お前がいてくれたからだよ
意志の強そうな瞳、凛とした佇まい。さらりと流れる黒髪。
なぜだか俺は、目の前の彼女を知っているような気がした。俺のこの異様に速い心音も、近年における猛暑日を超えた酷暑日ぐらいの体温も、まるで、「思い出せ」と言っているみたいだった。
あの、敷田ありさという女に掛けられた呪いのような魔法を打ち消すような身体の異常は、けれど、俺に苦痛を与えるだけ与えて、何一つ思い出させてくれなかった。
「……」
それでも、俺は、甘名やよいから目を離すことができない。
彼女は俺に、なにか大事なことを教えてくれる気がする。俺が失ったことを、すべて。
「これは仮定なんだけど」
自分のせいで体調不良レベルマックスになった御鹿を見て、さすがにオロオロしだす甘名やよいを、どのような感情で見て良いのか考えていたちはやに、菊倉が口を開く。
「七年前の記憶と、知らないはずの甘名の存在。矛盾してるから、あんなに苦しんでるんじゃないか?」
「矛盾、ですか」
なるほど、確かに。精神魔法には別の精神魔法で対抗すれば良いと考えていたが、この作戦にはひとつ、欠陥があったらしい。
御鹿には七年前の記憶がない。それなのに、七年前は知らなかった甘名やよいのことを覚えている。その矛盾がぶつかりあって、結果、甘名やよいに対する反応が増幅されたということだろうか。
「だとしたら、もう、手は……」
「いいや、あるかもしれない」
菊倉は、ちはやの背後を指差した。
ちはやはあの時の甘名やよいのように背後を振り返り、そこに誰もいないのを確認して、きょとんとした。そしてその後に笑った。随分情けない笑い方になってしまったと思う。
「私、ですか」
何を今更、ちはやでは、御鹿のことを取り戻せなかったのに。だが、菊倉は真剣だ。
「甘名のおかげで榎は今、矛盾でぐらついてる。ほら、あるだろ思い出のひとつやふたつ。ちはやちゃんは、その矛盾を埋める係だ。昔と今を繋げて、榎に“思い出させる”のは、君しかいない」
「で、でも、私の力では」
「これは俺の持論だが」
ちはやの言葉を遮って、菊倉は、ちはやのことを、真摯に見据えた。
「小学校からの付き合いの、メイド服着た可愛い幼馴染がいたら、絶対好きになる」
「……は?」
時が止まったかのような錯覚。あまりにもバカなことを言い出した菊倉は、拳を握って熱弁。
「何も思わないなんてあるわけないだろ!」
「だって、坊ちゃまは、わ、私のことなんて……自転車に乗る時、胸でも腰でもって言っても無反応だし……お風呂上がりでちょっと攻めた服着ても無反応だし……」
「何してるんだお嬢様」
呆れたように言う菊倉。「そうだそうだ」と便乗する御白の方を睨む。
「そんだけセクハラしても追い出されてないってのは、ちはやちゃんのこと悪く思ってない証拠だろ」
「坊ちゃまは、私がいないとすぐに餓死してしまうので……」
「答え、出てるじゃねえか」
ぽん、と肩を叩かれる。
「榎は、君がいないとダメなんだよ。不本意なことにな」
「坊ちゃま!」
悲しそうな顔をしていたちはやが、俺の目の前に来て、何かを差し出した。
「これ、何だと思いますか!?」
「と、とりゅふ」
敷田ありさの催眠で、俺はしいたけのことをトリュフと言ってしまう。でも、なんだか、違う気がする。知らない女の声が心の中で呟く。「貴方にそれを教えたのは誰?」。
「ふふっ、そこは、変わっていませんね。私が教えた通りです」
ちはやは嬉しそうに笑った。俺はちはやの、数少ない笑みが好きだ。潜むような笑みでも、今のような、目を細めて穏やかに笑うものでも。
「……ちがう」
頭の奥で、光がチカチカと明滅する。
六畳半の畳の部屋。誰かの声がする。
『お屋敷にはもう住めないので、これからは、ここに住みましょう』
カーテンも何もない部屋。朝は強制的に朝日に起こされて、何度も使ったティーバッグでうっすい紅茶を淹れる。
『え? 気高く生きるには、どうすれば良いか? そうですね、今食べているものを、トリュフと思ったらいかがでしょうか?』
しいたけがトリュフだと教えてくれたのは、敷田ありさじゃない。
俺が、しいたけをトリュフだと思えたのは。
「お前が、いてくれたからだよ。ちはや」




