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「いずれ愛してやる」はもう遅い。三年分の業務記録を叩きつけて婚約破棄した社畜令嬢は、王弟様の商会で完全に自立します。

作者: 後堂 愛美ஐ
掲載日:2026/03/06

⏬後堂愛美の作品リストは本文下にあります。

 冷たい雨が、王都の石畳を容赦なく打ち据えていた。


 灰色の空から降り注ぐ大粒の雨は、私のドレスを重く冷たく濡らしていく。傘を差す余裕すらなかった。腕の中に抱え込んだ、油紙で厳重に包まれた羊皮紙の束を濡らすわけにはいかないからだ。


 ペンペルトン侯爵家の広大な敷地を歩きながら、私は酷く息切れていた。泥水を跳ね上げ、精緻な刺繍が施された靴が汚れるのも構わず、ただひたすらに本邸の重厚な扉を目指す。


 なぜ、私がこんなことをしているのか。


 頭の片隅で、ひどく冷めきった声が疑問を投げかけている。腕の中にあるのは、私の婚約者であるアーサー・ペンペルトン侯爵令息が、今夜の夜会に向けて自室に置き忘れた招待客のリストだった。彼が忘れたのだ。彼自身の不注意である。それなのに、私付きの侍女から「アーサー様がすぐにお持ちしろとお怒りです」と伝えられた瞬間、私の身体は弾かれたように動き出していた。


 届けなければ。彼を怒らせてはならない。私が役に立つところを見せなければ、見捨てられてしまう。


 そんな焦燥感が、まるで透明な糸で手足を操るように私を突き動かしていた。レインコートを羽織るよう勧める侍女の言葉すら耳に入らず、馬車を飛ばしてここまでやってきた。濡れた髪が頬に張り付き、ひどい寒気と目眩が私を襲っていたが、歩みを止めることはできなかった。


 ◇ ◇ ◇


 本邸のエントランスに辿り着き、使用人に案内されて通されたのは、暖炉の火が赤々と燃える応接サロンだった。


 そこには、革張りの長椅子に深く腰掛け、不機嫌そうに眉をひそめるアーサーがいた。金糸のように美しい髪と、サファイアを思わせる青い瞳。誰もが振り返るほどの美貌を持つ彼は、ずぶ濡れで立っている私を一瞥すると、労いの言葉をかけるどころか、舌打ちをした。


「遅い。たかが書類一つ届けるのに、どれだけ時間をかけているんだ」

「申し訳、ございません……アーサー様」


 震える手で油紙を解き、濡らさないよう死守したリストを差し出す。彼はそれをひったくるように受け取ると、中身をパラパラと確認し、鼻で笑った。


「まったく、気の利かない女だ。僕が忘れた時点で気を回して、すぐに手配するのが婚約者としての務めだろう。お前は本当に、言われたことしかできない無能だな。ランカスター伯爵家の教育はどうなっているんだ」


 理不尽極まりない暴言だった。しかし、私の口から出たのは反論ではなかった。


「深く、お詫び申し上げます……すべて、私の至らなさ故です。どうかお許しください」


 深く頭を下げる私の身体は、熱を帯びて小刻みに震えていた。視界が歪む。息をするたびに、肺が焼けるように痛い。それでも私は、彼に許しを乞うことしかできなかった。心の中にある強烈な違和感と、鉛のような疲労感を、得体の知れない強制力が無理やり押さえつけていく。彼を愛さなければならない。彼に尽くさなければならない。それが私の運命なのだと、頭の中に直接響くような奇妙な感覚があった。


「もういい、下がれ。その薄汚れた格好で僕の視界をうろつくのは不愉快極まりない。夜会には僕の顔に泥を塗らないよう、せめて見られる身なりをしてこい」


 アーサーは私を一瞥もせず、リストに目を落としたまま言い放った。タオルの1枚も、温かい茶の1杯も出されることはない。


「はい……失礼、いたします」


 私はフラフラとした足取りでサロンを後にした。エントランスを出ると、雨はさらに激しさを増していた。待たせていた馬車に向かって歩き出した途端、限界を超えていた身体から不意に力が抜け落ちた。


