02
制服の皺を伸ばし、シキが拾ってきてくれていたんじゃないかと思う鞄の中からブラシを取り出して髪を整えてから部屋を出ると、目の前に広がったのはやたらと広い吹き抜けのような場所だった。
何、ここ! と驚いて立ち止まっていたら、
「準備を終えたのならば早く来い」
と言うシキの声が、吹き抜けの下の方から響いてきた。
多分廊下だと思う吹き抜け側の手摺から身を乗り出して覗きこんでみたらと、その吹き抜けと同じだけの広いホールの中にシキ、そして昨日は見たことがなかった二人の男の人がいて、シキと同じように私の方を見上げていた。その三人ともが私が見たこともないような服を着ているのを認め、制服が目立つって言われたことに納得する。
きっと私の服装は、この世界にとっては異質なものであることに違いない。
「あまり身を乗り出すと落ちるぞ」
「やっぱ、落ちたら痛い…よね?」
「痛いだけで済めばいいけどな」
そう呆れたように笑ながら答えたシキには、昨日の夜、少しの間だけ見せていたような冷たい雰囲気などなかった。きっとこれがこの人本来の雰囲気なのだろう。
「あ、そうだ。ねー? 部屋はあのままでいいの?」
「あのままって?」
「使いっぱなしだから、ちょっとは掃除した方がよくない?」
あんなに立派なベッドから持ち主を追い出しちゃったのだろうし、だったらせめて何かお礼をと考えていたら、「構わない」という素っ気ない返事が返ってきた。
「元々この屋敷は借り物だし、それにもうすぐその持ち主も戻ってくる。後はそいつに任せればいい」
「じゃあせめてお礼ぐ」
「却下だ」
即答かよ! 最後まで喋らせろ!
「それよりも早く降りて来い。街に着くのが遅くなる」
ああ、そういえば街に寄るって言ってたっけ。
「遠いの?」
「ここから一番近い街までは半日程度の距離だ」
半日か…。馬で移動するって言ってたから、多分それも私の存在を考慮しての時間なんだろうな。
私が借りていた部屋から見て右手にあった階段を降りながら改めて周りを見てみると、私が使わせてもらっていた部屋の様子とは違い、思っていたよりも結構古そうな建物だということがわかった。あの部屋はよく使われている感じがしたのに、この屋敷自体には生活感があるようには見えない。
人が住んでいるというよりは、誰かが寝泊まりするために使っていると言った方が正しいような気がした。
「ここ、どういう人が使っているの?」
階段を降りながらシキに問いかけてみると、「俺の知り合い」と、これまた素っ気なく答えられた。
「知り合い?」
「昔馴染みが住んでいるんだよ」
「一人で?」
「いや、今は二人だと思ったな」
と、いうことは、前は違ったってことだよね。
「これだけ大きなお屋敷なのに、どうして二人暮しになっちゃったの?」
「少し事情があってね。以前は国境の警戒任務に当たっていた衛兵達の駐留所として使われていた」
「へー…」
衛兵ってことは、軍隊ってことになるのかな?
「ねえ?」
私がシキに近付くのと入れ違いに、シキと一緒にいた人達が玄関らしき方へと歩いてくのが見える。
「衛兵ってこ」
「その話は後日だ」
だから遮るなよ! むーっ!
