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何が足りないというのだろう

そのとき、ちはやの脳内に電流が走った。


ちはやの掛けた精神魔法を解いた甘名やよい。彼女であれば、この状態の御鹿も、あるいはーー!


ちはやはきつく拳を握った。自分では力不足だとわかっていたからだ。結局、御鹿に掛けられた呪いを解くには、彼女の存在が不可欠なのだ。


「来てください」

「えっ」


やよいの手をとって、御鹿の前に立たせる。


「わかりますか、坊ちゃま。この女は、坊ちゃまに精神魔法を掛けている、甘名やよいです」

「アマ、な……あまな、ヤヨイ……」


心を無くした怪物が、人の心を取り戻すフラグのように。


御鹿は、片言でその名前を呟いた。ちはやとの約束を忘れても、過ごしてきた七年間を忘れても、その恋心は、御鹿の中で消えはしないのだ。


「うっ、胸が痛い……どうして、こんなに切なくなるんだ」 

「私に聞かれてもわからないわ」


無自覚な救世主である甘名やよいは、クールに答えた。


「貴方はいつもそうね。私と会うたびに、奇行をする。胸を抑えたり、頭を抱えたり、顔を真っ赤にしたり」

「……ちはやちゃん」


ここでやっと、御白が動揺を落ち着かせ、しらーっとした目でちはやを見る。 


「君、七年間何をしてたの?」




御白もわかってしまったらしい。自分の息子が、ちはやではなく、目の前の甘名やよいに恋をしてしまっていることに。


そして今、一所懸命掛けた催眠が、ぽっと出の(一応は関係者だが)女の子に解かれようとしていることに。


「俺の懸念は君だけだった。君のことだ、御鹿をうまく惚れさせてると思っていたのに、なに掻っ攫われてるんだ」


至極真面目なトーンで詰められて、ちはやは目を泳がせた。


「ううう、うるさいですね、うまくいかなかったことを、私の能力のせいにしないでください。リサーチ不足が原因でしょう」

「海の上からだと情報が限られてくるんだよ。最初は日常のことを返信してくれてたのに、いつのまにか御鹿は返信してくれなくなったし……」

「それは、貴方がマグロの写真を大量に送ったのが原因でしょう」


完全に自業自得だ。どうしてマグロの写真なんか送ったのだか。


「だ、だって、御鹿、水族館行った時、マグロの群れをじっと見てたし……御鹿は、マグロが好きだよな!?」

「ううん。あんまり」


かわいそうな父親である。催眠したがために、御鹿が嘘をついたという言い訳は使えない。両手を地面について「そ、そんな」と動揺している。


「お父さんが、好きそうだったから、見てただけ」

「……俺が?」

「うん。お父さん、俺よりもマグロを見てたよ」


それはそれで最低な話である。ちっちゃな頃の御鹿を罪悪感で縛ろうとしたメイドが言うことではないのかもしれないが。


ちはやは、鼻で笑った。


「なにが親子の語らいをする、ですか。ディスコミュニケーションにも程があります」

「勝ったような顔をしてるけど、ちはやちゃんは負けてるからね」

「負けてて結構です。御鹿様を、取り戻せるのなら」


ちはやは、恥も外聞もなく、甘名やよいを、ずいっと御鹿の前に突き出した。


「さあ、思い出してください坊ちゃま。私と過ごした七年間を」


どういうわけか、催眠には綻びがある。やよいを前にした御鹿の反応が、それを顕著に語っている。


精神の退行。それが、榎御白のかけた魔法ならば、恋という精神魔法で解いてやるしかない。


「それで、この馬鹿げた茶番も、終わりです」


熱く込み上げるものが、ちはやの中にあった。なにも、馬鹿げた茶番は、今のこの出来事だけを指しているのではない。


「さようなら、坊ちゃま……」

「うぐぅ、頭が、割れるみたいだっ」

「坊ちゃま……」

「心臓がありえないくらい脈打ってるやばい、血管が収縮して血圧がありえないくらい高くなってる、体温が四十度ある」

「ぼ」

「ぜえ、はあ、ぜえ、はあっ、ちはや、今までありがとう」


急いで甘名やよいを引き剥がすと、少し体が楽になったようだ。


「一時期はどうなるかと思ったが、俺の勝ちなようだね、ちはやちゃん」


勝ち誇った顔をしているのに、榎御白の顔は真っ青だった。それはそうだ、最愛の息子が体調に異常を来したのだから。


「ととと、とにかく、その子を御鹿に近づけないでくれるかな……いろんな意味で、お願いだから」


切実なお願いである。ちはやとしても、そうする気はない。


「近いところまでは、行った気がしたのですが」


魔法を解くには至らなかった。


一体、何が足りないというのだろう。

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