第二話 屋敷と人殺し ⑤
「お客さん、人切りアッシュって、知ってますかい?」
フェリーの吹きっ晒しの操舵室で、舵を握っていた初老の男は始めにそう切り出した。顔が隠れるほどの白い眉毛と口髭をはやし、その髭の動きで口元に笑みを浮かべているのが辛うじてわかった。
この時ゾフィーとゴードンはそれぞれの個室に引っ込んでいた。
「いや、聞いたことないな」
「でしょうなあ」
ダニエルがそう言うと、男はますます笑みを強くした。その意地の悪い笑顔を見せたまま、男が言った。
「いや、実はアタシは『向こう側』の街の出身でしてね。貿易とか物々交換とかであっちの港に行く、あんたみたいな『そっち側』の人に、『向こう側』に伝わるこの話をよくするんですよ」
「へえ」
「聞いてみたいですかい?」
「向こうに着くまで暇だし、聞いてみるかな」
そうダニエルが言うと、待ってましたと言わんばかりに男が声を低めて話し始めた。
「これはそう、今より何百年も前の話でさあ。あの街にアッシュって言う、一人の男がいたんです」
「アッシュ?」
「そう、オドネル・アッシュ。こっちじゃあ知らない奴はいないサイコ野郎ですよ」
男が吐き捨てるように言った。ダニエルが言った。
「サイコって、どういう人だったんですか?」
「やってることは映画とかドラマとかで見る連続殺人なんですけどね。こう、普通じゃないんだ。正気じゃない」
「連続殺人だって普通じゃないですよ」
「あんたの言う普通じゃないんですよ。確かにそう言うことやる奴は頭のネジが外れてるかも知れんが、オドネルはもうレベルが違った」
「どういう意味です」
ダニエルの問いに、思わせぶりに男が答えた。
「こんな話があります。ある日、オドネルが道を歩いていた。持ってる手提げ袋にはパンやら林檎やらが入ってた。おおかた、市場で明日の飯の分を買った帰りなんでしょう。
不意に奴は、横に見えたカフェの屋外席でコーヒーを飲んでた一人の女性に声をかけた。その人は二十代半ば。その時通りやカフェには、他に人はいなかった。当然二人に面識なんてない、赤の他人です。
オドネルはその女性に近づいて、こう言った。『やあお嬢さん。こんちには』。女性も苦笑してそれに応えた。『あらやだお嬢さんだなんて。お口が上手なのね』。それを見て、オドネルも『おっと失礼。お嬢様』とか言って、二人揃って笑い声をあげた。それだけなら若者のただのナンパとして終わっていたでしょうね。でもこれにはオチがある」
「……」
「『今日も美しいですね』、オドネルがそう言って笑いながら――鋏で女の首を刎ねたんです」
「……え?」
カートゥーンのギャグマンガのページをめくったら、そこにいきなり劇画調のスプラッターなシーンが広がっているような、何を言っているのか意味がわからない違和感を感じた。
展開が唐突過ぎる。とにかく意味がわからない。
理解出来ずにダニエルがポカンとしていると、それを見ながら男がしてやったりな笑みを浮かべた。
「い、いや、意味がわからないです。突然過ぎるでしょう?」
「そうでしょう。あなたにはあたしが嘘八百並べてるようにしか聞こえないでしょうな。でもこれ、全部事実なんです」
「事実って……」
「後にオドネルは一回逮捕されるんですが、その時に彼を鑑定した医師はこんなことを言ってるんです。『奴は人間が息をするかのように、殆ど意識しないで当然のように殺人という行為を行っている。奴にとって殺人とは生理現象そのものである』、とね。その後奴は『プライバシーの侵害だ!』と叫びながら看守を殺して脱獄しています」
「いや、そんな、まさか……」
まるで信じていないダニエルを見ながら、それも予測通りだと言わんばかりに男が慣れた口調で言った。
「嘘だと思うんなら、ご自分で調べてみちゃいかがです?街の図書館だとか、でかい本屋とかにはそういうことの書かれた本が普通にありますから」