 泥だらけの石畳に倒れ込む。冷たい雨が顔を打ち、視界が急速に暗転していく中で、私はついに意識を手放した。


 ◇ ◇ ◇


 深い泥の底に沈んでいくような、暗く熱い意識の混濁。


 どれだけの時間、高熱にうなされていたのだろうか。燃えるような熱さの中で、私の脳裏に、今の私とは全く無縁の奇妙な記憶の濁流が流れ込んできた。


『この部品のロット、許容公差を超えています。全品検査を実施してください』

『過去三年分の検査記録は、すべてこちらのファイルにまとめてあります』

『次から手作業で集計しなくて済むように、自動計算の仕組みを作っておいたから』


 蛍光灯の白い光。パソコンのモニター。行き交う作業着姿の人々。深夜のオフィスでひとり、膨大な記録と向き合いながら不適合品の報告書を作成している女性の姿。


 それは、間違いなく「私」だった。


 日本の中堅メーカーで、品質管理と生産管理の責任者を務めていた三十代の女性。それが私の前世だった。


 膨大な記憶が、現在の「シャルロッテ・ランカスター」という個人の意識と急速に融合していく。パズルのピースがカチリ、カチリとはまるような感覚とともに、私は一つの決定的な事実を思い出した。


 この世界は、前世の私が通勤電車の中で暇つぶしにプレイしていた乙女ゲーム『ロイヤル・シンデレラ・ストーリー』の世界そのものだ。


 そして私、シャルロッテ・ランカスターは、そのゲームの主人公である。


 厚い掛け布団の中で、私はゆっくりと目を開けた。見慣れた自室の天蓋ベッド。枕元には水の入った水差しと、使い込まれた銀の洗面器が置かれている。熱はすっかり下がり、代わりに頭の中は恐ろしいほどに冴え渡っていた。


 ベッドから身を起こし、私は前世の記憶と現在の状況を冷静に照らし合わせ、事態の分析を始めた。


 私が今まで感じていた強烈な違和感と、アーサーに対する異常なまでの服従心。その正体は、ゲームの『シナリオの強制力』だったのだ。


 このゲームのメインヒーローであるアーサー・ペンペルトンのルートは、いわゆるマイナスからのスタートを売りとしたシナリオだった。


 高慢で冷酷な婚約者から理不尽な扱いを受け、まるでドアマットのように踏みつけられながらも、健気に尽くし続けるヒロイン。そして物語の終盤、ついにヒロインの献身に気づいたヒーローが改心し、今までの冷遇が嘘のように甘やかして溺愛する……という、カタルシス重視の構成。


 シナリオとして見れば意欲作だったが、ファンの間では賛否が分かれる。ちなみに私は否定派だ。


 つまるところ、私はそのドアマットヒロインという役回りを、見えない力で強制的に演じさせられていたのだ。


 雨の中で書類を届けさせられたのも、彼の暴言に対して自動的に謝罪の言葉が口をついて出たのも、すべては後で溺愛されるための前フリとして設定されたイベントに過ぎなかった。


 私はベッドの上に座ったまま、深く息を吐き出した。


「……馬鹿馬鹿しい」


 乾いた声が、静かな部屋に響いた。


 前世の、地道な管理と検証を積み重ねてきた冷徹な論理的思考が、このゲームのシナリオを容赦なく酷評していく。


 将来的に愛される? だからなんだと言うのだ。


 現在の理不尽な搾取と精神的苦痛を、不確定な未来の報酬で相殺しようとするなど、根本から間違っている。劣悪な環境で人をボロボロになるまで酷使しておきながら、いずれ報われるから今は耐えろと言うようなものだ。


 アーサーのこれまでの態度は、人間としての根本的な欠落である。私の献身に気づいて彼が改心したところで、自分より立場の弱いものを平気で踏みつけにできる傲慢さという本質が消えるわけではない。最終的に愛せば許されるなどと高を括ったような設定そのものが、私に対する侮辱だった。


 愛されれば、これまでの散々な扱いが帳消しになる?


 許せるわけがない。過去に蓄積された苦痛や無駄にされた労力は、未来の甘言で消去できるようなものではないのだ。


 私の中で、何かが完全に冷え切り、同時に静かな怒りが燃え上がった。


 ヒロインとしての運命。そんなものは、前世の自我と合理的な思考を取り戻した今の私にとっては、ただの欠陥システムでしかない。


 私はもう、誰の都合の良いドアマットにもならない。


 シナリオの強制力など、私の意志と行動で完膚なきまでにねじ伏せてみせる。これ以上、あの男の尻拭いのために私の時間と労力を一方的に搾取されるいわれはないのだ。


 私はベッドから降り、冷たい床の上に立った。


 鏡台の前に立ち、そこに映る青白い顔の自分を見つめる。瞳に宿っていた、あの盲目的で媚びるような光は完全に消え失せ、冷徹に状況を俯瞰する目だけが残っていた。


 まずは、あの不要な婚約者との関係を、私がこれまで代行してきた膨大な業務記録とともに、完全に清算することから始めよう。


 ◇ ◇ ◇


 翌日、熱が完全に下がった私のもとに、見慣れた封蝋のされた一通の手紙が届いた。


 送り主はアーサー・ペンペルトン。銀のトレイに乗せて手紙を運んできた侍女は、私がまだ伏せっていると思い込み、心配そうに眉を下げる。しかし私はベッドの上で背筋を伸ばし、極めて冷静な手つきでペーパーナイフを差し込み、封を切った。


