婚約者様は勘違いをしているような気がします
「……おい、俺は砂糖いらねぇんだよ」
エミリア・ハートウェルは、口角だけを頑張って持ち上げた。
「そ……そうでしたね」
「甘いの……苦手なんだ。いい加減覚えろ」
「……はぁ」
王都の老舗カフェ。その個室には、よく磨かれたアンティークの調度品が柔らかい光を品よく返していた。
窓から差し込む昼の白い光。
彼の艶のある黒髪を、美しく湿らせている。切れ長の黒曜石の瞳、細身でありながらよく鍛え上げられた均整の取れた体躯。斜め合わせの洒落た騎士服のジャケットは、まるで彼のためだけにデザインされているかのようにその美貌を際立たせていた。
彼――レオナード・グレイが街を歩けば、女性たちからの黄色い歓声があがる。
だが、婚約者であるエミリアはこの男が
――どうしようもなく苦手だった。
エミリアはため息を飲み込んで、自分のカップにだけ角砂糖を落とす。
(昔は甘いものが好きだったのに……
まぁ、彼ももう大人だものね……)
「それ、よこして」
「あぁ……はい」
角砂糖をいれるために一度引き寄せてしまった彼のカップを、レオナードの前に戻す。
その時、彼が手を伸ばした。ソーサーを持ったエミリアの手をレオナードは包むようにがっしりと掴むと、彼は口端をあげる。
「……ほっそい手」
視線が交わる。
「弱っちいんだから、俺の言うことだけ聞いてりゃいいんだよ。……エミリアはさ」
レオナードがふっと視線を外した。エミリアはその横顔をただ見つめる。
(……うわ)
眉を寄せた。
(なんでこいつ、こんな偉そうなの)
掴まれた手を引っ込め、自分の膝にのせる。
(本当に……)
窓に視線を向けた。王都の街並み。高級店の並ぶ石畳の道の上を、黒塗りの馬車が駆けていく。夫人の差す日傘のパステルカラーが美しく、とても目を引いた。
だが、
エミリアはぎゅっと目を閉じる。
(……この男は無理!!)
帰りの馬車の中。
エミリアは壁に頭を預けた。振動が伝わり、ごちゃごちゃした頭の中を振り落としていくような気がした。
――“エミリア!”
記憶の中の少年。
艶のある黒髪を揺らして、エミリアに駆け寄ってくる。
“見て! きれいなお花を見つけたよ。
……ねぇ、屈んでみてくれる?”
少年は細い指でエミリアの髪にそっと触れると、彼の手にあった白い花を彼女の髪に飾った。
エミリアが顔を上げれば、まっすぐに視線が合う。彼の黒曜石の瞳の中に光が差し込み、キラキラと輝いて見えた。
“わぁ! やっぱりすごく似合うよ。
エミリア、かわいいね!”
エミリアが少しだけ照れてうつむくと、彼は笑う。
“エミリア。大好きだよ”
彼が手を差し出し、エミリアはその手をとった。二人は手を繋いで花畑を駆け出す。
――昔は……
馬車の揺れの中、エミリアは両手で顔を覆った。
――昔はあんなに可愛かったのに!!
どうして、あんなやつになった!!
