく律動している。幼なじみの首も体も、これ以上正視することができなかった。涙が目から止めどなくあふれてくる。
息ができないほど胸が苦しくなるのをこらえて、もう一度幼なじみの顔を見た。彼女の頬にも涙が伝っていた。誠を認識している何よりの証拠だった。
「うおおおおおおッ!」
われを忘れて丸い入れ物に抱きつく誠。しかし、ひやりとして硬い感触がむなしく頬に伝わるだけだった。こんな咆哮が出るとは本人も思わなかった。
もう一度幼なじみの顔を見る。自分のことをここまで思ってくれている誠をうれしく感じているような、それでいて全てを諦めているような表情だった。ぽろぽろと涙を流している。
彼女の口が再び開いた。
誠は、涙でぼやけた目で、その動きを凝視する。
〈あ・り・が・と……。ご・め・ん・ね……〉
と言っているように見えた。いや、そう言っていると確信した。
おもむろに立ち上がり、一番近くにいた研究員に歩み寄る誠。
〈ボッ……〉
オイルライターをつけたときのような音がして全身が緑の光に包まれる。光が弱まったとき、等身大アルダムラ状態の誠が現れた。
特撮ヒーローのような出で立ち。鏡のような金属色のヘルメットとボディースーツに、緑の蛍光色と黒があしらわれている。前腕部と膝下がわずかに太い。
左手で研究員の胸ぐらをつかむ誠。
「おい! 彼女を元に戻せ!」
と、右手で幼なじみを指差した。
研究員は、おびえ、とまどっている。
誠の耳に別の研究員の声が入ってきた。
「エクチーコ! エアマチ=クチーコ!」
しかし、誠は一切気に掛けない。
「元に戻せって言ってるんだ!」
胸ぐらをつかんだ左手で、幼なじみが収められた装置の方へ振り飛ばす。
よろめきながら、その装置に手をつく研究員。
「ほらあああ! 分かるだろ!? 早くしろ! 元に戻せぇ!!」
研究員の後頭部と肩をつかみ、その顔を幼なじみに向けさせる誠。
「エタム! エターム!」
別の研究員がアルダムラ状態の誠の肩に手を添え、割って入る。
すぐに向き直る誠。
「ぼまえが、しぇぎにんしゃか? えっ!?」
肩に置かれた相手の手をつかみ、その研究員に詰め寄る誠。涙声になっていた。
両手で胸ぐらをつかむと、
「だんとかしろおおおおお!」
と、上ずった声で怒鳴りつけた。色も形も、てるてる坊主のような研究員のコートをつかんだ両手が緑色に輝く。
研究員は、自分の両手のひらを誠に向け、他の者に助けを求めるように、忙しく何度も左右に目を向けている。その口は、半開きでわずかに震えていた。
「ぼどにぃ! ぼどせええええええ!」
アルダムラの中の誠は泣いていた。涙が止まらなかった。言葉が通じないことにもどかしさ、いや、怒りを覚えていた。
誠の両手が緑色に強く光る。恐怖の表情をいっそう濃くする研究員。命の危険を感じている顔だ。
「ばやぐうううううう!」
誠の両手が強烈な光を放った。研究員の顔から首根までが緑の炎に包まれたような状態になったかと思うと、皮膚も頭蓋骨も一瞬で焼けて炭化し、散り散りになって消えた。
はたから見れば、〈ジリジリッ……! シュウウウ……〉という音が聞こえてきそうな光景だった。出血はない。頭部から胸元まで消え失せ、その断面が黒く焼けこげている。
誠がわれに返って手を放すと、上半身の一部を失った研究員がどさりと倒れた。
「エル……エルケテッ!」
「エルケテ・クサトゥッ!」
その光景を見て一斉に逃げだす他の研究員たち。
「まっ、待てっ!」
おろおろしながら叫ぶ誠。
研究員のひとりが一瞬立ち止まり、機械を操作して逃げていくのとほぼ同時に、部屋に並んでいたカプセルと丸い透明容器の光が一斉に消えた。
「なっ、何をした!」
幼なじみの首が入った容器に駆け寄る誠。暗くなった容器の中に、彼女の『ほうけた』顔があった。目も口も半開きで全く動かない。先ほどのような『生きている』気配がなかった。
「めぐみッ! めぐみッ! 起きてくれ! べぐみ! べぐびいいいッ!」