 便箋には、流麗だがどこか苛立ちを孕んだ筆跡でこう記されていた。


『来週末の夜会についての詳細を同封する。ドレスの手配はもちろん、エスコートの手順や会場での各派閥への挨拶回りについて、完璧な手順書を作成しておくように。先日のような無様な姿を晒すことは二度と許さない』


 そこには、雨の中で倒れた私の体調を気遣う言葉は、ただの一文字も存在しなかった。


 私は便箋を静かに折りたたみ、机の上の書類の山へ放り投げた。呆れを通り越し、もはや感心すら覚える。ここまで見事に他者への想像力が欠如している人間を、私は前世の記憶を含めても見たことがない。


「シャルロッテ様、お返事用の便箋をご用意いたしましょうか」

「いいえ、必要ないわ。代わりに、ランカスター家のお抱え弁護士に連絡してちょうだい。あとは……そうね、グランディール商会。あそこに関する資料を、集められるだけ集めて。勤め人の話を聞ければ、なお良いわ」


 ぽかんとする侍女を尻目に、私はクローゼットから最も装飾の少ない、実用的な外出着を選び出し、着替えを始めた。返信などする価値もない。根本的な欠陥を抱えた相手に、これ以上私の時間と労力を費やすつもりは一切なかった。


 ◇ ◇ ◇


 それから三日後の午後。


 事態は、私の予測した通りの手順で進行した。手紙を無視され、夜会の準備が一向に進まないことに業を煮やしたアーサーが、ランカスター伯爵邸に直接怒鳴り込んできたのである。


 エントランスホールに響き渡る彼の怒声を聞きながら、私はすでに荷造りを終えた小さなトランクを傍らに置き、階段を降りた。その後ろには、当家の使用人数名に指示し、分厚い羊皮紙の束を抱えさせている。


「シャルロッテ! 貴様、僕からの手紙を無視するとはどういうつもりだ! 僕の顔に泥を塗る気か!」


 玄関ホールの中央で、アーサーは顔を真っ赤にして叫んでいた。美しい金髪は怒りで乱れ、青い瞳には私に対する見下しと、自分の思い通りにならないことへの苛立ちが露骨に浮かんでいる。これまでの私なら、ここで身を縮ませ、涙ながらに謝罪の言葉を口にしていただろう。


 しかし、現在の私の内にあるのは、一切の情に流されない冷え切った目だけだった。


「お待ちしておりました、ペンペルトン卿」


 私は感情の起伏を完全に排した声音で告げた。そのあまりにも温度のない声に、アーサーは一瞬だけ怯んだように目を見張る。


「卿が本来手配すべき夜会の準備を、婚約者という理由だけで私が無償で代行するいわれはありません。なにより、先日の雨に打たれて具合を崩した私への、見舞いの言葉も無いのですか?」

「それは、お前が勝手にしたことだろう! 雨が降っているのなら使者を代理に出すなり、やりようはあったはずだ!」

「以前、そのように手配したところ、雨ごときで顔を見せないのは何事だ、と仰ったのはあなたですが」

「なっ、何を言っている! お前は僕の婚約者だろう! 僕に尽くすのは当たり前の……」

「当たり前、という曖昧な主観で私に労働を強制しないでいただきたい。私はあなたの道具ではありません」


 私は後ろに控えていた使用人たちに合図を送り、抱えさせていた分厚い書類の山を、アーサーの目の前にあるテーブルに次々と積み上げさせた。ドン、ドンという重たい音が響き、彼の顔に戸惑いの色が浮かぶ。


「これは、私が過去三年間、卿に代わって処理してきたスケジュール管理、派閥の動向把握、領地の帳簿確認などの膨大な業務記録。私が従事させられた、不当な労働の証拠でもあります」

