公募ガイド 虎の穴 第11回 投稿作品 『ささみ』
第11回課題
話らしい話のない話(しかし、何故かおもしろい小説)
「ささみ」 あべ せつ
その男は毎日やってきた。
気が付くといつもガラスケースの前に立っている。そして何故か鳥のささみを一つだけ買っていくのだ。
多美子は不思議でならなかった。
ここ「鳥安」は駅前商店街の中にある小さいが古くから営業している老舗の鳥肉屋で、新鮮な鶏肉がお手頃価格で買えるとあって毎日お昼時や夕飯の支度時には近所の主婦たちがこぞって買いに来ていた。
特に1枚100円のチキンカツは手のひらサイズと小ぶりながらも、多美子が丁寧に下ごしらえしてあり、あとは家庭で揚げるだけという手軽さから、鳥安一番の人気商品で店頭に並べれば並べた先から完売するほどだった。
しかしその男はそんなチキンカツには目もくれず、毎回ささみを一切れだけ買っていくのだ。
ささみは100グラム120円の高級ささみと、格下の80円の二種類があるのだが、男は高い方のささみを一つしか買わない。
一切れはせいぜい50グラムなので60円だけを支払っていくのである。
男が初めて店に来たのは二週間前。
昼時の一番忙しい時が一段落し、やれやれようやくお昼にありつけると、店頭の隅の小机に腰かけ、弁当を使おうとしたとき、やおら店先から声がした。
「はいはい、いらっしゃいませ。」
多美子が開けた弁当のふたをまた閉め、重い腰をよっこらしょと上げて店先を見るが人影がない。気のせいかと思い、再び腰を下ろすとまた声がした。
「すみません。ささみを一つ下さい。」
多美子は今度は伸び上って見るとガラスケースの向こうに小柄な男が立っていた。
陳列台の上に乗せた秤のせいで男の姿が見えなかったらしい。陳列台の上すれすれに男の頭先と秀でた額がかろうじて見えていた。
子供かと思い、多美子も爪先立ちで覗き込むと、大きな目をしたかなりの童顔の男で、その若々しい肌は少年のようにも見えるのだが、それにしては長めに伸ばした頭髪に白いものが多く混じり中年のようにも見える。
「ささみ一個だけでいいのかね」と怪訝に思った多美子が聞くと、男はうなづいた。
多美子は少々面倒に思いながらも保冷ケースからささみを取出し包んで渡した。
男はありがとうとお礼を言うと、そそくさと帰っていった。
それから翌日も、その翌日も同じ時間に男は来た。
多美子は男に自慢のチキンカツを勧めてみたが、やはりささみだけを買っていく。
貧しいからなのかと思い、80円の方のささみなら二個で60円にしてあげるよとも言ってみたが、いらないと言う。
それに昨日は向かいの果物屋で2500円のスイカを2つも買っているのを見かけた。どうやらそれほど貧しいというわけでもないらしい。ならなぜ毎日毎日買う必要があるのだろう。まとめ買いをして冷蔵庫に入れて置けばいいじゃないか。
多美子はふと男が鳥肉を毎日生で食べているのではないかといぶかった。
男の顔立ちは日本人にしては彫が深く、どことなく異国の血が混じっているようにも見える。あちらの国の風習はよく知らないが、ひよっとしたら生で食べる習慣があるのかもしれない。
新鮮な鳥でないと生食できないから、その日の分だけ買いに来る。ああそうだ。きっとそうに違いないと思い、思い切って男に
「生で食べたらあかんで」と言ってみた。男はびっくりしたような顔をしたが、苦笑いして「はい」と答えた。
それからぷっつりと男は来なくなった。
多美子は余計なことを言ったかと悔やんだが、もう後の祭りだった。謎は謎のまま残されてしまった。
夏が過ぎ、秋になった。
「あら、ずいぶんお久しぶりね。」
店先で栗や梨を並べていた真理子は夏にスイカを2個もぶら下げて帰った小柄な男を見つけると声をかけた。
年齢不詳の中近東のハーフのような顔をした、この特徴的な男を真理子は見た瞬間に思い出していた。
「うん。18歳の長老ネコが死んじゃったら、なかなかこちらに来る機会もなくなっちゃってね。」
「ネコ?」
「うん。鳥のささみが好きだったから」
男はそう言って、ちらりと向かいの鳥安を見やった。
完