エミリアはそのまま、長く、ため息をつく。
「婚約……解消できないかな……」
そのつぶやきは、馬車の音に飲み込まれていった。
エミリアは眉を寄せた。
高位貴族の娘ベアトリス・ローゼンに、人気カフェのテラス席に招待された時点でおかしいとは思っていた。
だが、人目の多い場所だ。少し意見される程度だと――思っていた。
テラスにいくつも並んだ椅子。外ではあっても、通りから少しだけ隔たれた高台にあるそこには、令嬢たちが独占して座り、彼女たちは一様にエミリアを見据えていた。
目の前の席には、金髪縦ロールのベアトリス。彼女はエミリアの前に腰を下ろしてから、先ほどからひと言も発しないままに、鋭い視線でエミリアを見据えている。
エミリアは、瞳を伏せた。
――一度だけ。
「来い」と俺様婚約者に言われ、騎士団の訓練の見学に出かけたことがある。
模擬戦闘。
一対一で、レオナードは騎士仲間と向かい合う。
一礼し、剣を構えた。
――それだけ。
たったそれだけで、空気が澄んだ気がした。エミリアはつい、目の前の柵を強く掴んだ。
彼が地面を蹴る。
訓練用の簡素な革鎧。
顔は隠されず、彼の黒髪は風になびいた。
まっすぐ、突き。
躱した相手を追うように、身を返す。
相手が横に一閃。
力強い一撃を、一歩距離をとって避けると、
彼はまた踏み込んだ。
肉眼では追えないほどの連撃を繰り出す。
相手はじりじりと下げられているのが分かった。
それからさらに、一歩踏込み。
彼の口元が、一瞬、弧を描く。
鋭く、下から振り上げ。
革を強く打つ、鈍い音が響いた。
エミリアはハッと息を呑む。
審判をしていた騎士が手をまっすぐに上げた。
向かい合っていた騎士二人は、剣を下げ、距離をとった。そうして、互いに一礼。
頭を上げると、二人は駆け寄り、肩を抱き合って笑い出した。エミリアの位置からでは何を話しているのかまではわからない。だが、お互いの健闘を称えている――そんなふうに見えた。いつもの彼がよくする不敵な笑い方ではなくて、爽やかな騎士の顔。
気づけば、見学席からは黄色い声援がしきりに上がっている。
――これは、確かに人気者になるわ……。
エミリアは息を吐くと、席を立った。
訓練場の中央にいたレオナードも、顔を上げる。
――目が合った。
レオナードはエミリアに向かって、爽やかな笑顔のまま手を振る。知らずに、エミリアの頬は赤く染まってしまった。
悲鳴が上がる。
見学席にいたレオナード目当ての他の令嬢たちがエミリアに気づくと、彼女たちは一斉にエミリアを見た。
嫌悪を含む視線。
耐えられず、エミリアは彼女たちに向かって頭を下げると、その場から逃げ出すようにして離れた。
――今、このテラスにいるのは、あの時見学席にいた令嬢たち。
ベアトリスはテーブル上のグラスを手に取ると、その水をエミリアに向かってぶつけた。
「あなたはレオナード様に相応しくありませんわ。早くお離れなさい。いつまで婚約者の席にしがみついているつもりです」
エミリアの前髪から水が滴る。
(そんなこと言われたって……)
「美しくて男らしいレオナード様に、あなたは地味過ぎます。彼に守ってもらえるような女性はあなたではきっとありませんわ」
(“男らしい”か……。あれもそういう評価になるのね……)
「ローゼン様……。私から婚約の解消は……難しいのです」
「本当にあなたからレオナード様に相談はされたのですか?
破棄でもなんでもやりようはあるはずです」
(そんなめちゃくちゃな……)
「しかし……」
ベアトリスの眉が歪む。
彼女は席を立ち上がり、エミリアの手首を逃げられないように掴むと、腕を振り上げた。
――その時。
駆けるような、石畳を踏む音。
「おい!」
目をつぶっていたエミリアは、その声に顔を上げる。
ベアトリスの振り上げられた手首を掴んでいるのは、息を切らしたレオナード。
「……レオナード様」
ベアトリスの頬が朱に染まっている。
「ぼ……俺の婚約者が……何かしたか?」
レオナードはベアトリスの脇に立ち、その手首を掴んだまま、彼女を見下ろした。
「なぜ……エミリアは濡れているんだ」
ベアトリスは、目を泳がせる。
「……ハートウェル嬢がご自分で水をこぼされたのですわ!
ね……ねぇ? 皆さま?」
彼女が周りにいた令嬢達を見回して言うと、令嬢達は口々に「そうですわ」と答えた。
レオナードは奥歯を噛むと、ベアトリスの手を離す。
「帰るんだ」
「え?」
「婚約者を濡らしたままにしておく男なんかいないだろう。エミリアは帰らせる。
君たちもとっとと帰るんだ」
「レオナード様。……ですが」
「……俺の言うことが……聞けないってのか」
「あ、いえ……」
ベアトリスの周りにいた令嬢達は慌てて立ち上がると、揃ってカーテシーをし、急いでテラスを離れていった。
入れ替わるように、レオナードの従者であるオスカーが駆け込んでくる。
彼はエミリアの前に膝をつくと、彼女に白い布巾を手渡した。
「……エミリア様。お可哀想に……。
ハートウェル家の馬車を店の前に呼びましたから、すぐに邸宅に戻られますよう……」
「オスカー……ありがとう」
布巾で髪を拭い、顔を上げるとレオナードと目が合った。
眉を下げていた彼は口を開けるが、
――それは言葉にならなかった。
一度瞳を伏せてから、彼はいつものふてぶてしい表情になると、ふっと笑う。
「……バカは風邪引かないっていうからな。問題ないだろう」
エミリアは、視線を下げる。静かに立ち上がり、レオナードの前に立った。
「レオナード……。
婚約を……解消したいの」
彼の目が見開かれる。
「な……」
「私より、あなたに相応しい人はいるわ。だから――」
「だめだよ! だめに決まってるだろう!