「は……? なんだ、この異常な量は……記憶にないぞ……」


 積み上がった書類の山を見下ろし、アーサーは絶句した。執事が、山の上に新たな紙の束を追加する。


「そしてこちらが、婚約破棄の合意書、ならびにこれまで私が卿の代行として費やしてきた労力への正当な対価を請求する書類です。ランカスター伯爵家の当主である父には、すでに私の署名と捺印を済ませたものを提出してあります。当家も、卿の度重なる不誠実な対応には疑念を抱いておりましたので、すんなりと受理されました」

「婚約、破棄だと……?」


 アーサーは書類と証拠の巨大な山を前にして、信じられないものを見るように瞬きを繰り返した。彼の中で、私という存在はどんなに冷遇しても決して自分から離れていかない、都合の良い女として完全に固定化されていたのだろう。シナリオの強制力に胡座をかき、自らの傲慢さを疑いもしなかった男の末路だ。


「待て、シャルロッテ。お前、自分が何を言っているのか分かっているのか。僕から離れて、お前のような地味で面白みのない女が生きていけるわけが……」

「交渉は決裂、と判断します。以後の連絡はすべて当家の弁護士を通して行ってください。では、ごきげんよう」


 彼が何かを取り繕う言葉を発する前に、私は一方的に会話を打ち切り、踵を返した。彼の口から出る言葉に耳を貸す時間は、私にとっては完全な無駄である。


 背後で「待て!」という間の抜けた声が響いたが、私は振り返らなかった。用意させていた馬車に乗り込み、実家であるランカスター伯爵邸を後にする。


 窓の外に流れる見慣れた景色を見つめながら、私は深く息を吐き出した。これで、シナリオからの離脱の第一段階は完了した。


 ◇ ◇ ◇


 私が向かったのは、王都の中心部、最も活気のある商業区だった。


 ランカスター家はそれなりに裕福な伯爵家だが、私は実家に寄生して生きるつもりは毛頭なかった。また『シナリオの強制力』とやらにひきずられて、ゲームの本筋に引き戻されては、たまったものではない。とにかくメインルートから離れるのだ。


 前世の知識と経験を活かして、完全に自立した個として経済的な基盤を確立する。見えざる力と決別するために、私の定めた次なる目標だ。


 目当ては、ここ数年で急成長を遂げている新興の商会「グランディール商会」。古い貴族のしがらみや身分制度に囚われず、実力主義で人材を登用しているという噂は、社交界の端っこにいた私の耳にも届いていた。


 前世の知識に照らし合わせても、ゲームの中ではちょっとした背景設定程度にしか扱われていなかった存在である。それが、なお良い。シナリオというしがらみから遠いところにいることを意味する。


 私は目立たない平民風のドレスに身を包み、商会の立派な構えの建物の門を叩いた。受付で「商会長に直接ご提案したい事業計画があります」と告げると、当然のように門前払いを食らいそうになった。


 だが、私が持参した「在庫管理と物流の改善案」の一部をチラリと見せ、その補足説明を述べると、受付の担当者は顔色を変え、すぐさま奥へと駆け込んでいった。


 第二段階もクリア。私の最大の財産である前世の知識の価値を理解できない相手だったら、こちらから願い下げだ。


 ◇ ◇ ◇


 数分後、私は最上階の広々とした執務室に通された。


 巨大なマホガニーの執務机越しに座っていたのは、夜空のような深い黒髪と、鋭くも知的なアメジストの瞳を持つ青年だった。グランディール商会の若き商会長、ルイス・グランディール。乙女ゲームのシナリオには一切登場しない、完全に規格外の人物だ。


「君が、受付で騒ぎを起こしかけたという令嬢かい? 身なりは平民を装っているが、立ち振る舞いは隠しきれていないよ」


 ルイスは面白そうに唇の端を吊り上げ、私の顔を見据えた。


「お見通しのようで何よりです。私はシャルロッテ。本日は、貴商会の物流部門における深刻な滞留問題の解消と、在庫管理を最適化するためのご提案に伺いました」


 私は臆することなく彼と視線を合わせ、持参した分厚い羊皮紙の束――前世の知識をこの世界の商流と帳簿の書式に合致するよう徹底的に調整した事業計画書――を執務机の上に広げた。


「現在、貴商会は急激な規模拡大により、各倉庫間の連携が取れておらず、不要な在庫の山と品切れが同時に発生しています。これを、商品の動きの早さと重要度に応じて三つの段階に分類し、王都と郊外の倉庫で配置を明確に分けます。さらに各拠点からの報告手順を統一し、情報伝達の経路を整理することで、無駄な手間と手配の遅れを現在の三割は削減できるはずです」