容器を何度も叩く誠。めぐみと呼ばれた幼なじみからの反応は、もうない。
「いっだい何をしやがっだんだあああ!」
誠の叫び声が誰もいない部屋にむなしく響いた。
〈ズズーーズズズズーーーーッ!〉
次の瞬間、太いピンクの光線が天井から床を斜めに貫き、幼なじみが収められた装置のそばを通った。光線が通った床や壁には、黒い焦げができている。
誠は、それを気にも留めずに幼なじみの容器を見つめている。
「どうして……どうちて……どぼちて……」
天井から再び太いピンクの光線が一直線に走り、壁や床を切り裂いていく。紙切れのようなものがいくつも舞い上がり、部屋の中の物が外に吸い出されていく。
さらに、ひとつ、またひとつと、宇宙船の中を切り裂いていくピンクの光線。誠は全く動じない。
突然、床がぐらりと動いた。誠のいる付近だけではない。至る所の床が裂け、はるか下の地上が見えた。
誠がいる床が大きく傾く。遠くから悲鳴や叫び声が聞こえる。
床が反転し、空中に放り出される誠。
「めぐみいいいいいいいいいいいいい!」
飛ぶ気力はもうなかった。幼なじみが収められている装置に向かって無意識に手をのばす。手の甲に幼なじみの顔が映ったような気がした。
指の間から見えていた装置が遠のくにつれ、幼なじみの顔も手の甲をすり抜けていく……。そして……、見えなくなった。見えているのは、いくつにも切り刻まれた調査船の残骸が、それぞれあらぬ方向へ飛んでいく光景だけだった。
透き通るように青い空、散っていく宇宙船の残骸、はかなく消えていく幼なじみの顔……。それから先は、よく覚えていない。
(『元に戻せ』って、イケット語で何て言うんだろ……。あいつら……自分たちの敵国語くらい教えてくれても、いいじゃないか……。そのまま、俺の頭に入れるだけなんだろ……? 簡単じゃないか……)
ただ、落ちていく中で、そんなことをぼんやりと考えていたような気はする。いや、夢の中だったのかもしれない。
――敷目天井と呼ばれる木の天井。そこから垂れ下がった丸い蛍光灯とスイッチひも……。誠はベッドの上にいた。
おもむろに体を起こす誠。真っ青な布団カバー。少し黄ばんだ白い唐紙に、くすんだ青い横線が入った押し入れのふすま。
他には何もない。今の誠の心みたいに空っぽの部屋。
涙が誠の頬を伝う。
押し入れのふすまに幼なじみの顔が浮かぶ。ただ、ぼんやりと正面を見つめていた。
どのくらいたっただろうか。誠から見て右側のふすまがすっと開いて、美月が顔を出した。デニム地のマキシ丈ワンピースを着ている。
「おじゃま……するね……いい?」
美月の言葉にこくりとうなずく誠。頬がごわつくほど涙を流していたが、隠さなかった。
美月は、誠のいるベッドに腰を下ろした。じっとうつむいている。
「ここ……美月さんの……家……?」
誠は、青い布団カバーをぼんやりと眺めたまま、ぼそりと言った。
「うん……」
美月がこくりと小さくうなずく。
「ねぇ……イケット語で『元に戻せ』って何て言うの?」
誠が言った。美月は少し間を置くと、やがて、つぶやくように言った。
「エソドミ……ノトム……」
「あの時……それが言えたら……、彼女……助かったかな……」
誠の声が震えていた。
「い、いえだら……たずかったかな……」
と、言って鼻をすする誠。涙と鼻水が喉にからんでうまく言えない。
「どぼちたら、たずかったのかな……」
何も答えずに、ただ自分の手を誠の手の上にそっと載せる美月。誠は布団カバーをぎゅっと握りしめた。その拳を、美月の載せた手が優しく包み込む。
「どぽにか……できだかな……」
涙で何も見えない。誠は分かっていた。美月が答えられないことも、美月はもちろん、彼らの力ではどうにもならないことも……。頭に刻み込まれた知識で分かる。直接力を行使できるのであれば、地球人に武器を貸し出すなどという回りくどい手段は取らない。どんなにお願いしても、泣いても、喚いても、無理なことなのだと……。