ほ……本当に、お前は……頭が悪いな」
エミリアがレオナードの黒い瞳を見つめると、彼は視線を逸らした。
馬車の音がする。
「……エミリア様。馬車が到着されました」
「……えぇ、ありがとう」
レオナードに背を向けた。
「待って! エミリア」
振り向かなかった。どうせまた、ひどいことを言われる。
「エミリア!」
濡れた髪も、服も。
気持ちも。
全てが冷たい。
エミリアはため息をついて、天井のフレスコ画を見上げた。
大舞踏会。綺羅びやかなシャンデリア。華やかな紳士淑女たち。優雅に奏でられる管弦楽。
レオナードとダンスを一曲終えたあと、エミリアは一人でいた。
壁際に立っているだけなのに、すれ違う令嬢に肩をぶつけられる。歩けば足をかけられそうになる。そういった細々とした嫌がらせを先ほどから何度も受けていた。
友人も会場にはいるが、巻き込んでしまいそうで、その輪に入るのは今日は避けた。
一人になりたくて、バルコニーへ向かう。
他に人はいない。
丸い月。
夜空には星がいくつも浮かんでいた。夜空に星が瞬くたび、思い出したくないはずなのに、つい思い出してしまう。
黒曜石の瞳。
変わってしまった、彼を。
「やぁ、ハートウェル嬢。一人なのかな」
男の声に振り返る。
「……どちら様でしょうか」
「君、婚約者とはうまくいってないの?
ため息ばかりついていたよ」
青年は一歩、エミリアに寄る。彼女の体をバルコニーの欄干に押し付けるようにし、エミリアの両脇に手を置いた。
「あの……」
「新しい恋を、教えてあげようか」
「いえ……結構です」
男の向こう、バルコニーの入口に、ベアトリスとその友人たちがいる。彼女たちはこちらを見て、にやにやといやらしく笑っていた。
(彼女たちの差し金……?)
「あの……離れてください」
至近距離の男の息は、アルコールの匂いが混ざっている。
「大丈夫。君もすぐに楽しくなっちゃうから」
男に顎を掴まれ、顔を上げされられた。
顔を寄せられ、呼吸が肌に触れる。
背筋が凍る。
エミリアは目を強くつぶった。
――嫌だ!
その刹那――
男のうめき声。
目を開けると、歯を食いしばったレオナードが青年の髪を掴んでエミリアから引きがしている。
そして、その身を力づくで投げた。
「僕の婚約者に触るな!!」
エミリアは目を見開いた。
――“僕”?
レオナードはよろけた青年に近づくと、その胸ぐらをつかんで持ち上げる。
「同意なく女性に触ろうとするなんて、それでも紳士か!」
「こ……これは頼まれて……」
「誰に!」
青年の視線がバルコニーの入口に滑った。令嬢たちが悲鳴を上げるが、彼女たちの背後にオスカーが立ちはだかり、逃げられない。
レオナードは腕を振り上げ、青年を一発殴った。
男は勢いのままに、地面に転がる。
「僕のエミリアの恐怖はこんなものじゃないだろう。だが、一方的に殴るのも好きじゃない。
今はこれだけで見逃してやる。去れ!」
――“僕の”?
男は悲鳴を上げ、転びそうになりながらバルコニーを駆け去っていった。
続いて、レオナードは腕を組んでベアトリスたちを見据える。
「ベアトリス・ローゼン嬢。
僕の家から正式に抗議をさせてもらう。当然、騎士団からもだ。婦女暴行を企むなんてどうかしている!」
令嬢たちが悲鳴をあげ、オスカーが道を譲ると、彼女たちは逃げ去っていった。
その背を見送ると、レオナードは欄干のそばで立ちつくしたままのエミリアを振り返る。
急いで駆け寄り、彼女を抱きしめた。
「エミリア!
大丈夫だった!?」
レオナードは眉を下げ、エミリアの顔を覗き込む。
「どこにも怪我はない!?
