忘れ得ぬ光景
その日は朝から霧が濃い日だった。
テレビから流れる予報の中で注意報を告げる声が聴こえてたから、いつかは晴れるのかもしれないけど、それがいつになるのかは見当もつかない。
「紗耶香、そろそろ行くよ!」
大学に行く準備を終えたお姉ちゃんに呼ばれ、慌ててテレビを消して鞄を持って家を出た。
「今日は遅くなりそう?」
視界があまり良くはない霧の中でお姉ちゃんに聞く。
「バイトがあるからね〜。ご飯は準備してあるから、先にお父さんと食べてて」
玄関の鍵を鍵をかけながら答えたお姉ちゃんに頷き、一緒に駅の方へ歩き出した──はずだった。
* * * * *
「走れ!」
雲にかかった淡い月明かりしか差し込まぬ仄暗い森の中は、どんなに訓練を重ねた者であっても困難に近い。
それを走れと言うのは無謀だとも言える行為ではあるが、それでもそれを強要しなければならない事態に苛立ちを覚える。
「早く! 急げ!」
普段から異性には低いと言われる声は更に抑えられ、張り詰めた緊張感の為により一層の厳しさを増すのが自覚出来る。
(──早く戻らなければ…!)
多少の不安はあったものの、それでもこの作戦は成し遂げられるはずだった。
それが今、想定していた中では最も避けたかった事態によって水泡に帰そうとしている。もっと早い段階で回避することが出来なかったのは致命的だとも言える。
「あと少しだ!」
あと少しの距離を進めばこの森を抜ける。
それは完全に自国内に入ったという証でもあり、万が一に備えて残して来た者達との合流地点にも近いということになる。
そこに辿り着ければ全てが終わる。だからあと少し、僅かな時間を持ち堪えれば良いのだ。
頭の中に地図を展開し、後方に気を配りながら前へと進む中で不意に、
「師団長!」
──と、俺を呼ぶ声が耳に届いて足を止めた。
* * * * *
ここは、どこなのだろう…?
ぼんやりとした視界の中で空を見上げ、徐々にはっきりとしてくる意識の片隅で自分の記憶を辿ろうとする。
いつも通りの朝を迎えて、いつも通りにお姉ちゃんと家を出て、いつも通りに駅に向かった。いつもと違う部分があるとすれば、今日に限ってやたらと濃かった霧ぐらいだと思う。
…うん、ここまではちゃんと思い出せる。問題なのはその先だ。
駅に近い大きな交差点で信号が変わるのを待って、お姉ちゃんが何かを言ってて…、気がついたらなぜか鬱蒼とした薄暗い場所にいて、見上げた空には青い月が浮かんでいた。風があるのか、ざわざわという葉の擦れる音さえ聴こえる。
(どっかの公園…?)
公園にしてはどこか雰囲気がおかしい。いくらなんでも暗過ぎる。
(………うん)
このままではどうにもならない。
とにかく人の居る場所を目指そうと思い立ち上がろうとして、全身に走る鈍い痛みに思わず声を上げた。
「いっ…」
痛い──けど、本当にどうしたんだろう…。
というか、もしかしなくてもこの痛みが治まるまでは、私、このまま?
それはイヤだとか思っていたら、すぐ近くの茂みを何かが過ぎったような気がした。
(何…?)
その音の正体がわからなくて、その茂みの方を警戒していたら、直後に茂みを掻き分ける音と共に二人の男の人が現れた。その内の一人は周りの景色に溶け込むような黒い服(あとになって思ったけど、今まで見たことがないような服だった気がする)を着ていて、その服と同じ色をした髪の下から覗きこむ紅い瞳が、冷たい眼差しで私を見下ろしている。
一体どれだけの時間をそうしていたのだろう。
まるで値踏みでもするかのようなその視線を不快に思い、痛む体を丸めて身を竦めていたら、静かな足取りで私の目の前までやって来ると片膝を着いた。
「痛むか?」
突然そう言いながら私の足首に触れるその人に驚き、思わず顔を上げる。
「え…」
「痛むのだろう? 歩けそうか?」
見た目から想像していたよりも遥かに低い声で問われて「多分?」と答えると、「多分か」と、その鋭い目元が緩んだように感じた。
「折れてはいないようだな。他に痛む箇所は?」
「全身、というか…」
「何だ?」
「私…」
「今は気にするな。…頭を打ってはいないな?」
言葉の端々は素っ気ないんだけども、その手付きはとても優しい。そして、顔が近付けば近付くだけよくわかる整った顔立ちに息を飲んだ。そんな私に気付かないのか、右手の手袋を外して私の首筋に触ると、安堵のような息を吐く。
「えっと…」
「俺は医者ではないから素人判断でしかないが、一応は無事のようだな」
無事でなければ殺されかねないところだった。と、物騒なことを呟かれたような気がしたけど、多分それは気のせいだった──と、思いたい。
「あの…」
「だから何だ」
「あなたは…」
「シキだ」
「シキ?」
「俺の名前。知らなければ不便だろう?」
確かに。いつまでも「あの…」とか言ってればいいってもんじゃない。
「私は」
「サヤカだろう?」
私の声を遮り、外した手袋をしながら素っ気なく答えられた。
「え?」
「だからお前がユウナの妹の『サヤカ』だろう?」
立てるか? と、差し出された右手とシキと名乗った相手の顔を見比べて、頭の中が整理しきれないままでいたら、シキは少しだけ困ったような顔をした。
「生憎と此処で時間を潰している暇はなくてね。説明ならば後でしてやるが、それでも今、一つだけ確実に約束出来ることはある」
「約束?」
「ああ。ユウナの所に連れて行ってやる」
だから安心しろ。と続けたシキを簡単に信用したわけではなかったのだけども、その声に嘘はないように聴こえたから、目の前に差し出された手を取り立ち上がった。