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第4話 信用崩壊(Zero Balance)

 0.  聖域(Sanctuary)


 神保町、ジャズ喫茶『カウント』。

 スピーカーから流れるセロニアス・モンクの不規則なピアノの打鍵が、心地よく耳を叩く。

「……ケニア・AA、おかわり」

 蓮実が空になったカップをカウンターに置く。

 店主が無言で頷き、銅製のドリッパーに湯を注ぐ。

 キリッとした柑橘系の酸味が再び店内に満ち、蓮実の脳内のニューロンが整列していく。

「蓮実、顔色が『ケニア』より暗いわよ」

 隣に座った結衣が、スコーンを頬張りながら呆れたように言う。

「テレビ局の件、一応『機材トラブル』で片付いたけど、警視庁のサイバー犯罪対策課が動き出したわ。パペットマスターの影を追ってる」

「……あいつらは遅すぎる。ログの表面サーフェスしか見ていない」

 蓮実は届いたばかりの熱い珈琲を一口啜り、熱量とコクを喉で味わう。

「次は『数字』だと言った。結衣、スマホを見ろ。……始まったぞ」

 結衣が慌ててスマホを開くと、SNSのトレンドは一色に染まっていた。

『#残高ゼロ』

『#Eフロンティア銀行』

『#預金消滅』。

「嘘……国内最大のネット銀行よ? 利用者1000万人以上が……一斉に?」


 1.  消失(Vanishing Point)


蓮実ハスミ視点:11:00 AM】


 自宅に戻った僕は、瞬時にEフロンティア銀行の公開APIと基幹システムの接続状況をスキャンした。

「……消去デリートじゃない。ポインターの書き換えだ」

「どういうこと?」

 インカム越しの結衣が、パニックに陥った銀行本店ビル前からの報告を入れる。

「銀行のデータベースには、実データが保存されている場所に『住所』が割り振られている。犯人はその住所録だけを書き換えて、すべての口座が『空のバケット』を参照するように仕組んだんだ。データ自体は残っているが、システムからは『存在しない』ように見える。……高度なSQLインジェクションと、メモリ空間の汚染の合わせ技だ」

「復旧は?」

「簡単じゃない。無理にポインターを戻そうとすれば、整合性が崩れて二度と元に戻らなくなる。……それに、犯人はバックアップ・ミラーリングの同期プロセスにロジックボム(論理爆弾)を仕掛けている。中途半端に触れば、今度こそ本物のデータが物理消去される」

 モニターに、パペットマスターからのプライベート・メッセージが届く。

『カウントダウンは15分。 君が復旧スクリプトを実行するか、僕が消去を実行するか。 鍵は、地下3階のHSMハードウェア・セキュリティ・モジュールにある。 ――P.M.』


 2.  突破(Physical Layer)


結衣ユイ視点:11:10 AM】


「地下3階ね。了解。……でも蓮実、そこは物理的にも『要塞』よ。生体認証、金属探知機、それに守衛。まともに正面からは入れない」

「だから『人間ハック』だろ。結衣、今から銀行の空調管理システムの権限をこっちで奪う。……地下3階のサーバー室に、偽の『ガス漏れ警報』を出す」

「……いい性格してるわね。乗ったわ」

 私は清掃業者になりすまし、非常階段を駆け下りる。

 数秒後、ビル内にけたたましいサイレンが響き渡った。

「緊急事態! 地下3階でハロゲンガス漏れが発生! 全員退避してください!」

 防護マスクを装着した守衛たちが、パニック状態でエレベーターへ殺到する。

 その隙間を縫って、私は逆に地下へと潜り込む。

 生体認証ゲートの前に立つ。本来なら指紋と網膜が必要だが……。

「蓮実、着いたわ。ゲートのハックは?」

「今やってる。中間一致攻撃(Meet-in-the-middle attack)で認証アルゴリズムをバイパスする。……3、2、1……オープン!」

 重厚な防熱扉が、静かにスライドした。


 3.  同期(Synchronization)


【蓮実 視点:11:15 AM】


「結衣、奥にある青く光るラックだ。そこに物理的なドングルが刺さっている。それがHSMのマスターキーだ。……それを抜いて、僕の用意した『偽装ドングル』と差し替えろ」

「あと10分しかないわよ! 手が震える……!」

「僕を信じろ。結衣の指先が、1000万人の資産を救うんだ」

 僕は画面上で、敵のロジックボムとチェスを打つような攻防を続けていた。

 パペットマスターは、1秒ごとに暗号化キーを更新してくる。

 僕はその更新パターン(エントロピー)を解析し、予測モデルを構築する。

「……見えた。このハッカー、メルセンヌ・ツイスタの乱数生成アルゴリズムに、特定の『偏り』を持たせている。……これは、5年前のあの事件のコードと同じクセだ」

 僕のタイピングが、思考の速度を超えていく。 「結衣、今だ! 差し替えろ!」


【結衣 視点】


 汗が目に染みる。

 私は震える手で、サーバーラックに刺さった小さなUSB状のデバイスを引き抜き、蓮実から渡されていた銀色のドングルを叩き込んだ。

 一瞬、ラックのインジケーターが赤く点滅し……そして、穏やかな青色に戻った。

「……成功? 蓮実、どう!?」


 4.  報酬(Truth)


【蓮実 視点:11:20 AM】


 モニター上の残高が、猛烈な勢いで「ゼロ」から元の数値へと復元されていく。

 10,000…… 500,000…… 1,200,000……。

 死んでいた数字たちが、再び「信用」という命を吹き込まれて蘇る。

「……終わった。ロジックボムを中和したよ、結衣」

 僕は深く息を吐き出し、椅子の背もたれに体を預けた。

 だが、復旧したデータベースのログの端に、またしてもパペットマスターの「足跡」が刻まれていた。

『File 04: Success. 数字は戻った。だが、君たちの“信用”はどうかな? 今回のログには、5年前の「偽装バズ事件」で、結衣君が警察に提出した“不完全な証拠リスト”を混ぜておいた。 君たちの相棒関係が、デジタルの砂上の楼閣でないことを祈るよ。 ――P.M.』

「……何?」

 僕は、表示されたログファイルを凝視した。

 そこには、僕が知らなかった結衣の「過去の隠し事」が、無慈悲なバイナリデータとして羅列されていた。

 インカムから、結衣の少し弾んだ声が届く。

「蓮実! やったわね! 今日の夜は、神保町で一番高いステーキ奢りなさいよ!」

 僕は、その声にどう答えるべきか分からず、ただ冷めたケニア・AAの最後の一滴を飲み干した。

 酸味は消え、ただ苦味だけが舌に残った。

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