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まだ彼女を知らない彼が

ばぁん! と音を立てて扉を蹴破る。


「お嬢様……」などとボソッと呟く菊倉は、自分も既定路線を外していることに気付いていない。


「やあ、遅かったねちはやちゃん」


ちはやの懸念を肯定するように、扉の中で待っていた榎御白は薄寒い笑みを顔に浮かべていた。遅かったね、とは、すでに何かが終わっているという意味だ。


ちはやは、姿勢を低くした。 


「御鹿様に、何かしましたね?」

「何もしてないさ。ただ、親子の語らいをしようとしているだけだ」


七年前に息子を広い屋敷に置き去りにしておいて、よく言う。今更親子の語らい? 


だから嫌いなのだ、この男は。人をなんとも思っていない。自分が呼べばすぐしっぽを振って来ると思っている。

自分がメールを送れば、七年のわだかまりなんかすぐに解けてハッピーエンド。おめでたい頭だ。


だが、おめでたいだけの頭でないことは、ちはやは十分にわかっている。ここからは慎重に動かないと……影が動く。


「榎、御白……」


ちはやの隣で複雑そうに呟くのは、ここまで連れてきてしまった(ついてきた)甘名やよいである。 


彼女は、きっと眉を吊り上げた。


「貴方、一体どういうつもり? 会社をわざと破綻させて、御鹿君に辛い思いをさせて」

「その点に関しては悪いと思っている。けれど、優秀な父君が会社を建て直してくれたじゃないか」

「私は理由を聞いているのだけれど?」


ばっさあ、と甘名やよいは長い黒髪を手でかき分ける。


今更だが、ここは船内。そろそろ電波の届かなくなる敵地である。下手すれば海の藻屑というのに、彼女は怯えずに、御白に立ち向かっている。


ちく、と、ちはやの胸が痛んだ。煩悩だらけで策謀だらけの自分よりも、こうして、相手のことをまっすぐに捉えて、最大限に良心を発揮できる女の子。


ちはやとは正反対の女の子に、御鹿は、恋をしているのである。


「……破綻させたかったから破綻させた。それ以上でも、それ以下でもない」


そして、甘名やよいの考えなしの行動は、少なからず、御白を動揺させたらしい。嘘くさい笑みで、手を広げて言う。


「だって、そのほうが面白そうじゃないか!」

「貴方の行動は、たくさんの人に迷惑をかけた」


愉快犯さながらの御白を、正面切って断罪するやよい。


「一時的に取引先を失った会社もあった」

「だけど君の父君は、それらを取りこぼさなかった」


穴を掘って埋めた。元通りにしたから良いじゃないか。


御白の口調は、そのようなものだった。

穴の中に埋まっていた生き物なんて、意にも介さない。もっと言えば、穴の中に埋まっていたのは、彼が七年越しに語らおうとする息子であることに、彼は気付いていない。


イライラした様子で、菊倉が言う。


「それで? 榎はどこなんすか、御白さん」

「ちょうどよく時間稼ぎできたことだし、案内するよ」


やられた。最近のちはやは、ずっと心の中で舌打ちしている。


「ちっ」

「ひぃっっ!?」


なので、態度に出してやると、あれだけ気丈だった甘名やよいがびくっと震えた。


「くだらない会話で時間を稼がれました。榎御白自身が私たちの前に現れたのは、囮役になるため……」


もちろんこれも彼の術中なのかもしれない。手遅れだと思っていたものが、実は手遅れではなくて、けれども今まさに手遅れになってしまった……そんな絶望感を抱かせるための。


「どうした? 入らないのか?」


ドアノブに手をかけた御白が、見透かしたように言ってきたので、ちはやはドアを蹴破った。


「ここ海の上だから、できればドアは壊さないでくれると助かるな……」


ぼそっと御白が呟くのも構わず、ちはやは、一目散に、部屋の中にいる大好きな少年のもとに向かっていく。


優しく肩を揺らす。


「坊ちゃま、助けにきましたよ。貴方のちはやです」


いつもなら、少し引いた顔をして挨拶をしてくれるはずだ。


いつもなら……。


「うん。おはよう、ちはや」


だが、満面の笑みで、御鹿は返事をしてくれた。


七年前、まだ照れを知らない小学生の御鹿が、そこにいた。


まだ、彼女を知らない彼が。そこにいた。

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