しかし、やりきれなかった。ただただ、やるせなかった。
「っぶっ……っぶぶうっ……ぶふっうううう……うううう……うううううう……」
こらえることができなかった。堰を切ったように泣き声が出てきて、もう自分の力では止められなかった。
美月は、ベッドに載せていた腰をずらすと、むせび泣く誠を優しく抱き寄せた。
「むううう……むう……ううううう……」
美月の胸元に顔を埋め、声を上げて泣く誠。こもった自分の泣き声が頭の中で響く。やるせない気持ちを包み込んでくれる美月に母を感じ、同時に女性を感じた。その胸は柔らかく、あたたかかった。
服の繊維を通って、胸元にあたたかく伝わってくる誠の息。美月は、ふと、誠に愛しさを覚えた。誰かに聞けば、『それは同情だ』と答えるかもしれない。しかし、美月にとっては、それでは説明がつかない感覚だった。
どのくらい泣いていただろうか。誠の気持ちが、だいぶ落ち着いてきた。南窓から黄色い日の光が低く差し込んでくる。もう夕方だ。美月はほとんど動かずに誠を、その気持ちごと、包み込んでいた。美月の頬にも涙が伝っている。
突然、ガラス戸がガタガタと音を立て、部屋が小刻みに揺れたかと思うと、
〈ズズズズズ……ドドドンッ……!〉
地響きとも爆発音ともつかない音が聞こえた。
美月は、誠をぎゅっと抱きしめると、手を両肩に添えて優しく引き離した。誠は、肩で大きく息をしながら、うなだれている。
ベランダに立つ美月。正面に見える団地の棟の向こうで、もうもうと黒煙が上がっていた。
白い物体が空中でふらふらと不安定な動きをしながら飛んでくる。小さく見えていたのが次第に大きくなる。巨大な宇宙船の残骸だ。目算で100メートル以上はあるだろうか。
動じることなく、じっと見ている美月。残骸の断面がくっきりと見えるほど近づいてきた。
次の瞬間、美月は、自分の背中に人の手が触れるのを感じ、振り向いた。そこに、うっすらと緑の光をまとったアルダムラ状態の誠がいた。鏡面加工のような体の曲線に沿って美月の姿が映りこんでいる。
残骸は、団地の棟をかすめるように向かってきているが、まだ距離はある。誠は、ベランダから空中に飛び出すと、その残骸を受け止めた。美月は、頼もしそうに、遠くに見える誠のアルダムラを見ていた。
しかし、誠は、飛んできた巨大な残骸に押されていた。完全に止めることができない。
(大型化!)
頭の中でイメージを描く誠。緑の光に包まれる。光が消えるにつれ、大型化したアルダムラが姿を現した。
身長数メートル。頭部は流線形。胸がたくましく張り出し、腰がくびれている。前腕部と膝下がひと回り太い。機体色は基本的に等身大の時と変わらない。鏡のような金属色に、緑の蛍光色と黒のポイントカラーだ。誠の体は、大きな胸の中に収納されている。
(正義の味方のまねごとでもすれば、この気持ち、少しは晴れるかもしれない)
誠はそう思っていた。
残骸の動きが完全に止まった。
アルダムラの足が緑色の光に包まれたかと思うと、100メートル以上ある巨大な残骸を押し戻しはじめた。眼下に見える団地が遠ざかっていく。
(どこか安全な場所に落とそう……。海がいいかな……)
誠がそう考えていたときだった。
(!!!!!!)
突然、誠のアルダムラがすっ飛ばされ、地面に叩きつけられた。地面がえぐられ、大きな土煙が上がる。
全ては一瞬のことだった。黄色い空にピンクの軌跡を描きながら、黒い固まりが誠のアルダムラに接近し、肉眼ではほぼ捉えられない速さで蹴り飛ばしたのだった。
〈ズズズズズズズン……ゴゴオオオンッ!〉
誠が手放してしまった宇宙船の残骸は、轟音を立てて団地から離れた住宅地に激突した。
身長数メートルの誠の大型アルダムラがクレーターのように開いた穴の中心に倒れていた。
おもむろに立ち上がる誠のアルダムラ。見上げると、ほぼ同じ大きさの黒い大型アルダムラが空中に立っている。低くなった太陽を背にして、その輪郭が輝いていた。