怖かったよね……。
一人にしちゃいけなかった……。
ごめんね。
僕が……良くなかった。いつも、友達といるから大丈夫かと思って……」
「あの……」
視線がまっすぐと交わった。
「……どちら様?」
「え?」
後ろにいたオスカーがふっと笑う。
「レオナード様……。
仮面が外れていますよ」
レオナードの顔がいっきに赤く染まった。
「あ……う……」
「レオナード?」
黒曜石の瞳がじわりと潤む。
「え!? レオナード!?」
「……僕のこれまでの努力が……水の泡だ……」
エミリアは驚き、自分を抱きしめている男の背に腕を回すと、宥めるようにぽんぽんと叩いた。レオナードはエミリアの肩に頭を預ける。
「エミリア……。
君は、強そうな……“オラオラ系”の人が好きなんでしょ……?」
「……は?」
「昔言ってた」
エミリアは宙を見上げ、記憶をたどる。
――あれは十二歳頃の記憶。
「あぁ! やっぱりかっこいい!」
並んで本を読んでいたレオナードは、エミリアの声に顔を上げる。
「お話の人?」
「そう! 一見傲慢だけど、引っ張っていってくれそうな感じがたまらなくいい」
「……そういう人がエミリアは好きなの?」
「うん。騎士だから喧嘩も強くて、口が悪いけど、いざという時に頼りになって……。
素敵……」
レオナードが眉を下げてエミリアを見つめている。
「レオナードも騎士になるのよね?」
「う……うん。そのつもり」
「楽しみね!」
「その本……なんていう本なの?」
「“傲慢騎士に溺愛されて困っています”っていう本」
「……ふぅん」
レオナードはその時、少し困ったように笑っていた。
――もしや、あれのこと?
「……強い言葉を言うのは苦手で……。だけど、ずっと頑張ってたのに……」
レオナードが頭を預けているエミリアの肩がわずかに湿っている気がする。
――もしかして、レオナードを歪ませたのは……私?
エミリアがオスカーを見ると、彼は大きく頷いた。
“あなたのせいです”そう言われた気がした。
「あ……あのね! 最近私趣味が変わってね……」
「うん」
レオナードが顔を上げる。やはり少し泣いていたようだ。
「優しい人が好きなの」
「……そうなんだ」
「一人称は“僕”で、騎士で、訓練中は爽やかで、いざという時いつもちゃんと助けてくれて……。
話し方も優しくて、ちょっぴり泣き虫で……」
黒曜石の瞳がまっすぐ見つめてくる。つい、エミリアの頬が赤くなってしまう。
「なんていう本なの?
また研究するから教えて」
後ろで、オスカーが笑いをこらえているのが見えた。
「……作品名は忘れちゃったけど、ヒーローの名前はよく知ってる」
「なんて名前?」
「……レオナード・グレイっていうの」
「僕と同姓同名?」
「違うの」
エミリアは背に回した腕に力を込め、まっすぐに彼の瞳を見つめた。
「……仮面を被っていない、素のあなたよ」
背伸びをし、彼の唇に口づけをする。
先ほどの青年とは違う、爽やかな彼の香り。どこか、甘くて酸っぱい。
呼吸が肌に触れても、全然嫌じゃない。
ちゃんと彼のことが好きだと、自分でわかる。
「……そのままの、あなたがいい。
ごめんね。変なこと言ったのは、私だった」
レオナードがハッとしてエミリアを離した。
「も……もしかして……」
声が震えている。
「“オラオラ系”嫌いだった……?」
つい、エミリアは固まる。
「……嫌いだった」
彼はその場にしゃがみ込み、顔を覆った。
「大失敗だ!
ひどいことをいっぱい言ってしまった!
もう駄目だ! 婚約者失格だ!
こんな最低な男とは一緒にいたくないだろう?
別れよう! ごめん! ごめんなさい!
しかもキスしてしまった!
取り返しがつかない!!」
エミリアもしゃがみ込み、彼の背にそっと手を置く。
「レオナード。
私、怒ってない。だから別れるなんて、言わないで」
「でも……君をわざと怖がらせたり傷つけたりしたんだ。最低だよ……」
「じゃあ、もうあんなこと言わないって約束して」
「もう言わないよ。言うのも嫌だったもん」
エミリアは思わず吹き出した。
「……バカね」
「……僕の婚約者でいてくれる?」
「うん」
二人してバルコニーにしゃがみ込んだまま、顔を寄せ合う。
触れるだけの短いキス。
やっぱり甘くて優しい彼のキスは
――そのまんま、甘くて優しかった。
私の婚約者は、長い間、どうやらひどい勘違いをしていたようです。
ちょっと抜けた、可愛くて格好いい、私の婚約者様。
今日も彼は、甘くて優しい。