「だからさっきも言っただろう? 話し込んだ分だけ街に着くのが遅くなるし、そうなると色々な手配もし辛くなる」
「うむむ…」
「文句があるならそれも後で聞いてやる。それよりも、」
と、一度言葉を区切ると、シキが持っていた布らしいものを渡された。
「暫くの間はそれを羽織っていろ」
羽織るってことはコートか何かなんだろうか? とか考えながら広げてみると、それはよくゲームとかで見るるようなマントと呼ぶのに近いような形をしていて、私の足首ぐらいまで丈のある大きなものだった。
* * * * *
はぐらかしたつもりはないが、あれ以上サヤカに込み入った話をするつもりはなかった。
あの屋敷が誰の物で、今現在誰が住んでいるのかなどということをサヤカが知る必要もなく、また、知らなければそれだけ彼女に及ぶであろう危険性を回避する術も増えてくる。
ただでさえ彼女の立場は曖昧なのだ。
出来ることならば早急にこの世界から立ち去って貰いたいと願う反面、彼女の姉のような例を考えれば不可能にも近いのだろう。
何故、今になって彼女は現れたか。
(出来ることならば…)
一生出逢いたくはなかった存在だが、出逢ってしまった以上はそれを嘆いても仕方がない。
俺はサヤカの手を取ったのだ。ならば護りきるだけのことだ。しかし…。
(…あいつを頼るしかないか)
運良く目的の相手が捕まるとは思えないが、丁度伝えたいこともある。それにラシュに滞在していなくとも、伝言さえ残しておけば向こうからやって来るだろう。
(剣も受け取る必要があるな)
あの屋敷に向かう際、身元を隠す為に馴染みの鍛冶屋に預けていたが、遅かれ早かれ引取らなければならないのだ。その点だけ考えれば、ラシュに向かうのは寧ろ好都合だ。
(ラシュに居てくれよ)
あの街に目的とする人物が滞在していることを願い、同時にサヤカを気遣いながらも馬を進めた。
* * * * *
今朝目を覚ました場所から街に着くまでの間、私はシキに背を預けてぐったりしていた。
最初の内は初めて馬に乗ったことに対する好奇心が勝っていたのだけど、…なるほど。これは確かに結構キツイ。
いくら鞍に跨っているとはいっても、直接体に伝わる衝撃はとてもじゃないが優しいものではない。それでも最初は男の人が間近にいるという恥ずかしさと遠慮が手伝ってシキに寄り掛かるのを拒否していたけど、進むにつれてそんなことなんか気にしてはいられなくなった。
「平気か?」
そんな私に気がついたのか、頭の上から気遣うような声が降ってくる。
「…多分」
「もう少し進めば森を抜ける。足場も断然に良くなるから、伝わる衝撃も多少は改善されるはずだ」
…と、いうことは、今までは道じゃないかもしれないような場所を通って来ていたんですね。仕方ないか。
「…ねぇ?」
「何だ」
「これから行く街ってどんなトコ?」
何とか気を紛らわせようと思いシキの顔を見上げて聞くと、シキは正面を向いたままで口を開いた。
「グウィンヴァールとカシュミールの国境に一番近い街になる。ラシュは交易が盛んな街だから、大抵の物はそこで手に入れることが出来る。活気もある場所だ」
「大抵ってことは、無理な物もあるってことだよね?」
「流石に非合法な物までは難しいだろうな」
そこで一度区切ると小さく息を吐き、そして私を見下ろした。
そういえば座っているとはいっても、私より目線が高い男の人にまだあまり会ったことがないから、ちょっとだけ不思議な気分だ。
「カシュミール側からは染織と宝飾、それに薬の原料や香料といった類の物が入ってくるな。逆にグウィンヴァール側からは、宝飾に施す鉱石を主に流している」
「宝飾の類はまだわかるけど、薬とかまで貰っているのに対して返すのが鉱石だけって、なんか不公平じゃない?」
私の素朴な疑問に対して、シキは口元に小さな笑みを浮かべた。
「勿論それ以外にも流しているさ。ただ、グウィンヴァールが流している鉱石量は、カシュミールで生産される宝飾品のおよそ七割を占めている。向こうの職人は腕が良く、上質な物を作るんだよ」
「へー…」
「そしてラシュは元々鍛冶の村で、今もその名残がある。例えば剣の柄や鞘をカシュミールで生産し、刃の部分をグウィンヴァールで仕上げるという交流も行われているな。そういう物は子供の玩具や贈呈品として売りに出される」
「危なくはないの?」
「鈍だからな。そりゃあ、大人が力を込めて殴れば多少の傷は作るだろうが、そういう類の物を好むのは主に貴族だ。大半は屋敷の壁に飾られて埃を被ることになる。時には実用的な物が出回ることもあるが、元が贈呈品だから装飾過多になりやすい。実戦には向かない特注品の場合が殆どだな」
他に聞きたいことは? と、問われて、少し考えてから「ない」と答えると、シキの顔が再び正面を向いた。それに釣られて私も前を見たけど、今までの景色と何が違うのかさっぱりわからない。
あのお屋敷から一緒にいる他の二人は私達の少し後に黙ってついてくるだけだし、シキにしても率先してあまり口を利いてくれる方ではないようだ。
それに、シキに体を預けることで幾分かは楽になってるけど、乗り慣れないものに長時間っていうのはやっぱり疲れる。今夜もぐっすり眠れそうだ。
「森を抜けたら湖の側に出るから、そこで少し休憩を取るぞ」
静かな声でそう言われ、シキの方に顔を向ける。
「それは最初から予定に入っていたこと?」
少しでも休めるのは嬉しいけど、それがもし予定外のものだったら悪い気がすると思っていたら、シキは小さく頷いてみせた。
「心配はするな。湖に出ればラシュまでそう遠くはないし、それに馬の方も休ませてやりたい。結構無理をさせたしな」
ああ、そうだった。シキ曰く足場の悪かった道と呼べるのかどうかもわからない道を歩いて来たわけだし、それを考えたら休憩は必要だろうし。
「良かったね。もうちょっとしたらお休み出来るって。ずっと歩きっぱなしじゃ疲れちゃうもんね」
よしよし、いい子だ。──と、少し前に身を乗り出して馬の鬣を撫でてあげたら、微かに返事のような嘶きが返ってきた。かわいい。
「だからもうちょっとだけ頑張ろうね」
それにもやっぱり返事のような嘶きが返ってきて嬉しかった。本当にかわいい!
