特に、誰もいないのだけれど
権蔵も、桃歌もいなくなった屋敷で。
俺はちはやに呪いをかけた。
「ちはや、ちはやは、俺と一緒にいてくれるよね?」
残酷な質問だった。なんにもなくなった俺と、佐鳥家の大切な後継のちはや。メイドを通して礼節を学びに来ているだけで、その気になれば、いつでも出ていくことができる。
「ちはや、ちはやぁ……」
その日だけは、気高さも忘れて俺は泣いた。同い年の女子に縋るなんて、みっともないことこの上ない。今だったら、今ってなんだっけ、とにかく、もう少し歳をとった俺なら、こんなことはしない。
「坊ちゃま。私は、ずっと、坊ちゃまのおそばにおります」
ちはやは俺の頭をかき抱いて、ぎゅっと抱きしめてくれた。その体は震えていた。当然だ。
そのとき(そのときってなんだっけ)、ちはやの顔は見えなかったけれど、きっと、泣きそうな顔をしていたに違いない。あんなに震えていたんだから。
俺があのときするべきだったのは、呪いを掛けることなんかじゃなかった。
ちゃんと、ちはやの顔を見て、こう言うべきだったんだ。
「大丈夫だよ、ちはや」
あの頃の笑顔と変わらないままで。榎御鹿は、ちはやの肩に手を置いていった。
「一人でも、俺は生きていけるから」
目の前にいるのは、彼女を知らない彼。だけど、なにかが、徹底的に違った。
目の前の御鹿は変わらず優しい笑みを浮かべたまま。
「だから、もう、自由になっていいんだ」
「坊ちゃま、言っている意味が、わかりません」
「? ちはや、どうして震えてるの?」
高校生の姿の御鹿は、ちはやの肩に手を置いた。目線が高い。あの頃はおんなじくらいだったのに、いつのまにか、こんなに大きくなってしまった。
「君は罪悪感で御鹿を縛っていたみたいだけど、それが仇になったね」
榎御白の言葉で、あの日の光景が蘇る。
使用人たちが全て屋敷からいなくなった日。自分に縋りつく御鹿に、ちはやの体は震えていた。
恐怖や困惑ではなく、「やっと手に入れた」という歓喜からだ。
一目惚れだった。
パーティー会場で、誰かれ構わず話しかける男の子。友達を作るのだと、佐鳥の自分にも話しかけてきた平凡な男の子。
後で知ったのは、その子が、かの有名な榎家の跡取りであること。歴史や地位では佐鳥に及ばないけれど、お金はたくさん持っている。だから、お金ではその子を買えない。
考えに考えた末、ちはやは、メイドとして、御鹿のそばにいるようになった。
メイドだったら、どこへでもついていける。榎家の子息に群がろうとする大人や子供から、御鹿を守ることができる。いつでも側にいることができる。
それだけで良かったのに、ENOKIコーポレーションが経営破綻して、御鹿が手の中に転がり込んできた。ちはやは、震えに震えた。
その震えが、いまや、恐怖や困惑に変わってしまっている。
手に入れたものが、なくなってしまう。
「坊ちゃま、私は、ずっと坊ちゃまのおそばにいると、約束したではありませんか……!」
「そんな約束はしてないよ」
御鹿の肩を掴む手に力が入る。榎御白をぎっと睨む。この男は、ちはやの宝物を……。
「だからさ、ちはや。ちはやは、思う通りに生きていて良いんだよ。できれば俺のことを忘れてくれると嬉しいな」
そんなことを言うはずがない。だけど、優しい主人に罪悪感を植え付けたのはちはやだ。それなら父親の言った通りにしろと、わざと間違った金持ち像を植え付けたのは、ちはやなのである。
「……っ!」
すべて、後悔しかなかった。側にいられるだけで幸せだと、それ以上に手を伸ばさなければよかった。
「それが、ちはやにとっての幸せで……うっ、胸が!?」
「坊ちゃま!?」
突然胸を抑えて苦しみ出した御鹿に、ちはやは大慌てだった。
「これは一体、どういうことですか!?」
「いや、それは俺にもわからない」
語気を荒げるちはやに、榎御白は本格的に困惑しているようだった。
「催眠には安心安全後遺症もないように、慎重を期したんだ。そのために、ずっと良い術師を探してきた。大切な息子だ、御鹿、御鹿」
御白が御鹿の背中をさする。
「もしかし、たら……あの人が、原因かも」
御鹿は、ぜえ、はあ、と荒い息で、とある方向を指差した。
全員が一斉にそちらを見る。指さされた甘名やよいも自分の背後を見て、首を捻る。
「特に、誰もいないのだけれど……」