 ルイスの表情が、ただの興味本位から、経営者としての真剣なものへと瞬時に切り替わった。彼は私の計画書を手に取り、そのページをめくるごとに、アメジストの瞳を驚愕に見開いていく。


「……信じられない。各拠点の馬車の運行路の無駄まで数値化して算出し、再配置を提案しているのか。それに、この確認作業の重複の廃止と、責任の所在の明確化……君は、これをすべて一人で考えたと言うのか?」

「はい。現状の作業は個人の勘と経験に依存しすぎており、非常に属人的で品質にばらつきがあります。誰がやっても同じ結果が出る仕組みを作らなければ、これ以上の組織拡大は致命的な崩壊を招きます」


 ルイスはゆっくりと計画書から顔を上げ、私を真っ向から見つめた。その眼差しには、貴族の令嬢に対する値踏みや、女性であることへの偏見は微塵も存在しなかった。ただ純粋に、私の提示した論理と能力を正当に評価し、感嘆する光だけがあった。


「……素晴らしい提案をありがとう。我が商会が抱えていた見えない病巣を、これほど的確に抉り出し、かつ現実的な処方箋を提示してみせるとは。君のその思考力は、どんな宝石よりも価値がある」


 ルイスは立ち上がり、私に向かってスッと右手を差し出した。


「シャルロッテ嬢。君の提案、いや、君自身を我が商会に迎え入れたい。特例の幹部候補として、物流部門の改革の全権を君に委ねよう。給与は君の言い値で構わない」

「謹んで、お受けいたします。会長」


 私は彼の手をしっかりと握り返した。


 その瞬間、私の中に強烈な喜びが沸き起こった。血筋でもなく、誰かの婚約者という付属物としてでもない。私自身の能力が、論理が、正当に評価されたのだ。


 ここはもう、あの息苦しいシナリオの強制力が働く場所ではない。私はついに、私自身の足で、自律した幸福を掴み取るための最初の切符を手に入れたのである。


 ◇ ◇ ◇


 グランディール商会での日々は、前世の記憶を取り戻した私にとって、まさに水を得た魚のような時間だった。


 薄暗く埃っぽい伯爵邸の一室で、感謝されることもなく他人の尻拭いをさせられていた日々が遠い過去のように感じられる。今の私は、商会の物流部門を統括する特別室を与えられ、山のように積まれた羊皮紙の帳簿と格闘していた。


 木製の大きなデスクの上には、王都の内外に点在する五つの主要倉庫の在庫状況をまとめた一覧表が広げられている。私が導入したのは、極めて原始的だが確実な管理手法だ。


 取り扱う商品を、日々の動きが激しい消耗品、高価だが動きの少ない美術品など、頻度と重要度に応じて明確に振り分ける。常に動きのある品は王都中心部の倉庫に重点配置し、逆に動きの鈍い品は警備の厳重な郊外の倉庫へ移す。たったこれだけの決まりを各倉庫の長に徹底させ、定期的な棚卸しの報告書式を統一しただけで、商会の物流は劇的に改善された。


 紙とインク、そして人間の手による情報の伝達経路を整理し、無駄な動線を省くだけで、組織は驚くほど効率的に機能し始めるのだ。


「シャルロッテ、頼んでいた東部方面の配送計画の見直しだが、もう終わったのかい?」


 ノックの音とともに執務室に入ってきたのは、商会長のルイスだった。彼は私のデスクの上に綺麗に整頓された書類の束を見つけると、美しいアメジストの瞳を丸くした。


「はい、会長。馬車の積載量と馬の休息時間を再計算し、中継地点での荷の積み替え作業の手順を統一しました。これで東部への配送日数は二日短縮され、同時に御者の労働環境も改善されるはずです」

「……君の頭の中はどうなっているんだ。まるで、見えない商流の全体図を上から見下ろしているようだ」


 ルイスは呆れたような、それでいて深い感嘆の入り混じった溜息をつき、書類を手に取った。


「前にも言ったが、二人きりの時はルイスで構わないよ。君は私に雇われている身とはいえ、もはや商会の屋台骨を支える対等のパートナーだ。それにしても、君が来てからというもの、無駄な在庫による損失は以前の半分以下になり、利益率は右肩上がりだ。古参の幹部たちも、最初は若い令嬢だと侮っていたようだが、今ではすっかり君の指示に平伏している」