…とか、そんな風に馬との語らいを楽しんでいたら、すぐ後ろの方から抑えたような笑い声が聴こえてきた。これはシキの声だと思って見上げたら、そこには意外と柔らかい笑顔があって心から驚いた。
普段、滅多に笑わない人が笑った時の衝撃って、案外こんな感じなのかもしれない。
「お前、本当にユウナの妹なんだな」
何だとぅ? それはどういう意味だ!
「何当たり前のこと言ってんの?」
「いや、ユウナも同じことをしていたと思って」
あー…、お姉ちゃん、小さい子とか動物大好きだもんなー。その時の光景が目に浮かぶようだって、あれ? もしかして…?
「ねえ? お姉ちゃんを助けてくれたのって、シキなの?」
そうじゃないと多分馬に乗る機会なんてそんなにはないと思うし、あったとしても長い時間一緒にいないと、お姉ちゃんがそうしていたっていうのを見れるような機会もないと思う。それともこれは私の気のせいなのだろうか?
そんなことを考えながらシキの顔をじっと見ていたら、シキは少し困ったような表情を浮かべた。
「…助けたというか…」
そして言葉を選ぶような仕草を見せ、ぽつりと呟く。
「…どちらかと言えば、拾ったと言った方が正しいような…」
「拾ったって…、お姉ちゃん、落ちてたの?」
そんなバカな。倒れていたのならばまだしも、落ちてたなんて。
「助けたと言った方が聞こえは良いのかもしれないが、…まさか姉妹揃って拾うことになるとは思わなかった」
………そうですか。あなたにとっての人命救助とは、保護を必要としている動物を拾うのと同等の意味合いなんですね。よっくわかりました。
というかさー、ずっと黙って付いてきてる後ろの二人! 聞こえてるのに聞こえないフリしてるのもいい加減に限界でしょう? 笑いたい時は我慢しない方が多分体には良いよ? ふんっ!
「もう少し別の言い方があると思うのですがっ」
ぷいっと顔を背けた私の不機嫌さを見て流石に悪いと思ったのか、
「それは申し訳ありませんでした」
と、シキは急に真面目な声になって、謝罪の言葉を口にした。
「サヤカ様、貴女の御機嫌を損ねるつもりはなかったのです」
そのシキのあまりもの変わりっぷりに、一瞬、「サヤカ様って誰?」とか本気で悩んでしまった。
「お許し頂けますか?」
「は、はい!」
な、何だよ? 急に礼儀正しくならなくったっていいじゃないか!
逆にこっちの方が悪かったんじゃないかという気がしてちらりとシキを見てみたら、してやったりとでも言わんばかりの意地悪そうなシキの笑みが視界に入って、さっきとは別の意味でまた一瞬悩んだ。
(これは…、もしかしなくても、遊ばれてる…?)
「有り難うございます。サヤカ『様』」
…この人、見掛けと違って案外いい性格してるのかもしれない。しかもわざわざ『様』のとこを強調して言うなんて嫌味なヤツだなー。
「ねえ、人で遊んで──」
楽しい? と続けようとしていたら、急に射し込んだ光と開けた視界に驚き、思わず右手で光を遮って目を細めた。
「まぶし…っ!」
「薄暗い中を進んできたから、目が慣れないのだろう。落ちるなよ」
私をからかっていた時とはまた違う声が頭の上から降ってくる。
「う、うん。…ここは?」
光に慣れてきた目をゆっくりと開けると、真っ先に飛び込んできたのは広大な湖の碧さだった。
「このグウィンヴァールでは一番美しいと言われているザーフィア湖だ」
なるほど、一番だと言われているだけはある。水面に反射した光がキラキラと輝いていてキレイだ。
「ここが街に近いって言ってた湖?」
「ああ、そうだ。もう少し進めば休憩に適した場所がある。そこで休もう」
そう言うシキの声を聴きつつも、私の意識はまだ湖に向いていた。碧く、そして深く澄んでいる湖の水はまるで鏡のようだ。
よく晴れた空と周りの景色を水面に映し出す湖は一枚の絵画のようで、とても素晴らしいものを見ているような気持ちになって素直に感動するしかなかった。