私は今も、魔法を掛けられているのですよ
「酷い目に遭いました。あのデコスケ、今度会ったらタダではおきません」
息一つ乱れていない、少し口の悪いちはやは、あっという間に俺の隣に帰ってきた。俺の様子を見て言う。
「運転を代わります」
「運転はしてないけどな」
俺は自転車に乗れない。物心ついた時から金持ちで、移動手段はもっぱらリムジンだったからだ。自転車の練習なぞ、したことがない。
それはそうと、ひ弱な俺の息は、そろそろぜえぜえひゅうひゅうとなっていたので、ちはやに自転車を明け渡した。
体が軽くなると、考えることが増えてくる。
「ちはや」
「どうされましたか、坊ちゃま」
「気高く生きるというのは、難しいな」
最近、とみにそう思う。
「貧しくとも、これまでと同じような生活をしようと、自転車をリムジンに、椎茸をトリュフに、砂肝をフォアグラに、たらこをキャビアに思おうとしてきたが、なんだか無理がある気がする」
「何を仰いますか、それでは、地獄にいる御白様が浮かばれません」
「お前、本当に俺の父のこと嫌いだな」
ところでちはやは、俺の父のことが嫌いである。死んだ扱いするのは、冗談でも何でもないらしい。本気で言っているとのことだ。
ちはやは静かな瞳で言った。
「当然です。まだ庇護が必要な貴方を一人残して、マグロ漁船に乗り込んだのです」
「そのおかげで、俺は最低限の生活ができているのだが」
「……」
この話題をする時、ちはやの口は重たくなってしまう。いつもは、クールビューティな外面を裏切っておしゃべりなのに。
少し雲行きが悪い。俺は話題を変えることにした。
「そういえば、ちはや。俺はあの女に、妙な魔法を掛けられたようだ」
墓穴を掘った。あの女のことを考えるたびに、なぜか胸が痛くなった。俺は胸を押さえた。
「会うたびに動悸がするし、あの女から目が離せない。何か特殊な魔法が掛けられているに違いない」
マグロ漁船に乗る前の父の知り合いには、そういった類の人々がいた。為政者がスピリチュアルなものを頼りにしている話はよく聞く。俺は確信していた。あの女は、俺に魔法を掛けている。
「それは、精神魔法に違いありませんね」
「わかるのかちはや」
「はい。私もその魔法を経験したことがあります」
「どうやったら解けるだろうか?」
ちはやは、ちら、と俺を見上げた。俺が懸命にちはやを見ると、すっ、と目を逸らされた。俺は愕然とした。
「ま、まさか」
「はい。そのまさかです。魔法を解く方法はありません」
死刑宣告のようなものだった。俺はあの女に会うたびに、体調を崩さなければいけないのだろうか。
「いや待て、ちはやは何ともなさそうだぞ」
「個人差がありますから。いえ、無いかもしれませんね」
「どっちなんだ」
ぴたり。と。
ちはやは、自転車を止めた。丁寧に自転車のスタンドを立てて、俺の手を優しくとる。そうして、ちはやの額に持っていく。
「すこし、熱いでしょう」
「うーん?」
熱いような、冷たいような。ちはやは、基礎体温が低いので、わかりにくい。微妙な俺の返答を予期していたかのように、ちはやは、口の端を間違い探しレベルにすこーしだけ上げた。
「私は今も、魔法を掛けられているのですよ」