「過分な評価です。私はただ、当たり前の手順が当たり前に機能するよう、土台を整えただけですから。優秀な現場の方々が、正確に動いてくださるおかげです」


 謙遜ではなく、事実だった。一部の熟練者の勘に頼っていた作業を誰にでも分かる手順書に落とし込み、誰もが一定の成果を出せるようにする。それは私が前世から最も得意としてきた手法に過ぎない。


 ルイスは書類から顔を上げ、柔らかくも力強い視線で私を見つめた。


「君のその当たり前が、どれほど稀有で価値のあるものか。少なくとも、君を手放したペンペルトン家は、底知れぬ愚か者たちの集まりだということだけは確かだな」


 アーサーの名前が出た瞬間、私の心に一瞬だけ冷たい風が吹いたが、すぐに消え去った。やはりと言うべきか。ルイスは、私の素性を調べていた。しかし、彼の言葉には敵意も警戒心もなかった。ただの雑談、世間話。それ以上の意味合いを、声音からは感じられなかった。


 そして、あの男との記憶は、すでに私の中で過去形になっている。未練もなければ、怒りすらもはや湧かない。ただ、あの理不尽なシナリオの強制力から完全に脱却し、自分の能力を正当に評価してくれるルイスという存在に出会えたことへの、静かな安堵があるだけだった。


「過去の取引先のことは、すでに私の管轄外です。それよりもルイス、来季の買い付け計画について、少し提案があるのですが」


 私は微笑みを浮かべ、新たな羊皮紙を広げた。ここでは、私の論理と能力がすべてを動かす。誰かの身勝手な振る舞いに振り回されることのない、完璧に制御された自律的な世界が、たまらなく心地よかった。


 ◇ ◇ ◇


 ペンペルトン侯爵邸の執務室では、かつてないほどの怒声と八つ当たりで物が砕ける音が響き渡っていた。


「なぜ、今日の午餐会に出席する貴族の派閥リストが用意されていない! 僕は手ぶらで社交の場に向かえと言うのか!」


 アーサー・ペンペルトンは、見事に整えられた金髪を苛立ち紛れに掻き毟りながら、初老の執事に向かってインク瓶を投げつけた。ガチャンという鋭い音とともに壁が黒く汚れ、執事は青ざめた顔で震え上がった。


「も、申し訳ございません、アーサー様……! すぐに担当の者に作成させますゆえ……!」

「遅い! 今から作って間に合うわけがないだろう! お前たちは本当に無能の集まりだな!」


 アーサーは激しく机を叩き、荒い息を吐いた。


 シャルロッテが実家を出奔し、大量の書類の山を突きつけてきてから、早くもひと月が経過しようとしていた。


 当初、アーサーは高を括っていた。どうせあの地味で暗い女のことだ、数日もすれば泣いて縋り付いてくるに決まっている。彼女は自分を深く愛しており、自分が何をしても最後には許し、尽くす運命にあるのだという、根拠のない絶対的な自信があった。


 だが、現実は彼の甘い認識を容赦なく打ち砕いた。


 シャルロッテは戻ってこなかった。それどころか、彼女がいなくなった翌日から、アーサーの身の回りのすべてが音を立てて崩壊し始めたのだ。


 朝起きれば、その日の天候や体調に合わせた完璧な衣服の準備がされていない。執務机に向かえば、優先順位ごとに整理されていたはずの書類が山積みになっており、どこから手をつけていいか分からない。極めつけは社交の場だった。


 先日の大規模な夜会。アーサーはシャルロッテ抜きで参加したが、それは惨憺たる結果に終わった。


 これまで彼は、シャルロッテが事前に作成していた各貴族の最近の動向や対立関係をまとめた膨大な資料を読み込むことで、完璧な令息として振る舞うことができていた。だが、その情報の供給源が絶たれた途端、彼は地雷を踏み抜いた。領地問題で対立している二つの伯爵家を同じテーブルに案内するよう指示を出してしまい、会場の空気を最悪に凍り付かせてしまったのだ。


『ペンペルトン卿は、見かけによらず随分と配慮に欠けるお方だ』

『これまでは、優秀なランカスター家の令嬢が陰で支えていたと聞くが……なるほど、噂は真実だったというわけか。あの膨大な調整事を彼女一人でこなしていたとは』


 扇の陰で交わされる貴族たちの嘲笑が、アーサーの耳にも届き始めていた。


 物理的な予定の管理も、社会的な立ち回りも、すべてシャルロッテという高度な情報処理の仕組みに完全に依存していた。邸宅に残されたあの常軌を逸した量の記録の山こそが、彼女が背負っていた仕事の全貌だったのだ。その事実に、アーサーは彼女を失って初めて直面させられた。


「くそっ……! なぜだ、なぜあの女は戻ってこない!」


 アーサーはギリッと奥歯を噛み鳴らした。


 彼の中にある認識の歪みは、未だに訂正されていなかった。シャルロッテの優秀さは認める。彼女が自分にとって不可欠な存在であることも、今なら理解できる。だが、それは彼女を一人の人間として尊重するという意味ではなく、ただ極めて有能な手足を取り戻さなければならないという焦燥感でしかなかった。


 僕が直々に迎えに行って、少しばかり優しい言葉をかけてやれば、あの女は喜んで元の場所に戻るはずだ。僕が愛してやると言っているのに、意地を張って戻ってこないあの女が悪いのだ。


 そんな歪みきった思考を巡らせながら、アーサーは執事を鋭く睨みつけた。


「私兵を手配しろ! 王都中を徹底的に探回れ! 実家に戻っていないのであれば、必ずどこかに潜んでいるはずだ。どんな手を使ってでも、シャルロッテを見つけ出し、僕の前に引きずり出してこい!」


 逃げるように退室していく執事を見送りながら、アーサーは苛立ちに満ちた目で窓の外を睨み下ろした。


 自分を置いてどこかへ消えた婚約者に対する、身勝手な怒りと執着。自分が彼女に何をしたのかという根本的な原因には一切目を向けず、ただ自分が許してやるのだから事態は解決するはずだと信じて疑わない。


 その傲慢な探備の手が、着実に私のもとへと伸びてきていることを、書類の山に埋もれる私はまだ知る由もなかった。


 ◇ ◇ ◇


 秋の気配が色濃くなり始めた夕暮れ時。グランディール商会での業務を終え、迎えの馬車を待つために大通りへ出た私の前に、不意に一つの影が立ちはだかった。


 豪奢だがどこか着崩れた夜会服。血走った青い瞳と、焦燥に歪んだ美しい顔。息を乱して私の前に立ち尽くしていたのは、元婚約者であるアーサー・ペンペルトンだった。


「見つけたぞ、シャルロッテ……! こんな市井の商会に潜り込んでいるとはな」


 アーサーは私を見下ろし、ひどく安堵したような、それでいて恩着せがましい笑みを浮かべた。


「お前がいなくなって、僕の周囲の人間がいかに無能かよく分かった。お前の残したあの膨大な記録と手回しの正確さは、確かに評価してやる。さあ、意地を張るのは終わりだ。僕が悪かった。戻ってくれば、今後は僕がお前を心から愛してやると約束しよう」


 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが完全に、そして冷ややかに凍りついた。


 あのどうしようもなく理不尽なシナリオの強制力によって、私は彼の都合良く動くための駒を演じさせられていた。その強制力を自らの意志でへし折った今、彼の台詞の異常さがより一層際立って聞こえる。


 彼は本気で、自分の不確かな感情一つで、これまでの冷遇や搾取がすべて帳消しになると信じているのだ。愛してやると言えば、私がひれ伏して喜ぶとでも思っている。


「お断りします。ペンペルトン卿」


 私は彼から一歩距離を取り、一切の感情を排した声で告げた。


「なっ……なんだと? 僕がわざわざ出向いて、愛してやると言っているんだぞ! お前はそれをずっと望んでいたはずだろう!」


「ええ、かつての私はそのように振る舞わされていたのかもしれません。ですが、今の私にあなたの愛とやらを享受する意志はありません。私がこれまで培ってきた合理的な視点で見れば、自らの致命的な欠落を放置したまま表面だけを取り繕おうとするあなたは、もはや関わる価値のない相手です」

「か、価値がないだと? 貴様、自分に向かって何を言っているか分かっているのか!」

「分かりきったことを言わせないでください。将来的に愛されるからといって、これまでの不当な扱いや、私が費やしてきた膨大な労力が消えるわけがない。後から甘い言葉を並べられたところで、許せるわけがないのです。今さら自身の管理能力の欠如に気づいて縋り付いてきても、もう遅い。あなたの愛に、私を繋ぎ止めるだけの価値など一ミリも存在しません」


 私は心の底からの冷笑とともに、彼という存在を完全拒絶した。


 呆然としていたアーサーの顔が、みるみるうちに屈辱と激怒で朱に染まっていく。自分の思い通りにならない現実と、初めて突きつけられた明確な拒絶。彼の貧弱な自尊心はそれに耐えられなかったのだろう。


「この、分際を弁えぬ女が……! 力ずくでも連れ戻してやる!」


 彼が怒りに任せて腕を振り上げ、私に掴みかかろうとした、その瞬間だった。


「その薄汚れた手を、私の商会の物流統括責任者から離せ」


 低く、しかし絶対的な威圧感を伴った声が響き、アーサーの身体が目に見えない力で弾き飛ばされた。


 石畳に無様に転がった彼を見下ろすように歩み出てきたのは、夜空のような黒髪を揺らすルイスだった。彼の背後には、王家直属の近衛兵たちが音もなく控えている。


「き、貴様は何者だ! 僕はペンペルトン侯爵家の次期当主……」

「次期当主が聞いて呆れるな。自身の生活の基盤すらまともに把握できず、逃げられた元婚約者に路上で暴力を振るう男が」


 ルイスは懐から一つの紋章盾を取り出し、アーサーの目の前に突きつけた。そこには、王族のみが使用を許される双頭の鷲が刻まれていた。


「グランディール商会会長、ルイス・グランディール。そして、現国王の弟たるルイス・ヴァン・アルヴェールだ。お前が今手を挙げようとしたのは、王族たる私が直接庇護を与え、その才覚を高く評価している我が商会の最重要人物だ。事と次第によっては、侯爵家そのものの存続に関わる不敬罪として処理するが、異論はあるか?」

「お、おう、ぞく……? いや、そんなわけ、ありえな……」

「国王に比べれば、まだ身軽な立場だからな。市井の優秀な人材を登用するため、身分を隠して商会を経営していたのだ。部下の働きのおかげで商売は順調、予想以上の事業規模となってしまったのは嬉しい誤算だったが……そして今、侯爵家の醜聞の目撃者ともなったわけだ。これは、兄上に報告せねばなるまいよ」


 アーサーの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いていく。


 絶対的な権力と、自分の行いに対する論理的な断罪。二つの方向から完膚なきまでに叩き潰された彼は、石畳の上に這いつくばったまま、口をパクパクとさせることしかできなかった。


「彼女はお前を見限った。すべてはお前自身の傲慢さと無能さが招いた自業自得だ。二度と彼女の視界にその姿を現すな。去れ」


 王弟ルイスの氷のような宣告により、アーサーは近衛兵たちに両脇を抱えられ、惨めな姿で引きずられていった。


 その後、ペンペルトン侯爵家は彼の数々の失態と王族への不敬により、領地の一部没収とアーサーの廃嫡を決定したという。華やかな物語の中心から転がり落ちた彼の行く末に、私は何の興味も抱かなかった。


 ◇ ◇ ◇


 それから数年の月日が流れた。


 王都の中心部にある巨大な商館の最上階。壁一面の窓から光が差し込む広い執務室で、私は今日も書類の山と格闘している。


「シャルロッテ。君が新しく考案した資金管理の仕組みだが、周辺諸国の支店にも導入が完了したよ。これで資金の流れがさらに透明化される。君の頭脳は我が商会にとっての至宝だ」


 隣の机から、ルイス様が上機嫌な声で話しかけてくる。


「大袈裟です、ルイス殿下。私はただ、数字のズレをなくすための当たり前の手順を整えただけですから。それよりも、次の北方への新規航路開拓の件ですが、物流網の再構築が必要になります」

「ああ、それなら君の負担を減らすために、新しい人員を数名手配した。君は本当に働きすぎるからね。少しは私に甘えて休息をとってくれないと、商会長としての立つ瀬がないよ」


 彼は困ったように笑いながら、立ち上がって私の傍らに歩み寄り、温かい紅茶のカップをそっとテーブルに置いた。


 そこには、理不尽なシナリオの強制力も、一方的な搾取も存在しない。


 互いの能力を認め合い、人間性を尊重し、対等な立場で事業を拡大していく。時に意見を戦わせながらも、決して相手をないがしろにしない。これが、私が自らの手と論理で勝ち取った、本当に価値のある幸福だった。


 窓の外には、抜けるような青空が広がっている。私は淹れたての紅茶の香りに目を細めながら、隣で微笑む完璧なパートナーに、心からの笑顔を返した。

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― 新着の感想 ―
そんなシナリオのゲームを良くやろうと思ったな。 シャルロッテの前世はかなりマニアックな趣味をお持ちで。
原作ゲームの購買対象層がマニア向けっぽい。でもヘビーユーザーでもアーサーが現実の婚約者だと病むと思う。
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